拾われたわたしの、新生活【6】
それから、達也が松子を迎えに来る日が増えた。そのことで頭を抱える羽目になったのが武里チーフで、スタッフたちの苦情を一身に受けているのだった。
「どの店も受け入れ拒否……。もうどうしろって言うんだよ、自分の能力の無さに泣けてくるわ」
わたしとふたりきりの休憩室で、自分が情けないと肩を落とす武里チーフに「すみません」と頭を下げると、「三倉が我慢してくれてるって言うのにごめんな」と言われた。
「いえ、そんな。わたしはまだ、大丈夫ですから……」
そんなことを言ってしまうけど、それは本当は嘘だ。達也を見かけたことはあれから二度もあった。松子の機嫌を窺いながら笑う達也を見るのは辛かった。屈託なく笑う、達也の曇りのない笑顔がわたしは大好きだったから。
わたしの大好きだった笑顔を浮かべていれば、幸せそうにしてくれていれば、まだ我慢できたのではないだろうか。すぐには無理でも、いつかは幸せを祈ることくらいできたのではないだろうか。
でも、そうじゃない。好きだったひとが卑屈な笑顔を浮かべるさまなんて、胸が握りつぶされるように苦しいだけだ。
こんなことが、早く終わってくれたらいいのに……。
「――辛気臭いことしてんじゃねーよ、ファンキーブス」
「あいた」
ぽこんと後頭部を叩かれて、皿洗いをしていた手を止めた。
「何よ、梅之介。お皿洗ってただけじゃん」
「はーはーとため息ばっかりつきやがって。重っ苦しいんだよ」
「え? わたし、ため息なんてついてた?」
全然気づかなかった。コンロの前にいる眞人さんを見やると、苦笑しながら頷かれた。
「す、すみません。無自覚でした」
「別にいいけど、どうかした?」
「あ、いえ。別に」
頭の中にあったのは松子のことだった。どうしたらいいのか、なんてことをぐるぐると考えていたので、それがため息となって零れ出ていたのだろう。
曖昧に笑うわたしを見て、「ふうん」と言った眞人さんがふいに近寄ってくる。
「口開けて」
「はい」
言われるがままに口を開けると、押し込まれたのは甘辛く味付けされた鶏つくね。軟骨が入っていて、ふわふわの中にコリコリとした触感がある。
「おいひい」
温かなそれをはふはふと食べると、笑みが零れる。ああ、いまは美味しい物を食べてるからそれでいいや、なんて考えてしまう。
そんなわたしに、眞人さんが「今日の賄にも、それ出してやるよ」と言う。
「わーい。やった」
「あ」
眞人さんがすいと手を伸ばしてきて、私の下唇の端に触れた。指腹がぐい、と動く。
「タレがついてる」
眞人さんの指先に、艶のあるタレがつく。彼はそれを、ぺろりと舐めた。
「じゃあ、もう少し皿洗い頑張れ」
「は、はい……」
赤面してしまったのは、仕方ないだろう。そんなこと、さらりとしないでほしい。しかしそんなわたしの変化には気が付かず、彼は調理に戻った。
もぐもぐと口を動かしながらその背中を追っていると、「食いしんぼ」と声がかかった。
「腹が減ってたから、ため息ついてたのかよ。ガキか」
ふん、とあざ笑うかのようにわたしを見る梅之介に、顔を顰めてやった。
「違いますう! 梅之介と一緒にしないでくれる?」
「僕は腹が減ったって、どうってことないね」
「あ、そうだよね。梅之介は食欲じゃなくて睡眠欲だもんね」
「うるさい」
むっと眉を寄せた梅之介だったが、昼寝が欠かせない体なのは事実なのだ。ふ、お子様め。
「お前の分のつくね、僕が全部食ってやる」
「うわ、ありえない。そんなこと言うなんて、どっちがガキなんだか」
「な⁉ バ、バカにすんな」
眞人さんのご飯を食べて、梅之介とくだらない口喧嘩をして。そうしていたら、お布団に入る時には「明日も頑張ろう」という気分になっていた。不思議だ。
