傍にいられるなら、犬でいい【1】

 降り注ぐ日差しが温かくなり、『四宮』の裏庭にある桜の木にはつぼみが膨らみ始めた。春はもう目前である。

 小料理屋『四宮』の定休日である木曜日。仕事が偶々休みだったわたしは、梅之介とふたりで映画を観に出かけていた。


「すっごく面白かったな! ラストのさ、マチコの首がぐるんって回るとこの表情、切なさと気持ち悪さが絶妙だよな」

「呪い殺そうとするセツコの憎悪と、逃げてっていうマチコの苦しみが入り混じってて、鳥肌立った! タクトがあの表情の奥にいるマチコに気付かないのが腹が立つよね。セツコの転生を防ぎ切れなかったのは、タクトのせいだと思う」

「だよなだよな! あいつ、顔だけで本当に役に立たないよな。あそこでマチコの気持ちを分かって抱きしめてやれば、きっとどうにかなったんだよ」


 世間ではB級と名高い和製ホラー『セツコに気付いて』を観てすぐのわたしたちは、パンフレットを握りしめて熱く語っていた。

 グロだの展開が強引だの、セットが安っぽすぎるだの、世間様ではあまり人気のない本作だけれど、この作品の本質はそんなところにないのだ。

 殺人鬼『セツコ』の霊に取りつかれてしまった『マチコ』の辛くも悲しい純愛というのがこの映画のテーマなのである。


 平凡な大学生マチコ。マチコはある日、大正時代に三十四人もの人を殺めた伝説の殺人鬼セツコに取りつかれてしまう。自我をゆっくりと奪われたマチコは、湯余曲折の果て、自分を救おうとしてくれた寺生まれのタクト(恋人)を殺めてしまう。そのショックでマチコは完全にセツコに体を奪われてしまい、セツコが肉体を持って生まれ変わってしまった。これから、世界がセツコに震撼する。恐怖の二作目を待て! 

 というのがまあ、大ざっぱなストーリーだ。


「血塗れタクトの死体を抱きしめたマチコの瞳から、血の涙がすっと流れるところ、もらい泣きした。あの一筋の血が、マチコの最後の意思なんだよね」

「お、そこが分かるか! 偉い」


 梅之介がわたしの背中をバンバンと叩く。


「僕、映画の趣味が合う奴に初めて会った。みんな、一緒に観に行ってくれなくってさー。眞人だって嫌がるし」

「わたしもいつもひとりで観に行ってた。DVD観るときも大抵ひとりだなあ」

「休みの前日の夜に観るのなんか、最高だけどなあ」


 梅之介とわたしの映画の趣味が同じだと分かったのはつい最近のこと。たまたま借りてきたホラー映画に梅之介が反応したのだった。

 それから話は盛り上がり、休みが重なったこの日、どうしても観たいと思っていた映画に一緒に行くことになったのだ。

 眞人さんも誘ったのだったが、「終始画面が赤いようなもん、嫌だ」と言って来なかった。そんなにしょっちゅう赤くないのに。まあ、比率としては高いかもしれないけど。


「あー、お腹空いたな。何か食べよう。何がいい、シロ」

「うーん、眞人さんが作らないやつ」

「だな。じゃあパスタは?」

「食べたい! あと、デザートにパンケーキのある店がいい!」

「はいはい。シロはホントに食いしんぼだよね。さっきもポップコーンたいらげてたくせに、甘い物も食べるんだ」

「む、いいじゃん」

「いいけどさ。じゃあこの先にスイーツの美味しい店があったはずだからそこにしよっか」


 梅之介は、最初の頃に比べてぐんと優しくなった。相変わらずわたしのことをファンキーブスとか綿埃とか呼ぶけれど、そこに棘はない。まあ、嫌っていたら一緒に出掛けることなんてしないだろう。


