捨てられた女、それはわたし【5】

 目覚めたのはスマホのアラーム音ではなく、鼻を擽る美味しそうな香りのせいだった。


「ん……」


 ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れない天井が広がっている。咄嗟に、自分がどこにいるのか分からなくなる。


「ええっと……、ああ、そうだ」


 数回瞬きを繰り返す間に、昨夜のことを思いだす。

 自分がどこにいるのか理解したわたしは、体を起こして枕元に転がしていたスマホを取り上げた。

 誰からの着信も、連絡もない画面を見ながらため息をつく。達也への何度もの発信履歴があるのみだ。


「やっぱり、昨日のことは事実、かあ」 


 分かってはいるけれど、辛い。起きたって、何にも好転していないわたしの現実。わたしは彼氏に逃げられた、家なし女のままってわけだ。

 すごく辛い。全部を放って、別の世界へ逃げ出してしまいたい。異世界からの招待状が舞い込んできたら、二つ返事でOKしちゃいたい。

 だけど、そんなことできるわけも、くるわけもなくて、わたしは今日もこの世界でいつも通りに働いて来なくちゃいけない。ご飯を食べるにも、新しい部屋を借りるにも、お金がいるのだ。

 そう、家電だって家具だって買い揃えなくちゃ。わたしのお気に入りだったエスプレッソメーカーも、革のソファもなくなっていたし。そういえば、アクセサリーボックスは本当になくなってるんだろうか。あれには初任給の記念として自分に買った、一粒ダイヤのピアスが入ってるのに……。

 眠りによって束の間忘れることのできた現状が、容赦なく襲いかかってくる。朝っぱらから「うう」と泣き咽びそうになったわたしだったけれど、そんなことは許さないと言うように起床時間を告げるアラームが鳴った。現実は、どこまでも無常すぎる。


「はい、仕事してきます」


 のそのそと起き上って、身支度を整えるべく洗面所へと向かった。


「うあ。ひっど……」


 鏡の中に、ぼさぼさカリフラワー頭の腫れぼったい目をした女がいた。


「これはまた、ぶっさいくだわ」


 あまりの不細工さ加減に笑えてくる。自虐の笑い声を上げながら、わたしは顔を洗って歯を磨いた。


「あんた、誰」


 シャコシャコと歯ブラシを動かしていると、背後から急に声を掛けられた。

 その声は、眞人さんのものではない。驚いて振り返ると、そこには綺麗な顔をした男の子が立っていた。

 二十七歳の私より随分若くみえるから、ハタチ前後だろう。背が高くて、モデルさんのようにスタイルが良い。その体の上には色白の小さな顔がある。寝癖がついているけれどサラサラの栗色の髪に、大きなアーモンド形の瞳は榛色。ピンク色の唇は少し薄い。顔も充分、モデルさんとして通用する。ていうかモデルさんなんだろうか。

 寝起きなのか、スウェットの上下をだらしなく着た――しかしそれがどこかかっこいい。イケメンって何でも着こなせる生き物なのだろう――彼は、わたしを見てぎょっとしたような顔をした。


「は、はお?」


 誰? と首を傾げるわたしに、綺麗な男の子は形の良い眉をぎゅっと寄せて声を荒げた。


「はあ⁉ 何で女なんかがここにいるの⁉」

「え、ええと?」

「ていうかそれ眞人の服! なんで? なんで女なんかがここにいて眞人の服着ちゃってるわけ⁉」


 ぎゃー! と男の子は叫んで、踵を返した。「眞人! 眞人ー!」と声を張り上げながら、店舗の方へ走っていく。


「だ、だれ?」


 ここの住人? でも、確か眞人さんは昨夜「飼い犬しかいない」って言ってたよね。


「は、はて?」


 分からない。だけど彼にとって、わたしがここにいることはとてつもなく不愉快なのだということは分かった。わたしを泊めたことで、眞人さんは彼に酷く怒られるのかもしれないということも。


「説明、してこなくちゃ」


 わたしが眞人さんのご好意で一泊させてもらっただけだと言わなくちゃ。慌てて身支度をして、わたしは男の子の向かったであろう厨房に走っていった。


「あ、あの!」


 扉をノックするのももどかしく、厨房に駆けこむ。そこには仏頂面をした男の子と、眞人さんがいた。男の子は眉間に深い皺を刻んだまま丸椅子の上で体育座りをしており、眞人さんは穏やかな様子で料理を作っている最中だった。


