拾われたわたしの、新生活【9】


 それから二日後。わたしは休みだったので昼から『四宮』の皿洗い係としてお勤めに励んでいた。

 夜に比べて、昼はサラリーマンや主婦の姿が多いようだ。子ども連れのお客さんもいるみたいで、かわいらしい声も聞こえた。

 それでもわたしは店の方へ出ることなく洗い場の前にいた。

 松子とはシフトがかみ合っていなくて、あれから会っていない。あんなことがあった後なので、できればもう顔を合わせたくないと思っているけれど、そう上手くいくわけはないだろう。

 松子がお店を辞めたとしても、『まっつん』が松子だった場合、縁が切れない。わたしは一体いつまで、松子に頭を悩ませなくてはいけないのだろう。

 はあ、とため息を一つついたそのときだった。


「シロ」

「ん?」


 背中に声がかかり、振り返ると梅之介がいた。


「なに、梅之介」

「お前さ、後ろから見ると、頭すげえな。でっかい綿埃みたい」


 くす、と笑う顔が憎らしい。


「うるさいな、黙って働きなさいよ」

「働いてるさ。だけど綿埃がもこもこ動いてたら妖怪みたいで気になるだろ」


 梅之介がわたしの頭をくしゃくしゃと撫でる。相変わらず口の悪いお坊ちゃんである。手を振り払って、べ、と舌を出してやった。


「妖怪でいいもん。いまの妖怪って可愛いし」

「残念だったな。僕の妖怪のイメージは今でも水木御大なんだよ。残念だったな」


 ムカつく。本当に口が減らない。


「この髪、かわいいじゃないか。俺は好きだけど」


 眞人さんがやって来て、「ふたりとも口」と言う。梅之介と揃って開けると、肉汁たっぷりの牛肉ソテーが放り込まれた。


「ふおお、柔らかい。最高」


 一口に頬張るには少し大きめのそれをもぐもぐと咀嚼する。ほんのりわさびの風味がして、美味しい。ああ、今日も幸せ。


「これ、お昼にも出してくれる?」


 わたしの横に立つ梅之介の顔も綻んでいる。


「ああ。美味いだろ。今日はいい肉を仕入れられたからな」


 眞人さんの笑顔に、ふたりでこくこくと頷く。そんなわたしの口角に、眞人さんの指が触れた。


「垂れてる。大きく切りすぎだったか」


 ぐいと拭われた。指腹についた肉汁を、眞人さんはぺろりと舐める。


「よし、あと一時間くらいで昼営業終わりだから、頑張ってくれな」

「……う。は、い」


 どうして。どうして、そんなことを平気でしてのけるかな。頬が赤らむのを自覚する。

 わたしの中の『他人との適切な距離感』というのが酷く曖昧なのは、反省すべき点だ。それはよく分かってる。何しろ一緒に寝てくれとか言っちゃってるわけだし。だけど、眞人さんの『距離感』のなさも大概おかしいと思う。


「お前さ」

「ん?」


 梅之介の声に振り返る。わたしの顔を見た梅之助は、何か言いたげに口を開閉させた。眉間には僅かにしわが刻まれている。


「どうかした?」

「あー……、いや」


 わたしを見下ろした梅之介が、手を伸ばしてくる。右の頬をぶに、と摘ままれた。


「もお、なひよ」


 む、と眉根を寄せるわたしを、梅之助は少しの間見つめた。


「なひよ。ブスとか言うんれひょ」


 ぶ、と唇をとがらせてみせる。そんなわたしをじっと見ていた梅之介だったが、「なんだよ」と呟いた。


「ふえ? なんらよって、なによ?」


梅之介がぱっと手を離した。


「なんでもない。ブス」

「ふんだ、分かってるもん」


 べ、と舌を出すと、梅之介はぷいと顔を逸らした。「まさかな」と小さく呟く。


「なに? まさかな、って」

「なんでもない。お前が女として研鑚が足りてないなって思っただけだよ。食事くらい、綺麗にとれ」

「あう。気をつけます」


 確かに。子どもでもないんだから、もう少し気をつけよう。


「とにかく、ほら、さっさと皿洗え。溜まってるぞ」

「うあ、本当だ。はーい、がんばります」


 洗い場に舞い戻ろうとしたとき、お店の方で来客の気配があった。


「あ、お客様みたいだよ」

「言われなくっても分かる」


 わたしにはぶっきらぼうに言い、しかし「いらっしゃいませー」と爽やかな声音で梅之介が出て行く。スイッチの切り替え具合は今日も良好のようだ。その声を聞きながらスポンジを取った。