「ああ、美味しいねえ」

「……本当に、パンケーキまで食べてるよ。お前、胃袋どうなってんだ」


 ペンネアラビアータを美味しく頂いたわたしは、次はベリーと生クリームがたっぷり乗ったパンケーキと向かい合っていた。

 ふわふわのケーキに滲み込んだはちみつと生クリーム、それとベリーの酸味が折り重なって顔が綻ぶ。この甘さを想定してエスプレッソを頼んでいたのだけれ

ど、正解だ。


「一口ちょうだい」 


カフェラテしか頼まなかった梅之介だったが、気になったらしい。わたしの手からフォークを取り上げ、大きく切り分けたケーキをぱくんと食べた。


「あま! けどまあ、美味い」

「でしょー。あ、」


 手を伸ばして梅之介の口元に触れる。

「生クリームついてる」


 梅之介の口の端についた白いクリームを指先で拭った。


「ふふん、いつもわたしに綺麗に食べろなんて言うけど、自分もじゃ……」

 指先に乗った生クリームを水戸黄門の印籠よろしく見せようとしたわたしだった。

 が、言葉を途中で見失った。梅之介がわたしの指先に舌を伸ばし、ぺろ、と舐め摂ったのだ。ざらりとした感触が残る。


「はい、証拠隠滅」


 びっくりして固まったわたしに、ふふんと梅之介が笑う。


「し、信じらんない! 卑怯!」

「何とでも言え」


 全く、なんてことをしてのけるのか。思わず顔が赤くなってしまったじゃないか。


「もう梅之介にはケーキ分けてあげないから!」

「もういらないよ。顔真っ赤にせずに、食べなよ」

「むか! そういうことは気付かないフリしてよ! ていうか、無反応でいられるわけないじゃない!」

「ふ、そっか。無反応じゃないか」

「当たり前でしょ!」


 ぷんかぷんかと怒ってパンケーキを食べるわたしを、梅之介が笑う。その顔はやっぱり以前より格段に優しくて、それを見ていたら、まあいいか、だなんて思ってしまう。


「欲しかったらケーキ分けてあげる」


 そう言うと、梅之介は「シロみたいにデブになるからいらない」と言った。やっぱりムカつく男だ。

 のんびりと食べながら、話はさっき観た映画の話に戻る。


「気付いたら体を乗っ取られてるって、怖いよねえ」


 マチコは、自覚のないまま体を奪われていくのだ。気付いたときにはすでに遅く、マチコの体の奥深くまでセツコの魂が入り込んでしまっていた。


「ああ。本当にね。急にがばっと来られるなら警戒できるし、対応もできる。だけど、ゆっくりと、気付いたらっていうのは本当にタチが悪い。対応できないし、もう手遅れなんだからな」


