拾われたわたしの、新生活【10】

 数日後、松子と出勤が重なった。

 先日のことがあったからか、松子はわたしと目も合わさない。何か言われるよりそっちのほうが余程楽なので、わたしは黙々と働いた。そのお蔭で、トラブルも何もない一日を過ごすことができた。


「空気は、異常なくらい張りつめてたけどね。あんたたちが接近するたびに、こっちは冷や冷やしてた」


 閉店作業の当番はわたしだったけれど、真帆が手伝ってくれたので早く終わることができた。更衣室に向かいながら言う真帆に、へらりと笑ってみせる。


「喧嘩なんてしないよ。松子ももう、何もしてこないでしょ」


 松子にはもう、わたしを傷つけることはできない。だから、大丈夫。


「あら、妙にすっきりしてるのね」

「まあね。もう、気にしないようにしようと思ってる」

「いいことじゃない。どうせ、あとひと月程度のことだもんね。気にしないようにしたほうがいいよ」

「うん。お疲れ様でーす」


 更衣室に入ると、空気が重苦しい。見れば、松子がまだ着替えている最中だった。他のスタッフも松子とは距離を取っているので、変な沈黙が広がっていたのだ。


「おつかれさまー」


 数人の子がわたしたちに声をかけてくれる。しかし松子はわたしを見ることもなければ、挨拶をすることもない。わたしもまた、彼女の方は見ないようにして後ろにいた真帆に笑いかけた。


「さ、着替えて帰ろう」


 こんな場はさっさと離れたほうがいい、と手早く着替えを済ませた。

 しかし、早く着替えすぎたらしい。ほぼ同時に、店を出ることとなった。


「逆に遅らせた方がよかったんじゃないの、白路」

「うん……、間違えたね、わたし」


 先を歩く松子から少し離れて歩く。通用口をでた、そのときだった。


「どうしてこんな所にいるんですかぁ⁉」


 先に出た松子の大きな声が耳に届いた。


「達也、まだ来てるんだ。いい加減、だっさ」


 真帆が苦々しく呟くが、わたしは首を傾げる。松子の声には棘なんか全然ない。むしろ喜んでいるような響きがあった。


「達也がいたら無視しな、白路」

「うん、もちろん。って……」


 外に出た私は、目を疑った。

 そこには、眞人さんが立っていたのだ。

 なんで? お店は? って、ああそうか、今日は木曜日。定休日だ。でもどうしてこんなところに眞人さんがいるの?


「眞人さん! やだ嬉しい! 梅之介くんが私の勤め先やシフトを訊いてきたのって、もしかして……⁉ やだ、どうしよう」


 さっきまでの無愛想ぶりが嘘のようにきゃあきゃあと声を上げた松子が、近くにいた結川さんに「このひとが私の言ってたひとなんです」と笑いかける。結川さんは「へえ」と気のない言葉を返した。


「うわ。例の、狙ってた男ってあれか。確かに、クズ達也よりレベルが上だわ」

 

 わたしの横にいた真帆が苦々しく言う。


「どうして松子ってあんなに順風満帆なんですかね。狙った男は外さないって、スナイパーすぎでしょ」


 近くにいためぐみがそう言って、「でもあれは羨ましいかも……」と続けた。

 わたしは、目の前の光景を呆然と見つめていた。

すらりと背の高い彼に良く似合った、ベージュのジャケットに黒いシャツ、デニムのボトム。印象的な黒い瞳は夜だというのにその魅力を削られることは無くて、どころか冴えている気さえした。

