拾われたわたしの、新生活【7】


 泣きはらした顔をどうにかメイクでごまかして帰った。

 真帆はすごく心配してくれて、泊まりにおいでよと何度も言ってくれたけれど断った。洗い場はわたしに任された仕事だし、それを何の連絡もなくサボるなんてできない。

 近々気晴らしに飲みに行こうという話をして、別れた。

 気分は滅入ったままで、気を抜けば涙が零れそうだったけれど、ふたりにいらない心配はかけたくない。笑顔を作ることを心掛けて、洗い物に勤しんだ。


「シロ、食事の準備ができたぞ」


 閉店後、シンクを磨いているわたしに眞人さんの声がかかる。


「あ、はーい。すぐ行きます!」


 ぺかぺかに片付いた洗い場を確認してから、店の方へと向かった。


「あれ?」


 テーブルの上には、いつもより豪華な食事が用意されていた。それに加え、ビールジョッキが三つ置かれている。


「飲むぞ、シロ」


 先に椅子に座っていた梅之介がジョッキを掲げる。


「え? どうかしたの?」


 平日は飲まないことが多いので訊くと、眞人さんが「明日は店休日だからな」と言う。


「三人で飲もうって話になったんだ」

「そうですか、なるほど」


 では、と梅之介の隣に座る。わたしの正面に眞人さんが座った。


「わあ、今晩も美味しそうですねえ」


 今日のメインは天ぷら盛だ。海老や鱚、ささみ、舞茸に走りのふきのとうまである。脇には大好物の茶碗蒸しと、蟹入りの五色膾。ほこほこと湯気を立てるのはあおさと豆腐のお吸い物。


「食べていいですか?」


 眞人さんに訊くと、「もちろんだ」と笑顔で言われる。


「とりあえず、今日もお疲れ様ー」


 三人で、ジョッキをかちんと合わせた。


「はわー、美味しい」


 天ぷらには三種類のお塩と天つゆが添えられていて、その中でもわたしの大好きな抹茶塩をつけたものが堪らなく美味しい。ビールもするすると喉を通る。


「よかった。ほら、これも食え」

「え⁉ いいんですか?」


 眞人さんのお皿からわたしのお皿に鱚が移った。


「ああ。膾はおかわりもできるぞ」

「わあ、嬉しい」


 遠慮なく、鱚を頬張った。

 ここに帰って来るまでは、食欲なんて全くなかった。どうにかやり過ごして、布団の中で丸まって泣くことしか考えてなかった。

 なのに、美味しいと思える自分がいる。笑えている自分がいる。

 どうしてだろう。どうして、わたしはちゃんと笑っていられるんだろう。


「で?」


 わたしの横で黙々と食べていた梅之介が急に口を開いた。どうやらその「で?」はわたしに向けられているらしいと気が付いたので、梅之介を見る。


「え、何が、『で?』なの?」

「何がじゃねえよ。最近のお前、どう見てもおかしいだろう。理由を言え」

「え。ええ?」


 苛立ったように言う梅之介に、心底驚く。そんなわたしを見て、梅之介はふん、と鼻を鳴らした。


「気付かないとでも思ったか。それくらい、分かるんだよ。今日なんか、それで泣き腫らした顔を誤魔化したつもりか。それならもっとメイクの腕を磨け。ほら、言え」


 梅之介から眞人さんに視線を移す。眞人さんもこっくりと頷いた。


「悩みがあるなら、何でも聴く。言ってみな」


 目の前の料理と、いつの間にか置かれた二杯目のジョッキを見る。それから、ふたりの顔を交互に見た。

 彼らはもしかして、わたしを心配して……?


