拾われたわたしの、新生活【8】
『まっつん』は、仕事の休日はランチタイムにも顔を出すほど熱心に通っているのらしい。
「あからさまに眞人を狙ってる。顔に自信があるのか、他の女たちの敵意なんて完全無視。どれだけ睨まれても鼻で笑う感じ。あの女なら、シロの言う『松子』みたいなことやってのけるかもしれない」
梅之介が不愉快そうに鼻を鳴らす。
「世間って狭いよなあ。ていうか、その松子って女、よほどお前と因縁があるんだろうな」
「まだ、松子と決まったわけじゃないもん……」
箸置きをいじりながら呟く。だって、そんなことあって欲しくない。
わたしの大切な場所となったここまで、松子に侵されたくない。
ぽん、と頭に手が乗ったので顔を俯いていた顔を持ち上げると、眞人さんが向かい側からわたしの頭を撫でてくれた。
「まあ、とりあえず次に『まっつん』が来たときに確認しよう。シロが店に居るときだったら話は早いけど、不在の場合は、梅之介」
「はいはい、僕が探りを入れればいいんでしょ。大丈夫、それくらい余裕」
梅之介が営業スマイルを浮かべた。
「まっつんさんの働いてるエステサロンって、なんてお店ですか? 僕、少し興味があって、詳しくお話聴きたいなって。これで全部解決じゃん」
明るく爽やかな声音に変わる。さっきまでクソクソと語彙のないことを言っていたひととは思えない。しかし、梅之介だったら上手く情報を引き出してくれそうだ。
「よ、よろしくお願い致します」
頭を下げると、梅之介が「仕方ないから、任せとけ」と頷いた。
「ま、とりあえず『まっつん』が『松子』かの確認が取れてから、これからのことを考えよう」
眞人さんの言葉に、「はい」と答えた声は自分でも分かるくらい、元気がなかった。
その晩、わたしは自室の布団の上で胡坐をかき、ぼんやりと宙をにらんでいた。
明日は仕事だから早く眠らなくてはいけないのだけれど、眠れない。今日一日の間に起こったことがわたしの心を乱すばかりだった。
「まつこ……まっつん……、か」
もし眞人さんたちの言う『まっつん』が『松子』だったことを考えると、頭が痛くなる。わたしの大切な場所になったここまでもが、松子に踏み荒らされるのはどうしても嫌だ。わたしを受け入れてくれたこの場所だけは、絶対に。
松子は、わたしなんかではどうにもできないひとだ。
達也をあんなにも情けない男に変えてしまった松子なら、もしかしたら眞人さんを籠絡することだって、あるんじゃないだろうか。
そしたら、この場所からもわたしは追い出されることになる。やっと幸せを感じ始めていたのに、それも束の間のことになっちゃうかも……。
「うー……やだぁ……」
天井が滲む。情けない泣き声を上げた、そのときだった。襖が遠慮がちにほとほとと鳴った。
「ふ、ふえ?」
「シロ? 俺だけど」
そっと聞こえた声は、眞人さんのものだった。
「は、はい!」
時刻はもう一時をとっくに過ぎている。急用だろうか。涙を拭い、慌てて襖を開ける。
「ど、どうかしましたか、眞人さん」
「いや、襖の隙間から灯りが漏れてたから、起きてるんだろうなと思って」
わたしを見下ろす眞人さんが、わたしの目尻に手を伸ばした。指腹が這う。もしかして、泣いていたことに気付かれただろうか。
眞人さんがはあ、とため息をつく。
「何のために話を聞いたんだか」
「え?」
「馬鹿だな。そうさせないために、吐き出させてやろうとしてたんだ。俺たちの前でわあわあ泣いとけよ」
これじゃあ意味がないだろう、そういう眞人さんの声はすごく優しかった。
「あ、あの、私……」
「ほら、言ってみろ。何が嫌で泣いてる?」
わたしを見下ろす目を見つめていると、涙がころりと頬を転がり落ちた。
彼は今、わたしの中の不安を取り出すためにここにいる……。
「……んです」
「ん?」
「ここに、いたいんです。この場所を、奪われたくないんです。お願いします、ここを、わたしの場所にしてください」
震える声で言うと、眞人さんが笑った。
「なんだ、そんなことか」
「そ、そんなことって! わたし、真剣に考えてて!」
声が少し大きくなる。そんなわたしに、眞人さんが続ける。
「本当に、シロは馬鹿だな。もうとっくに、そうだろう」
「え……?」
「シロにとっちゃ簡単に入った場所かもしれないが、俺は簡単に拾ったつもりはない」
「眞人、さ……」
それは、本当? だとしたら、なんて嬉しい言葉だろう。
「知らないかもしれないけど、俺は誰でも懐に入れられるほど、器用でもお人よしでもない」