ふたりの存在に感謝しつつ、眠りにつくわたしだった。
しかし、仕事に行けば嫌でも松子と達也の話が耳に入るわけで、問題が好転しているわけではない。むしろ、店内の空気は日増しに悪くなっていた。
「早くどっか行って欲しい。受け入れ先がないんだったら、辞めさせればいいのに」
最近では、真帆はそんなことを本気の顔で言う。
「社長令嬢なんでしょ? オトウサマの会社の受付でもして、ヘラヘラ笑ってたらいいのに」
松子の父親が経営しているというジュエリーショップは、名の知れた老舗だった。名前を聞くと、わたしでも訊き覚えがあったくらいだ。
「わざわざ安月給のサロンなんかで働かなくってもよさそうなもんだよね。あたしだったら親のコネで楽な仕事につくわ」
結川さんがしみじみ言えば、松子と同期のめぐみが頷く。
「あ、それは私も思います。あの子って愛想はいいし、接客もイケるんじゃないかな」
「ダメでしょ、それは。エンゲージリングを見に来た新郎を喰っちゃいそう」
「あはは、いえてる」
ロッカー室で帰り支度をしながら話をしていると、他のスタッフも会話に入ってくる。今日は松子も出勤なのだけれど、閉店作業の当番の為みんなより遅くてこの場にはいなかった。
わたしはその会話に混ざることなく、松子が来ないうちに帰ろうと慌てて帰り支度をしているものの、みんなが話を続けるせいでなかなか出て行けない。まあ、早く出たところで松子を待っている達也にかち合うわけで、みんなと一緒の方がいいのかもしれない。
お疲れ様です、と言って部屋を出るタイミングを窺っていると、松子が来てしまった。
彼女が入ってきた途端、賑わっていたロッカー室が静まり返る。
「あれ、どうしたんですか。お通夜みたい」
くすくす笑って、さっさと着替えを始める松子。みんな、それまでののんびりした雰囲気が嘘のようにテキパキと帰り支度を終えた。
「帰ろ、白路」
「あ、うん」
真帆に促されて、ほっとする。ドアに向かおうとしたその時だった。
「あー、そうだ。私、近々この店辞めることにしました」
松子の声が室内に響いた。
驚いて振り返ると、松子は真っ直ぐにわたしを見ていた。
「父の知り合いがエステサロンをオープンさせるので、そのオープンスタッフとして声がかかったんです。会員制の高級サロンで、こんなチープな店より給料もずっといいの。もう高校生のまつげパーマに追われることもないし、ラッキーです」
「そう。よかった、ね」
「そうだ。みなさん、移店しませんか? いまなら他のスタッフも連れて来ていいって言われてるんですよ」
松子がぐるりと周囲を見渡す。
「お給料はここより断然いいし、立地もすごくいいんですよ。お客様のグレードも全然違うし、スキルアップできます。どうですか?」
みんな、すっと視線を逸らした。松子に応える人は誰もいない。それを眺めて、松子は「そうですか」と低い声を洩らした。
「みなさん、向上意識がないんですね。せっかく美味しい話をしてあげてるのに」
「誰も、あんたのこと信用してないの。やったー、なんて食いつく馬鹿はここにはひとりもいないわよ」
真帆が言うと、松子は「ま、いいけど」と着替えを再開した。それからわたしに視線を流す。
「白路センパイ。私が、辞めてあげますね。こんな安っぽい場所くらい、センパイに残しておいてあげる。何なら、あのヒモ男もつけますよ。あんな口先だけのクズ、もういらない」
松子の顔には、侮蔑の色があった。それを認めた瞬間、困ったように眉尻を下げておろおろと笑ってみせる達也の顔が思いだされた。
「松子! あんたってどうしてそう……」
「待って、真帆」