 わしゃわしゃと洗っていると、背中に「おい」と超絶低音な声がかかった。


「うあ、びっくりした! もう少しにこやかに声かけてもいいんじゃ……て、どうしたの」


 梅之介の顔が酷く強張っている。


「『まっつん』の御来店だぞ」

「え」


 とうとう、来た。手の中からスポンジが滑り落ちた。

 お客様にばれないように、店内を覗く。梅之介が「その頭はまずい」と言うので、三角巾で頭をきっちり隠して、念のためにマスクも付けて、そっと顔を出した。


「カウンターの一番奥だ。どうだ」


 梅之介の指す方を見たわたしは、息を呑む。

 そこには間違いなく、松子がいた。


「ビンゴだってさ、眞人」


 わたしの反応で全てを察したらしい。梅之介が調理中の眞人さんに言う。


「そうか」


 ふう、と眞人さんが息を吐く。

 松子は、友達と来ているようだ。にこにこと笑い合いながらメニューを捲っている。

 わたしは、心が狭いのかもしれない。この店内に松子がいるだけで、嫌だと思ってしまう。わたしの場所を汚さないでと思ってしまう。

 物陰に隠れたまま動けないでいるわたしの頭を、梅之介がぽんと叩いた。


「対応はこれから考えるぞ。とりあえず、皿洗いに戻れ」

「う……ん……」

「よし、料理があがった。クロ」

「はいよ」


 ふたりが、でき上がった料理を運んでいく、眞人さんの姿を認めた松子が、花が綻ぶように笑った。その笑顔はとてもかわいくて、どきりとする。そんな笑顔、眞人さんに向けないで。


「眞人さん! こんにちは」

「いらっしゃいませ」


 わたしに背を向けている眞人さんの表情は分からない。しかし、声音は穏やかで優しい。お客様に対するそれだと分かっていても、胸がきりりと痛んだ。


「日替わりランチをふたつ下さい」

「はい、かしこまりました」


 可愛い声音で眞人さんに言う松子の顔を見れば、彼女が眞人さんに特別な感情を抱いていることはすぐに分かった。


「いつまで立ってんだよ、奥行け」


 ぽこんと頭を叩かれて、のろのろと振り返る。


「……泣きそうな顔するなよ。そういうの苦手だって言っただろ」


 わたしを見下ろした梅之介がため息をついた。


「ん……ごめん」

「仕方ないな。裏で休憩してきてもいいよ」


 梅之介が奥のドアを指で指し示す。


「ううん、働く」


 体を動かしているほうが、マシだ。のろのろと仕事に戻った。

 でも、わたしはやはり酷く動揺していたのらしい。

 次に気付いた時には、わたしは店裏の庭先にぼんやり座り込んでいた。遠くに飛んでいた意識を呼び戻したのは、梅之介の声だ。


「いつまでへたり込んでんだ、シロ」

「え……? ああ、梅之介。あれ? お店は」

「とっくに終わっただろ。いつまでこれ被ってんだ」


 近寄ってきた梅之介が、わたしの頭を覆う三角巾をはぎ取った。


「え? ああ、そっか。そう、だっけ?」

「そうなんだよ。それよりほら、これ!」


 梅之介が、ずいと何かを差し出す。


「食べろよ」


 それは、湯気を放っているおにぎりが二つ載ったお皿だった。


「お前、昼の賄も満足に食べなかっただろ。眞人がお前のためにわざわざ作ったんだから、残さず食べろ」


 炙った海苔の香ばしい香りがする。三角に結んだおにぎりの上にはそれぞれ、ちょこんと焼きたらこと潰し梅がのっていた。


「ほら」

「あ。ありが、とう」


 わたしにお皿を押し付けると、梅之介は「じゃあ、僕は昼寝の時間だから」と言い置いて家の方へ戻った。と、くるんと振り返ってわたしを呼ぶ。


「おい、シロ」

「なに、梅之介?」

「お前の元彼、趣味悪いな。あの松子って女、全然大したことないよ」


 雰囲気でそれなりに見せてるだけだ、と梅之介は鼻で笑った。


「はあ」

「お前の方が面白い分、マシだね」


 梅之介がぷいと横を向いた。

 ……もしかして、これって梅之介なりにわたしを気遣ってくれているんだろうか。


「ええと、ありがとう」


 本当は、その気遣いはものすごく嬉しかった。だけどわたしはすぐ梅之介を怒らせてしまう言い方をしてしまうので、もごもごとお礼だけを言った。

 それは、正解だったらしい。梅之介は「うん」と頷いて今度こそ戻って行った。

 焼きたらこのおにぎりを手に取る。まだあったかい三角の天辺に齧りついた。口の中に入れるとご飯がふわりと崩れる。塩加減がちょうどよくて、海苔とたらこの風味が口いっぱいに広がった。


「おいし」


 梅之介も、眞人さんも、わたしを受け入れてくれる。この場所にいていいんだよって言ってくれてる。それだけで、嬉しい。それだけでいい。充分だ。

 いくら松子がここに来ても、わたしの大切なところまでは、侵食されない。きっと。

 おにぎりを齧りながら空を見上げる。

 高く澄んだ青空には、雲ひとつない。高みへと廻旋しながら登っていく鳥の姿だけがあった。

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