知ってる。眞人さんは優しいけれど、誰にでも優しいわけじゃないって、知ってる。
わたしはなんて馬鹿なんだろう。眞人さんを、信じられなかった。わたしを助けてくれた人を、信じ切れていなかった。
涙がぽろぽろ零れる。そんなわたしの頬を、眞人さんが拭ってくれた。
「クロだってきっと俺と同じだ。だから、心配するな。ここは、お前の場所だから」
「わ……たし、ここにいていいです、か?」
「ああ」
「よ、よかった……」
眞人さんの言葉にほっとする。胸の中ではじけそうに膨らんでいた不安を、大きなため息にして吐き出した。
涙をごしごしと拭いて、気持ちを落ち着けようとする。そんなわたしの頭を、眞人さんはずっと撫でてくれた。
「えへへ、ありがとうございます」
「お、やっと笑ったな」
頭を撫でる手が乱暴に動く。わしゃわしゃと髪を掻き回された。
「わあ! 髪がぐしゃぐしゃになっちゃう」
「ほんと、この髪いいな。シロに良く似合ってる」
「そ、それ本気で言ってます? カリフラワーヘアですよ?」
眞人さんって、趣味が極悪だと思う。それか、適当に褒めてるだけかも。ぶう、と頬を膨らませてみせると、彼は心底意外だと言うように目を見開いた。
「もちろん本気だけど、かわいいじゃないか、サチみたいで」
「犬だし、それ……」
眞人さんの、頭を撫でる手が止まらない。それは心地よくて、わたしはされるままに頭を預けた。
と、ふっと思いつく。
「わたしも、飼い犬になりたい」
「は?」
「そうだ! わたしも、眞人さんの飼い犬になりたい!」
顔を上げてそう言うと、眞人さんの口がぽかんと開いた。
「何言ってんだ、シロ」
「だって、梅之介みたいに飼い犬になったら、ここが本当にわたしの場所って感じがするし、いていい理由になる気がする」
ただの居候より格が上がった気がする。なんて名案なんだろう。
そんなわたしを驚いた様子で見下ろしていた眞人さんだったが、すぐに体を揺らして笑いだした。
「ほんと、面白いな。よく、そんなこと思いつくな」
「笑いごとじゃない! わたしは真剣なんです!」
「真剣、ねえ。それならちゃんと応えなきゃだな。別にいいよ」
「え?」
「それでシロの不安が減るんなら、それでいいって言ってる」
「いいんですか?」
自分で言い出したこととはいえ、やっぱり驚いてしまう。眞人さんはわたしの頭をぐりっと撫でて、「今でも犬みたいなもんだしな」と言った。
「わあ! やった!」
思いの外、嬉しかった。考える間もなく、そのまま眞人さんに抱きついていた。
「よろしくお願いします!」
「はいはい、よろしく」
ぎゅっとしがみ付くわたしの背中を、大きな手のひらが撫でる。
「どうだ、これで、寝られそうか?」
「え?」
「ここ最近、満足に寝てなかっただろう」
眞人さんの胸元からがば、と顔を上げた。
「何で知ってるんですか?」
「んー、何となく。で、寝られそうか?」
眞人さん、そんなにわたしの事気にかけてくれてたんだ。
そのことが、何よりも嬉しい。
はい! と返事をしそうになって、はたと噤む。しばし考え込んだ。
「シロ? どうした?」
「……寝られない」
「は?」
「寝られません! でも、眞人さんが一緒に寝てくれたら、寝られそうな気がする。ううん、絶対ぐっすり寝られます!」
あの心地よかった腕の中で、堂々と寝られる権利を得たのだ。これを逃さない手はない。
いや、酔っているからこそ言えているのだということは分かっている。さっき、三人ですごい量のジョッキを消費したのだ。
さすがのわたしでも、素面でこれをお願いする勇気はない。
眞人さんが「バカか」と声を洩らした。
「バカじゃないです、わたしは晴れて飼い犬になったんだから、飼い主と一緒に寝たいと言ってもいいはずです」
「やっぱバカだろ。そんなことできるわけ……って、これ、この間のやりとりと一緒だな」
はあ、と眞人さんがため息をついた。
「一緒ですね。しかし、今夜のわたしの粘りは先日の比ではありませんよ」
「……本当にバカだな」
もう一度、眞人さんがため息をつく。それから、「シロの布団でいいのか」と言った。
はい! と笑顔で応えたわたしの心は、さっきまでのもやもやがすっかり晴れて、すっきりしていた。
そして、わたしは眞人さんの体にしっかりと抱きついて眠りに落ちた。眞人さんはわたしを抱えるようにして、受け入れてくれた。
わたしは、ここしばらくの不眠具合が嘘のように、朝まで一度も目覚めることはなかった。
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