「あ、美味しそう」


 味噌汁のあったかな香りがそこを満たしていて、一瞬目的を忘れかけたわたしだったけど、男の子に「すみません」と頭を下げた。


「あの、わたし昨夜」

「眞人から全部聞いた。捨て犬かよ。いいトシした女がみっともねー」


 ふん、と顔を背ける男の子の頭に、眞人さんがコツンと拳を落とす。


「そういう言い方すんじゃねーの。おはよう。悪いね、こいつ、口が悪くって」

「い、いえ」

「人見知りが激しいんだ。だから、気にしなくっていいから」

「朝起きたら知らない女がいて、眞人の服着てるんだよ? 人見知りじゃなくっても敵意向けるでしょ。でも、」


 男の子は、わたしに上から下まで値踏みするような視線を向けた。それから唇の片方を持ち上げてクツリと笑う。


「でも、まあこんなブスが眞人とどうこうなるわけないか。何、そのファンキーな頭」

「あう」


 な、何てひどいことを! この頭にして笑われたことは多々あれど、あからさまに貶されたのは初めてだったので言葉が胸に突き刺さる。それが、こんなにも顔立ちの綺麗な男の子からとなれば、傷は深すぎる。


「あう、じゃねーよ、ブス。ブース!」

「やめろ、クロ」


 拳が落ちた。今度はコツンじゃなくてゴツン。クロと呼ばれた男の子は頭を抱えて「いってえ!」と唸った。眞人さんがわたしに顔を向ける。


「支度、済んだ? すぐメシの用意ができるから、そこに座りな。クロ、その椅子を彼女へ」

「くっそ、痛いじゃん! 眞人の馬鹿! 早く出て行けよな、ブス!」


 椅子から降りたクロくんがわたしに椅子を押しやり、家の方へ駆け戻って行った。どすどすと荒い足音が遠ざかっていく。


「すごく怒ってたみたいですけど、あの、わたし、もうお暇した方がいいんじゃないでしょうか」


 彼をとても不快にさせてしまったらしい。彼の消えた方を見ていると、「クロのことは気にしなくていいよ」と眞人さんが言った。


「あいつは人見知りが酷いし、女嫌いなんだ。悪かったね、ああなるとなかなか止まらなくって」

「あの、クロくんは、ここにお住まいなんですか?」

「昨日言っただろう。あれが俺の飼い犬」


 何でもないことのように言って、眞人さんはキッチン台の上に器を並べた。白いご飯に蕪とシメジのお味噌汁。小松菜と油揚げの煮びたしに厚焼き卵。ふわふわと美味しそうな湯気を立ち上らせていて、わたしは思わずそれに心奪われてしまう。


「え、と」


 しかし、彼の言葉の意味も知りたくて、頭に幾つもの疑問符が湧く。人間の男の子を、飼い犬? 男の子を、飼う? 犬として?

 眞人さんを見るけれど、平然とした様子でわたしの為にお茶を淹れてくれていた。


「ほら、出来たから座りな」

「あ、はい! 」


 とりあえず、クロくんから押し付けられた丸椅子に座り、少し高めに作られたキッチン台の上の食事に向き合う。

 ああ、すごく美味しそう。朝からこんな素敵に整った食事を摂るのは久しぶりだ。

 普段はトーストとヨーグルトくらいしか用意しなかったからなあ。


「すまんね、ここで食わせて」

「いえ、全然気にしないでください。では、有難く頂きます」


 出された食事は、どれもすごく美味しかった。お味噌汁なんて、私が作るものと同列にしてはいけない気がする。さすが、プロの作るものは違う。


「そうだ。あの、リヤカーなんですが、仕事帰りに取りに来てもいいですか?」

「ああ、いいよ。そのまま置いておく」

「すみません。ご迷惑をおかけします」


 それからこの店の場所を訊き――彷徨っていたらここについたと言ったら、眞人さんは可笑しそうにくすくす笑っていた――一駅分ほどの距離を昨晩の自分が歩いていたことを知った。

 しかし、タクシーを使わなくても充分職場に間に合いそうだったのでほっとする。


「じゃあ、ごちそう様でした。あの、行ってきます」

「はいよ、行ってらっしゃい」


 自宅側の門から出て行くわたしを、眞人さんは玄関先で見送ってくれた。それに会釈を返したあと、視線を感じて顔をあげる。二階の窓際にクロくんが立っていて、わたしと目が合うなり口パクで「ブス!」と言っていた。


「飼い、犬……」


 食事のせいで頭の隅に追いやってしまっていた言葉を思い出し、しばし思案してしまう。

 ふたりにはそういう趣味があるのだろうか。

 同性同士の恋愛というものに、抵抗感はない。世界にはたくさんの人間がいるのだから、様々な恋愛関係があって当然だ。

だけど、飼い犬と飼い主、といった関係があるということまではちょっと考えたことがなかった。ふうむ、色んな関係があるんだなあ。

わたしは彼にも頭を下げて、仕事に向かったのだった。

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