怒鳴ろうとした真帆を押し留めて、一歩前に出た。
「……ねえ、松子。わたし、松子になにかした? ここまで踏みつけにされるようなこと、してないよね」
松子が着替えの手を止めた。
「どうしてそこまで、わたしに拘るの?」
肩口から綺麗な髪がさらりと揺れる。松子は歪んだ笑みを浮かべた。
「前にも言いませんでしたか? 大嫌いだからです、センパイが。顔も、財力も何もかも、わたしに勝るものを何ひとつ持っていないくせして幸せそうに笑ってるところとか、可愛がられてるところとか、反吐が出るくらい嫌い。ちょっとしかない幸せを握りしめてへらへらして、バカみたい」
「あんた……っ!」
吐き捨てるように言った松子に、真帆が気色ばむ。「サイアク」と言う声や舌打ちも聞こえた。
「……そうだね、松子はなんでも持ってるんだろうね」
わたしは松子から視線を逸らさないまま頷いた。若さも、美しさも、お金も、身内も、愛も。松子はわたしの持っているものより、たくさんのものを持っているんだろう。
「じゃあどうして何も持っていないわたしの、極々僅かな大切なものまで奪おうとするの? わたしのこと嫌ってバカにしてるくせに、わたしのものが欲しいって、矛盾してる」
松子の大きな瞳が、見開かれた。
「別に、欲しがってなんかない! 私はあんたのその能天気な笑顔を壊してあげたくなっただけよ!」
「もう充分壊したじゃない。わたしが涙一つ零していないと思ってるの? そこまでしておいて、まだ欲しがってる。わたしのものを根こそぎ貰いたがってる。 どうしてそんなに飢えてるの?」
「は、はぁ⁉ 馬鹿にしないで、私は欲しがってなんかない!」
「本当に? わたしには、松子がわたしのものを食い散らかして、まだ足りないって言ってるみたいに見える」
「それって、僻みじゃない? 私に盗られたからって、被害者意識丸出し!」
松子の口元がわなわなと震えている。両手には固くこぶしが作られていた。綺麗な眉をぎゅっと寄せた顔を見ながら、わたしは続けた。
「松子、可哀想だね。まだ、満足できないんだね。でも、わたしはもう松子に何もあげられない。残念だったね」
松子が息を飲む。わたしは松子に背中を向けて、部屋を出た。
「バカじゃん! 強がったって無駄なんだから!」
松子の叫ぶ声が、わたしの中に虚しく響いた。
カツカツとヒールを鳴らして店を足早に立ち去る。
通用口を出ると、そこにはやはりと言うべきか達也がいた。わたしを見て気まずそうな表情を浮かべる。
仕事帰りなのだろう。スーツを着ていて、それは細身の達也にすごくよく似合っているけれど、どこか薄っぺらくみえた。
わたしの周囲に誰もいないことを確認した達也は、取り繕うような笑顔を浮かべた。
「元気そうでよかった。こんな状況で言うのはおかしいけど、白路の顔が見られて嬉しいよ」
「は?」
言っている意味が分からない。まじまじと達也の顔を見る。そんなわたしに、達也は続けた。
「酷いことしたって、分かってる。白路がひとりで頑張ってる姿をみてると、どうして別れちゃったんだろうって思う。なあ。俺たちさ、もう一回やり直せるんじゃないかな。いや、松子のことがあるからすぐには無理だけど、俺はやっぱり白路をひとりにしておけない。俺が白路の傍で支えてあげたい」
達也の言葉が耳を素通りする。しかしそれは棘だらけで、わたしの心をいちいち傷つけていく。心に一つも届かない甘い言葉は、わたしを切り刻んでいく。
「何、言ってるの……」
「俺には白路が必要なんだって、痛感したんだ」
達也の口調に熱がこもる。それに比例して、わたしの心は冷え込んでいく。目の前で喋っているのは、わたしの知らない人なんじゃないの?