 そんな彼がのんびりと煙草を燻らせる仕草は、目を奪われるに十分だった。細く吐きだした紫煙が冬の空に溶け込んでいく。

 眞人さんが視線を投げる。切れ長の瞳が松子の姿を捉え、そして。


「迎えに来た」


 携帯灰皿にタバコを押し付けて消した眞人さんは優しく言って、そして柔らかく微笑んだ。


「帰ろう、白路」


 眞人さんの目は、松子の後ろにいるわたしを真っ直ぐに見つめていた。


「え⁉」


 わたしの両脇にいた真帆とめぐみが短く声を上げてわたしを見る。

 眞人さんは松子の横をするりと通り抜け、わたしに手を伸ばした。動けないわたしの後頭部に手をまわし、ぐいと引く。広い胸元にぽすんと顔が埋まった。

 くしゃくしゃと髪を撫で、「今日もお疲れさん」と眞人さんが言う。


「お、お疲れさま、です」


 なんでどうしてという言葉ばかりが頭を巡る。一体何がどうしたらこんなことになるの。


「白路の同僚の方ですか? いつもお世話になっております」


 頭の上で、眞人さんのにこやかな声がする。それから少し遅れて、「あ、いえそんな! い、いつもお世話してもらっています!」とめぐみの声がした。


「眞人さん⁉」


 叫ぶような声がして、それは松子の声だった。


「ど、どういうことですか⁉ どうして眞人さんがそのひとと⁉」


 眞人さんの手が緩み、顔を上げたわたしは松子を見る。松子は顔色を変えてわたしを睨みつけていた。その表情の険しさに、思わず身を固くする。


「あれ? 俺のこと知ってるんですか?」


 眞人さんが不思議そうに言い、首を傾げる。


「どこかでお会いして……ああ、もしかしてお店にいらしてくれたことがありますか?」


 ぱっと笑顔を作り、眞人さんが会釈する。


「すみません。どうも、お客様の顔を覚えるのが苦手で。ご来店ありがとうございます」

「な、何言ってるの? 私、あんなに通って……」


 松子の手がわなわなと震えている。結川さんが「ほお」と大きな声を洩らした。


「それに、どうしてその女と⁉」

「どうして、って。それは、白路が俺のものだからですね」


 背中に腕が回り、抱き寄せられる。こめかみに、温もりが触れた。

 ……え? な、に……。


 眞人さんの唇だ、と気が付いたのは、それが、ちゅ、というリップ音と共に離れたからだ。ジンジンとした熱と、煙草の香りがわたしに残って、事実だったことを主張する。

 だけど、理解できない。いま、わたし、眞人さんにキスされた?


「とても大事なひとなんです。なので、仲良くしてあげてください。お願いしますね」


 頭の上から、ありえない言葉ばかりが降ってくる。

 頭の中は既にまっしろ。思考は完全にフリーズしてしまった。

 多分わたしは、パラレルワールドに放り込まれたのだ。じゃなければ、こんなことが起こり得るはずがない。


「さ、帰ろうか。白路」


 眞人さんが言って、真帆やめぐみに頭を下げる。


「あなたたちも、白路をお願いしますね」


 顔を真っ赤にしためぐみと真帆がコクコクと頷く。


「じゃあ、失礼します。行こう、白路」

「は、はひ……」


 眞人さんにほぼ抱きかかえられるようにして、その場を後にした。

雑踏の中を並んで歩く。動揺が収まらないわたしは眞人さんに支えられなければ満足に歩けない状態だった。


「え、えと、ええと……」


 訊きたいことは色々あれど、どこから聞けばいいのか分からないし、満足に言葉を紡げる状態ではない。眞人さんの顔を下から眺めては、口をパクパクすることを繰り返した。


「眞人! サイコー!」


 そんなとき、大きな声でわたしたちに抱きついてきたのは、梅之介だった。


「すっごくよかったよ! あの女、言葉も出ないって感じだった。あー、もっと近くで見たかった」


 あはは、と楽しそうに笑う梅之介は、目じりに滲んだ涙を拭って、わたしの顔を覗き込んだ。


「うわ、大丈夫かよ、シロ。意識がぶっ飛んでない? いつもより五割増しくらいで間の抜けた顔してるけど」

「な、な、なんで梅之介まで、ここにいるの⁉」


 いつもの毒舌を浴びせられて、ようやく我に返る。この流れって、一体何なの!

 梅之介が、ふふん、と悪戯っぽい顔をした。


「なんで、って。『まっつん撃退作戦』の参謀としてだよ」

「は?」

「お前があんまり情けないからさ、僕たちでどうにかしてやろうって思ったんだよ。で、お前の話を総合して判断した『松子』なら、このやり方が一番クルんじゃないかなって。で、ビンゴ! いや、眞人たちの背中を見るあの女のあの顔、僕しか見てないなんてなー」


 ふたりの計画だった、ってこと?

