捨てられた女、それはわたし【6】
もしこの世界に神様がいるのだとしたら、わたしは絶対に愛されていない。前世で神様の親殺しでもしちゃったんじゃないじゃないかと思う。
出社したわたしを待ち構えていたのは、どうしようもなく残酷な事実だった。
「し、白路!」
「おはよう、真帆。婚約おめでとう……って、どうかしたの?」
更衣室で制服に着替えていたわたしの元に、真帆が駈け込んで来た。お祝いの言葉を口にしたわたしだったけれど、真帆の顔が怒りで真っ赤になっているのを見て首を傾げる。今朝は誰よりもにこやかであってしかるべきなのに、どうしたんだろう。
「どうしたの、じゃない! 達也、あんたから松子に乗り換えてたの! 昨日、あんたを捨てて出て行ったあいつは、松子と同棲始めてたの!」
「は?」
意味が解らない。え? 真帆はいまなんて言った?
「は? じゃなくて! 松子がさっきから、みんなに言って回ってんの。達也さんと同棲始めたって。あの男、あんたとの部屋引き払って、松子と暮らし始めてたの!」
呆然とする。
わたしより五つ下で、入社二年目の
負けん気が強くてはきはきしていて、物覚えのいい子。わたしの言うことをしっかりと覚えて、同期の子たちの誰よりも早く仕事に慣れた。
わたしのことをとても慕ってくれて、わたしたちの部屋に遊びに来たこともある。
達也ともすっかり仲良くなって、『白路センパイたち見てると羨ましくなっちゃう。すごく素敵ですよねえ』だなんて言っていた。達也も、『松子ちゃんって、素直で可愛い後輩だな。白路、かわいがってやらなきゃな』って笑っていた。
その松子と、達也が?
「う、そ」
目の前が真っ白になる。だってそんなの、ありえないもの。
「嘘だったらこんなに取り乱してないって! あの男最低だとは思ってたけど、まさか松子に手を出すなんて信じらんない! 松子も松子だよ。あんなに白路に懐いてたくせに!」
ロッカーを真帆が叩くと、驚くくらい大きな音がした。その音に、はっと我に返る。だけど、真帆の話を信じられるかといえば、話は別だった。信じたくない、という方がいいかもしれない。
「わ、たし。松子と話してくる」
「私なら、ここにいますよ」
笑みを含んだ声がして、声の方向を見て見れば出入り口のドアに松子が凭れていた。
サラサラのストレートヘアが良く似合う松子は、今日は綺麗な黒髪を一纏めにしていた。肩口からさらりと流れる髪には一筋の乱れもない。
マツエクの縁取る大きな瞳を半月にかえて、松子は「すみませぇん、白路センパイ」とかわいらしく小首を傾げた。
「私、達也さんのこと本気で好きになっちゃって。なので、達也さん貰っちゃいました」
「貰っちゃった、って……。松子、それ本気で言ってるの?」
「はい! クリスマスイブを二人の始まりの日にしたいってお願いしたら、達也さん、それを叶えてくれたんです」
舌をペロッと出して笑う仕草は、人に甘えるときの松子の癖だ。この子は自分がしていることを分かっていてなお、わたしにそんなことをしてのけるのか。
「松子! あんた、あんなに白路に可愛がってもらってたのに、どうしてそんなことできるの⁉」
真帆が気色ばむ。しかし松子は怖気づく様子もなく、肩を竦めた。
「えー、そんなの達也さんが好きだからですよ。誰の彼氏だろうと、好きになった人を諦めるようなこと、私はしません。それに、」
松子は、わたしに冷ややかな目を向ける。
「私、白路センパイのこと最初っから大嫌いだったんですよね。ちょっと綺麗で人がいいからってちやほやされてるところも、人の親切を当然な顔をして受け止めるところも、吐き気がするほどムカついてました」
「は? あんた、何言ってんの」
「自分のお願いは何でも聞いてもらえる、って考えが滲んでいるところも嫌。いつか絶対、そのへらへらした顔を涙でぐしゃぐしゃにしてやるって思ってた。達也さんも手に入るし、今回は一石二鳥ってやつですね」
