傍にいられるなら、犬でいい【2】
「それより、話を戻そう。お前、これからどうするんだよ。ずっと隠していられるのかよ」
「……犬だよ」
ぽつんと言うと、梅之介が形のいい眉を寄せた。
「は?」
「わたしは飼い犬。眞人さんの飼い犬。この気持ちは、犬がご主人様を慕うアレだと思いこむの」
「バカか」
名案でしょ、と言ったわたしに対し、梅之介が吐き捨てるように言った。
「そんなの、長く出来ることじゃないだろ」
「そ、そうかもしれないけど、でも、それしか思いつかないんだもん」
眞人さんは今でこそわたしを受け入れてくれている。心地よい優しさの中に居させてくれている。
だけど、わたしが眞人さんに抱く想いを知れば、どうなってしまうのか分からない。もしかしたら、拒絶されてしまうかもしれない。迷惑だって突っぱねられてしまうかもしれない。
「眞人さんの笑顔を失うくらいなら、わたしはずっと犬のままでいい。いまは、そんな気持ちなの」
梅之介が、「ホントにバカ」と声を落とした。バカだって、分かってる。だけど。
「一応、聞くけどさ。眞人のこと諦めきれ」
「たら一番いいのかもしれないね。でも、無理っぽい。だってもう、すっごく好きになっちゃってる」
はは、と笑う声は情けないくらい弱い。俯いて、頬をこりこりと掻いた。
「あのさ、眞人を好きになった理由って何?」
「え?」
梅之介の問いに、顔を上げる。
わたしが忠告を聞かずに眞人さんのことを好きになっちゃったから、怒っているのだろうか。険しい顔をしていた。
「え、ええと。好きなのを自覚したって言うか、はっきりわかったのはあのときなの。松子撃退作戦で私を迎えに来てくれたとき。すごく、嬉しかった」
思い返しても、胸がドキドキ高鳴る。頬が勝手に赤くなった。
「ふうん。急にがば、の方か」
梅之介の眉間のしわが深くなった。
「……あのさ。あれ、僕だったかも知れない可能性だってあるんだぞ」
「え?」
「『まっつん』がたまたま眞人狙いだったから、眞人が行っただけだってこと!」
最後、声を少し荒げた梅之介は「なんだよ、もう」と言ってすたすたと歩き始めた。早足で歩く梅之介を慌てて追いかける。
「ま、待って。待ってよ、梅之介! なんで急に怒るの? わたし、梅之介にもちゃんと感謝してるよ? 参謀なんでしょう?」
「感謝とかじゃ、ないんだよ」
ひとごみの中に梅之介が消えて行く。小走りで追いかけるけれど、背中が小さくなっていく。
そんなつもりはなかったけれど、眞人さんだけに感謝しているような言い方をしてしまっていただろうか。
「ま、待ってってば! ねえ、梅之……、あ、すみません!」
ひとの間を上手くすり抜けられず、ぶつかってしまう。手にしていたバッグが落ちて、ポーチや財布が転がり出る。慌ててそれを拾いながら前方に視線を投げた。もう、梅之介は先に行ってしまったに違いない。
はあ、とため息をつきながら荷物を拾っていると、見覚えのある靴が視界に入った。顔を上げると、顔を顰めたままの梅之介が立っていた。
「もう! 何やってるんだよ、トロすぎだろ」
「ご、ごめん」
バッグを手に立ち上がる。梅之介が、わたしの手を取った。熱い手にぎゅっと握りしめられる。
「ほら、行くよ」
グイ、と引かれる。怒ってはいるけれど、わたしを置いていくほどではない、のかな? わたしが鈍くさいから、諦めているのかも知れない。
なんでもいいや。喧嘩するよりずっといい。
「ありがと」
えへへ、と笑うと、梅之介が目を見開いた。手を離しかけたかと思えば、ぎゅっと握り直す。ふいと顔を逸らし、「行くよ」とわたしの少し前を歩き出した。
「お前さ、ひとに甘えるの、上手いよな」
「え? そうかな。そんなことないと思う」
さっきとは変わって、ゆっくりと歩いてくれる梅之介。だけどぶっきらぼうな言い方でまだ機嫌がよくないのかもしれないと思う。
「いや、ある。僕、こんなに面倒見よくないんだ」
「ふうん? そうかなあ。梅之介、なんだかんだ言って優しいけど」
「それは多分……おまえだからだよ」
「ん?」
「なんでもない」
それから、梅之介は黙ってサクサク歩き続けた。どうしよう、もう一回謝ろうかなあ。折角の外出が気まずく終わるのって嫌だもん。
そんなことを考えていると、梅之介がぽつんと言った。
「最初は多分、お前の境遇に同情したんだと思う。行くところが無い不安は、僕にもよく分かる」
「え……? うん」
「それからは、なんだろうな。お前、すごく喋りやすいし、いいやつだから」
「……えっと、それは、ありがとう」
梅之介が、わたしを褒めてくれている。それがすごく嬉しくて、ニコニコしてしまう。
「わたしも、梅之介のこと好きだよ」
精一杯の感謝の気持ちを込めて言う。梅之介は「そうかよ」と短く答えた。
今度の休みは一緒にホラー映画を家で観よう、なんて話を梅之介としながら歩く。もう少しで家に着く、という場所で、梅之助がぴたりと足を止めた。
「おい、ちょっとこっちに隠れろ」