 タチが悪いよなあ、と梅之介がため息交じりに言う。

 その口ぶりはどうしてだかしみじみとしていている。


「なんか実感籠もった口調だね。どうして?」

「僕が、マチコに共感できてるってことだよ」


 ちらりとわたしを見て言う顔に、冗談の色はない。


「は? 梅之介、悪霊に憑かれてるの?」

「……そうかもね。いやきっとそうなんだろ」


 はあ、とため息をつく梅之介。何のことだか。


「せめてこれってきっかけがあれば、気付けたのになあ。困るんだよな」

「なんのことよ」

「なんでもない。ほら、デブを邁進すべく、食物摂取しろ」


 本当に口の減らない男だ。最近はちゃんと体重管理できているのだ。たまの息抜きが必要なんだから。わたしは怒りながらも、パンケーキをしっかり完食したのだった。

 眞人さんのお土産に芋羊羹を一棹買って、わたしたちは帰路につくことにした。

 わたしの手から老舗の和菓子屋の紙袋を取って、梅之介が言う。


「お土産って言っても、お前も食べるんだろ」

「もちろんだよ! ここの芋羊羹、すっごく美味しいんだよ。濃いめに淹れたお茶と合わせると、最強」

「結局、自分の為に買ったのかよ?」

「違うよ。眞人さんってああ見えて和菓子が好きなんだよ。特に、芋と栗を使った物が好きなんだ。お節の栗きんとんが大量にあったのは、眞人さんが大好きだからだよ」


 鍋いっぱいの栗きんとんは、わたしと眞人さんの胃の中にあっという間に納まったのだった。わたしの正月太りは、あの絶品栗きんとんが原因の一つに違いない。


「ケーキでも、モンブランなら食べてた」

「へえ、知らなかった。よく見てるな」

「まあね」


 梅之介が、ふっとわたしを見下ろす。


「ん? どうかした?」


 梅之介が、ゆっくりと口を開いた。


「お前さ……、眞人のこと、好きになったんだろ」

「え」


 思わず、足を止めた。梅之介も、足を止める。雑踏の中で、顔を見合わせる形になった。


「え、ええと、その」

「誤魔化すなよ、分かってるんだぞ」


 梅之介の口調は、既に確信していた。


「眞人のこと、好きになったんだろ」


 嘘をつくことも出来ないようだ。諦めて、こくんと頷いた。


「そ、そんなにわたし、あからさまだった?」


 それから、おずおずと訊いた。もしかしたら、わたしの気持ちは眞人さんにまで伝わってしまっているのだろうか。それは困る。

 梅之介は「眞人は気付いてない」と言った。


「だけど、僕は分かったんだよ」

「そ、そか。よかった。眞人さんに気付かれてたら、わたし、どんな顔をして帰っていいのかわかんなくなっちゃう」


 この気持ちがバレてはいけないものだってことは分かってる。だから、絶対に想いを察知されまいと気を付けていたのだ。梅之介に気付かれたのは想定外だったけど、まあ良しとしよう。

 僅かに安心したわたしを見て、梅之介が大きくため息をつく。


「あんなに忠告したのに、ホント、シロはバカだ」

「う……」

「眞人に告白しようとした女たちがどういう対応されたか、見ただろ。なのに、バカだよ」

「そ、それは知ってる。だけど、眞人さんのあの特別な優しさは反則だもん……」


 いつも美味しいご飯を口に放ってくれて、笑いかけてくれて。眠れないときには一緒に眠ってくれる。わたしを安心させるように、腕の中にぎゅっと抱き留めて。

 そして、困った時には必ず助けてくれる。

 しかも、わたしだけに。

 そんなひとを好きにならずにいられることが、どうやったらできるっていうの。

 もぐもぐと言って俯いたわたしに、「まあ、それは分かるよ」と梅之介がため息交じりに言った。


「眞人はひと嫌いなくせに、僕たちに対しては異常なくらい甘いんだよな」


 梅之介の言葉に頷く。そうなのだ。誰にでも同じように優しいのならまだ、そういうひとなのだと思うことができただろう。

 だけど眞人さんは、わたしと梅之介にだけ、優しいのだ。


「眞人さんに拾われた『飼い犬』っていう立場がキーポイントだとは、思うんだけど」

「まあ、そうだな。眞人に面倒を見てもらってるって部分がデカいのかな」


 梅之介の言葉に頷く。わたしたちはきっと、眞人さんの庇護下にいるのだ。だから、無条件に優しくしてもらえている。


「眞人さんは、元々はひと嫌いなんかじゃないよね」


 きっと本来は、すごく優しいひとなのだ。ただ、何か理由があって、その優しさをひとに向けたくないと思うようになった。


「何か、理由があるんだよ。他人に、必要以上に関わり合いたくなくなった理由が」

「理由、か。あるんだろうなあ……」


 梅之介が腕組みをして考え込む。


「梅之介は付き合いが長いじゃない。何か分かんないの?」

「わっかんね。僕の事情はあいつに話したことあるんだけど、眞人は訊くばかりで自分の話したことなかったしなあ」

「ふうん」


 そっか、と肩を落とす。梅之介が少しでも事情を知っていたら、答えに近づけるのに。

 と、ふと気が付く。


「ねえ、梅之介の事情って、いつか私にも教えてくれる?」

「……まあ、いつか、機会があればな」


 あんまり楽しい話じゃないんだよ、と梅之介は言った。その口調は苦々しくて、わたしはまだ訊いてはいけないことだったと反省する。

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