 眞人さんを見上げると、彼もまた楽しそうに笑っていた。


「がっつり参加したとはいえ、よくもまあ、こんなこと思いつくよな」

「眞人はさ、こんな計画は性格悪くないか、なんて言ってたんだ。だけど、お前があの女にされたこと考えたら手ぬるいくらいだと思うね」


 ふん、と梅之介が鼻で笑う。それから、わたしを見て「ありがとうと言え」と言った。


「もう、お前を悩ますものは何もなくなったぞ。僕の予想だと、あの女はもう仕事に来ない。こんな赤っ恥かかされて、平然と出てこれないだろ。もちろん、店にも来ない!」


 ふふーん、と自慢げに胸を張る梅之介。その誇らしげな顔をしばらく見つめる。無言のわたしに気付いた梅之介が眉根を寄せた。


「何だよ、不満かよ。勝手にやったこと怒ってんのか? だけど、お前はグズっぽいから演技とかできないだろ」

「……りがと」

「は?」

「ありがとう……」


 怒るわけがないじゃない。だってわたし、性格が悪いと言われようと、何と言われようと、嬉しい。わたしのためにふたりが動いてくれたことが、嬉しい。

 溢れる涙を、手の甲で拭った。


「うわ、また泣くし! お前な、子どもじゃないんだから、そのユルユルな涙腺、どうにかしろ! 」


 梅之介がぷいと顔を逸らした。


「わ、わたし、うれし、くて……。ありがと……」

「お前が毎日景気の悪い顔してるから、もう見たくなかったんだよ! あ! 嫌でも視界に入るから、迷惑だったってことだからな! それに、あの女のやり口が気に入らなかっただけだからな!」

「ん、うん」


 泣きながら、コクコクと頷く。


「ほら、シロ」


 眞人さんが、わたしにハンカチを差し出してくれた。それを受け取って顔を埋める。


「眞人さんも、あり、がとう。わたし、すごく、うれし……」


 眞人さんの手が、頭に乗る。


「飼い犬だもんな。幸せになれるようにするのは、飼い主の務めだ」

「は? なにこいつ、そんな立場になったの⁉」

「ああ、変わってるよなー」


 あはは、とわたしの頭を撫でながら笑う眞人さん。ハンカチを握る手を取られ、顔を覗き込まれた。涙で濡れたわたしの目と、眞人さんの目が近くでかち合う。


「もう泣くな」


 にこ、と笑う顔が、優しい。涙で濡れた世界で、その笑顔は唯一鮮やかに写った。

 胸の鼓動が一瞬止まる。喉の奥がひゅ、と鳴った。


「腹、減っただろ。たまにはどこかに食いに行くか? それとも俺のつくったものがいいか?」


 眞人さんの瞳の中に、わたしがいる。わたしの瞳の中にも、彼がいるのだろう。


「僕、焼肉がいいかな。 さすがに『四宮』では食べられないもん」

「ああ、いいな。シロ、焼き肉行くか? ビール飲むぞ」


 ハンカチで目元を拭い、顔を上げる。


「……いく」


 泣きすぎたせいで声が少し掠れる。梅之介が「相変わらず食いしんぼだな」と笑った。


「よし、行くか。この先にいい店があるんだ」


 眞人さんが私の手を取った。引くようにして歩き出す。


「僕、丸腸! あとハチノスとギアラかなー」

「何でも食え」


 眞人さんの半歩ほど後ろを歩く。繋がれた手をじっと見下ろす。


「どう、しよう……」


 小さく、小さく声にした。

 繋がれた手が熱い。そして、さっき眞人さんの唇が触れたところが熱い。その熱はわたしの体中にゆっくりと広がっていく。わたしの体から、心までも熱くしていく。


『白路が俺のものだから』


 彼の言葉が、何度も繰り返される。それはなんて、わたしを甘く痺れさせるのだろう。

 ああ、どうしよう。


 わたし、この人のこと、好きになってしまった。


「シロはさー……」


 梅之介が振り返って、わたしを見る。その眉根に一瞬皺が寄せられた。


「ホルモン、大丈夫?」

「あ、うん。す、き」

「そう」


 梅之介は何か言いかけて、しかし口を閉じた。それから、視線を前へと戻した。

 梅之介は、わたしに忠告した。何度も。なのにわたしは、眞人さんのことが好きになってしまった。

 好きになっちゃいけないと、あんなに言われていたのに……。

 でも、繋がれた手を自分から解くことは、わたしにはもうできなかった。

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