「な、白路? どう、かな」
周囲を見渡しながらわたしに言う達也の笑顔は、やっぱり知らない人のものに見えた。と同時に、嫌悪に似た感情を覚える。
目を閉じて、小さく息を吐く。いままでわたしの心の隅にへばりついていた『情』みたいなものが、パキパキとひび割れて剥がれ落ちていく音を聞いた。それと共に、わたしを苦しめていたものが消えていく。
目を開けたわたしは、達也に笑いかけた。
「ありがとう」
「白路! 俺のことわかって」
「お蔭で、わたしの中に燻ってた未練が、きれいさっぱりなくなった」
達也の口が、ぽかんと開いた。
「すごくすっきりした。あんな別れ方を選んだことは、いまでもすごく酷いと思う。他にやり方があったんじゃないのと思うけど、もう私にとっては終わったことだから、どうでもいいよ」
「白路!」
わたしを追いかけて来てくれたのか、真帆が息を切らせてやって来た。達也と向かい合うわたしを見て顔を強張らせるが、そんな真帆に笑ってみせた。
「大丈夫。心配しないで」
それから、達也に視線を戻す。
「松子に、近々捨てられると思う。だから、自分の力でしっかり生きていってね。いままでありがとう。さよなら」
言い捨てて、背中を向けた。足を踏み出す。
「白路!」
縋るような達也の声に振り返る。達也は顔を歪めていた。それを見れば、胸が痛む。
未練がなくなったとは言ったけれど、かつてとても大切に想い、できればずっと一緒に居たいと思ったひとだ。不幸になんかなって欲しくない。できれば、わたしの大好きだった笑顔をいつまでも持っていてほしいと思う。
「わたしのアクセサリーボックスとか家具とか、売りなよ。少しはお金になると思う。新しい門出の資金にして」
「な……」
「もう、わたしに関わらないで。今度こそさよなら」
今度は、名前を呼ばれても振り返らなかった。わたしは足早にその場を立ち去った。
「……って! 待って、白路!」
追いかけて来て、わたしの肩を掴んだのは真帆だった。
「びっくりした。あんたでもあんな風に言いかえせるのね。松子も達也も……って、あんた……」
わたしの顔を覗き込んだ真帆が言葉に詰まる。わたしは、ぼろぼろと零れ落ちる涙を必死に拭っているところだった。
「真帆、真帆ぉ……」
足はがくがくと震えていたし、口からは嗚咽が溢れる。最後まで笑顔を作れたなんて、奇跡だ。
真帆に抱きついたわたしはひいひいと泣いた。
「ふたりとも好きだったの。大事だったの。こんなことになるなんて、わたし、考えたこともなかった!」
「……うん」
真帆がわたしを抱き留め、背中を撫でてくれる。その温もりに身を預ける。
「ずっとずっと、みんなで笑っていられたらいいって思ってたの。なのに、なのに……!」
達也も松子も、わたしにはかけがえのない大切なひとだったのだ。どれだけ辛くても、いずれはふたりを祝福できたらいいとさえ思えるくらい、好きだった。
「酷いよ。どうしてせめて、幸せになってくれないの。悔しいけどおめでとうって言わせてくれないの。こんな嫌な終わり方って、ないよ……」
こんなのってない。わたしの想いも、これまでの思い出も、全部が踏み荒らされてしまった。ぐしゃぐしゃになって、それでお終いだなんて。
「うん。うん、そうだね」
真帆が何度も頷いて、背中を撫でる。
「私、白路のこと好きだよ。みんなもきっとそう。ここまでされておいて、そういう風に言えるからこそ、みんなあんたが好きなんだよ。だから、大丈夫。白路はまだたくさんのものを持ってる」
雑踏の中、大きな声で泣くわたしを抱きしめる真帆。そんなわたしたちを、通り過ぎる人たちは不思議そうに見たり、にやにや笑ったりした。
だけど真帆は、わたしが泣きやむまでずっと、抱きしめてくれた。
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