「勘違いすんなよ? 大凶の余波を受けたくないから、対策を打とうとしてるだけだからな」


 大葉とささみの天ぷらをぱくりと食べた梅之介が言う。憎らしい言い方だけれど、それが本心ではないことくらいは、分かった。

 胸がぎゅっと締め付けられて、苦しい。だけどこの苦しさは、嫌じゃない。


「あ、ありがとぉ……」

「うあ! 泣くなよバカ! 僕、そういうの苦手なんだ!」

「そういう言い方するからだろうが、クロ。ほら、言ってみろシロ。大凶なんて、あんなの意味ないことだから」


 どうしてこんなにも、優しいのだろう。

 溢れ出す涙を手の甲で何度も拭う。


「あーもう! ブスは泣くな! ブスの泣き顔なんて、ご飯が不味くなるだけなんだよ!」

「クロ、そんな言い方するなってさっきから言ってるだろ。ほら、これで涙拭け」

「いや眞人、それ台拭き……。仕方ないな、これ使えよブス!」

「ぶえ!」


 梅之介に、ハンカチを押し当てられる。ぐりぐりと顔を乱暴に拭われ、カエルのような声が出た。汚れを拭うような勢いなんですけど。


「やめてよバカ! 自分で拭くから貸して!」


 ハンカチを奪い取り、自分で涙を拭う。ついでに鼻水もかんだ。


「あー、すっきりした」

「……最低な女だな、おまえ」


 不機嫌そうにジョッキを傾ける梅之介に「ありがとう」と言って、わたしも自分のジョッキを持った。ごくごくと飲む。


「ぷは。美味しい」


 息をつくと、視界がすっきりと開けた気がした。


「実は、別れた彼氏と奪った後輩とのことでごたごたがありまして……」


 それからわたしは、最近のことをゆっくりと語りだしたのだった。


「何だ、そのクソ女」


 ジョッキをテーブルに叩きつけたのは梅之介だった。


「胸クソ悪い。お前、そんなクソ女にみすみす男を盗られたのかよ! 女としてのプライドはどうした!」

「だって、いい子だって思ってたんだもん」

「だもん、じゃない!」


 ぐびー、とジョッキの中身を飲み干した梅之介がわたしに「ついでこい!」とジョッキを差し出す。


「あ、うん。眞人さんも、いります?」

「頼む」


 眞人さんの目の前のものも空だったので、三人分のジョッキを満たして戻る。お怒りの梅之介がわたしの手からもぎ取るようにしてジョッキを奪った。


「だいたい、最初っから甘いんだ、シロは。盗られたって分かった時点で反撃しろ」

「反撃って、たとえば?」

「何でもいいから痛い思いさせるんだよ。言葉が出なきゃとりあえずぶん殴っとけ。鼻っぱしらにグーパンチだ!」


 子どもの喧嘩か、というようなことを梅之介はぷりぷりと怒りながら言う。


「男もクソだよな。そのクソ女にさっさとフラれて、惨めな底辺クソ人生送れ。で、クソ女は次の男にこっぴどくフラれろ。ふたりともクソ人生歩め!」

「梅之介、食事中だからクソクソ言うのはどうだろうね?」

「うるっさい! 僕は苛々してるんだから、いいんだよ」

「はあ」

「お前もぼんやりせずに一緒に呪詛を吐け!」

「呪詛って、そんな」


 自分よりも怒っているひとをみると、不思議とこちらの気持ちは落ち着いてくるものらしい。きっと、代わりに怒ってくれているからなのだろう。顔を赤くしている梅之介に、感謝の念を送る。口に出すと、「礼なんか言ってる場合か」と怒鳴られそうなので言わないでおいた。

 と、さっきからほとんど無言の眞人さんを見れば、彼は眉間に皺を刻んでビールを飲んでいた。


「どうかしました? あ、不愉快すぎますよね、こんな話……」


 聞いていて気持ちのいい話じゃない。ふたりに甘えてぺらぺら喋っちゃった、と頭を下げる。


「あ、いや。そうじゃない。シロの話の『松子』って子のことが少し気になって。なあ、クロ」


 眞人さんが梅之介に向かって続ける。


「最近通ってきてる女の子がいただろう。黒髪ロングの、ほら、なんか声が甲高い」

「え?」


 最後に食べようとわたしが残しておいた海老天に箸をのばした梅之介が、手を止める。


「エステサロンで働いていて、メンズコースもあるんでぜひ、とか言ってただろ。覚えてないか?」

「えー?」


 梅之介が天井辺りに視線を彷徨わせる。


「通ってきてるブスは山ほどいるから、いちいち覚えてないんだけどなあ。えーと……あ!」


 梅之介がはっとした顔をして、眞人さんを見る。


「ここ半月ほどだよね? やたらかわいこぶってて、眞人にしょっちゅう絡んでる!」

「それ! あの子さ、一緒に来てる友達からなんて呼ばれてたか覚えてないか」

「あ、分かる! えーと、えーと、ほら、あれだあれ」


 急にお客の話を始めたふたりの顔を交互に見る。

 と、彷徨っていた梅之介の瞳がかっと開いた。


「『まっつん』! そうだ、『まっつん』だよ!」

「それだ!」


 眞人さんがわたしを見て、言った。


「シロの話の中の『松子』と、最近ウチに足しげく通ってくる『まっつん』って女の子の外見の特徴が妙に被ってる」

「え……?」


 動きを止めたわたしに、梅之介が言う。


「エステサロン勤務なこと、会社の先輩とトラブってることとかも聞いた。聞いてもないのにペラペラしゃべるんだ、『まっつん』は」


 梅之介と視線が合う。嫌な沈黙が三人の間に流れた。

 考えたくもない事実を口にしたくなくて口を引き結んでいるわたしを見ながら、梅之介が厳かに言う。


「もしかしたら、『松子』が狙ってる新しい男って、眞人じゃないか……?」


 そんなはずない、とは言えなかった。

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