近くの建物の陰に無理やり押し込まれる。
「な、なに? どうしたの?」
「あれ、見てみろ」
梅之介が前方を指差す。ちょうど、店の裏門の部分だ。
「なにー? あ、れ?」
門扉の前で、誰かと話している眞人さんがいた。来客だろうか、と相手の顔を見たわたしは首を傾げる。
「あ! お正月に会った人!」
それは、初詣中の眞人を捕まえて熱心に縋っていた男性だった。名前は確かええと、浦部、だったか。
「し」
梅之介が口元に手をあてて、黙るように指示を出す。わたしたちは聴覚を最大限まで引き出すべく、耳を澄ませた。
「戻って来て下さい、お願いします」
浦部さんが頭を下げる。眞人さんが重たいため息をついた。
「無理だと何回言ったら分かってもらえるんですか。俺に、あそこにどのツラ下げて戻れっていうんです?」
「分かってます! だけど、あなたはこんな小さい店ではなく、もっと大きな店の板場を仕切ることも出来る人だ! だから、どうか華蔵に戻ってください」
大きな店の板場……? 『華蔵』って、飲食店だろうか。
「嫌なんですよ、浦部さん。あそこにはもう二度と戻りたくない」
「
その名前を訊いた瞬間、眞人さんの動きが止まった。顔つきも変わる。それを見た浦部さんは勢いづいて言った。
「まだ教えることが残ってたのにって言ってました。四宮さんがいなくなったことを一番残念がっていたのは榊さんなんです。榊さん、もう長く務めないと思います。だから榊さんの為にも」
「……板長には、本当に申し訳ありませんとお伝えください。浦部さんも、俺なんかの為にわざわざありがとうございました。でも、本当に戻る気はないんです。もう帰って下さい」
眞人さんは冷たく言い残し、家の中に入っていた。「四宮さん!」と追いかけようとする浦部さんだったが、門扉を閉じられ、立ち尽くしてしまう。浦部さんは、しばらくそこに佇んでいた。
「待ってますから!」
もう眞人さんが出てこないと判断したのだろう。大きな声でそう言って、浦部さんはとぼとぼと帰って行った。
背中が小さくなったころ、梅之介がため息をついた。
「わざわざ探し当てたって感じだな。向こうは、だいぶ眞人を欲しがってる」
「ねえ、華蔵ってなに?」
梅之介を見上げて訊く。私を見下ろした梅之介は、「料亭だよ」と言った。
「K市にある、知る人ぞ知る店だ」
K市……隣県にある市か。小京都だなんて呼ばれている、風情ある土地だということしか知らない。
「ふうん、料亭かあ。なるほどねえ、眞人さんの料理、美味しいもんねえ」
「ただの料亭じゃないぞ。一見さんお断りの超が付くくらいの高級料亭だ。文化人や、会社のお偉いさんなんかがこぞって利用するところで、一回の食事代はもちろんハンパない額になる」
「ふ、ふおお」
な、なんか敷居がすっごく高そう!
戻って来て下さいと言われていたってことは、眞人さんはそこで料理を作っていたことがあるんだよね。
そりゃ、どれも美味しいはずだよ、と納得してしまう。
「あの浦部って奴の話だと、眞人は何か理由があって『華蔵』を辞めたんだろうな。で、戻ってきてほしいと懇願されている、と」
「ふ、ふむふむ。どんな理由だろう」
「それだよ。なんだろうな」
梅之介と顔を見合わせる。
「すっごく、嫌がってたよね」
「ああ。どのツラ下げて戻れと、なんて言ってたし、トラブルがあったのは間違いないな」
うーん、とふたりで唸る。しかし、理由なんか思いつくはずもない。
「とりあえず、知らない顔をして戻ろう。眞人から何か言ってくれたなら、初めて知った風でいくぞ。多分、何あれって訊くのはまずい」
梅之介の言葉にこっくり頷く。訊かれたくないこと、言いたくないことは誰にだってある。今回のこれはきっと、眞人さんのそれに違いないと思う。
「そ、そうだね。眞人さん次第ってことで!」
「よし!」
万が一眞人さんから相談を持ちかけられたらどういう対応でいくか。そんな打ち合わせを梅之介として、わたしたちは素知らぬ顔で家に帰ったのだった。
「お帰り。映画、どうだった?」
そして、わたしたちを出迎えた眞人さんは、いつもと変わらなかった。
「あ、よかったよ。すげえ泣けた。マチコの悲恋がさあ」
「あれ? ホラーじゃなかったか」
「ホラーですよ。だけど、泣けるんです。あ、これお土産の芋羊羹です。食後にみんなで食べましょう」
笑いかけながら眞人さんの様子を探る。
やはり、わたしたちに何か言うつもりはないらしい。ごく普通の様子だった。
「ありがと。この店の、美味いんだよな」
紙袋を受け取る顔も、おかしなところはない。しかし、眞人さんは何気ない口調で続けた。
「外で、誰かに会わなかったか?」
梅之介の片眉がピクリと動く。わたしも、動きを一瞬だけ止めてしまった。
「いや? 誰も会わなかったよ」
梅之介が言うと、眞人さんは「そうか」とだけ返した。
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