わたしは本当に、松子を可愛い後輩だと思っていた。松子も同じくらいわたしを先輩として慕ってくれていると信じて疑わなかった。ましてや、嫌われているなんて想像だにしていなかった。
あまりのことに何も言えないわたしを見て、松子は嬉しそうに口角を持ち上げる。
「センパイ、天然だとか優しいだとか言われてますけど、単に頭が弱いだけですよ? 私と達也さんが半年前から付き合いだしていたことも、引っ越し準備を進めていたことも全然気づかないんだもん。ホント、頭弱すぎて笑える」
「松子、いい加減にしな」
真帆が松子に近づいたかと思えば、平手で頬を打った。乾いた音が、狭い更衣室に響く。
打たれた左頬を手で押さえた松子が「あーあ、ホント嫌になる」と吐き捨てるように言う。
「みんな、白路センパイの味方なんですね。私、チーフにまで叱られました。でも、どうしてこんなひとを大事にしてるのか、全然分かんない」
「あんた、自分がしたこと分かってんの? 誰が、最低なことしたあんたの味方をするっての」
「好きなひとに好きって言って、悪いですか? 自分の気持ち、押し殺さなきゃいけませんか? 達也さんを繋ぎとめられなかったこのひとにも、責任はあるでしょ」
「松子、あんた!」
「もう、いいよ。真帆」
再び振り上げられようとした真帆の手を掴んで止めた。
「ありがとう、真帆。でも、松子の言う通りだよ。全然気づかなかったの、わたし。達也が心変わりしたことも、引っ越す準備をしていたことも」
本当に何も、気付かなかった。半年という期間に絶望してしまうくらいに。
「ほら出た。いい子ちゃん」
赤くなった頬を押さえたまま、松子が鼻で笑う。
「そういうとこ、ホンットに嫌い。悔しい、酷いって食って掛かられた方がよっぽど可愛げがありますよ。まあでも、別にもう構いません。私、近いうちに別店舗に移動させられるでしょうし」
女性スタッフばかりだからか、気の強い面々が揃ってしまうのか、我が社ではトラブルが多い。そういった場合、非がある方が別店舗に移動を命じられるのだった。
今回もきっとどちらかが移動となる。それが自分であると、松子は分かっているのだ。
「まあ、あと少しの間だけ顔を合わせなきゃいけませんけど、お互い我慢しましょうね、センパイ」
可愛らしく笑ってみせて、松子は踵を返した。彼女の愛用している香水の、マグノリアの香りだけがその場に残った。
「なに、あれ……。頭おかしいんじゃない、あの女」
怒りの余りか、真帆の声が震えている。真帆はわたしの顔を覗き込んで、「大丈夫?」と言った。
「顔色悪い。大丈夫? 仕事、できる?」
「ん……。ありがとう、大丈夫」
本当は、仕事なんて放りだしてこの場から消え去りたかった。それをしないのは、偏に行く場所がないからだ。
松子の言葉のひとつひとつが、わたしの心をギリギリと締め上げる。
大好きなひとと大事な後輩が、ふたりしてわたしを騙していた。わたしが泣き咽んでいた昨夜、ふたりは幸せに寄り添っていて、もしかしたら愚かなわたしを笑っていたのかもしれない。
「酷い、よねえ。奪うにしても、もっとやり方がある、よねえ」
呟いて、はは、と力なく笑う。もう、どんな顔をしていいのかも、どうしたらいいのかもわからない。
不思議と、涙は出なかった。ショックが大きすぎたのかもしれない。
「わたし、あんなに嫌われるようなこと、したかなあ」
「してないよ! あの女が勝手に嫌ってるだけだよ。あいつ、白路のこと全然知らないくせに勝手なこと言って、ホントにムカつく。私、チーフに早く移動させるようお願いしてくる!」
真帆が言うなり、走っていってしまう。それを止める気力は、わたしには残っていなかった。
「サイアク、だなあ」
はあ、とため息をついてその場にへたり込む。リノリウムの床はひどく冷たくて、けれど立ち上がることの出来ないわたしは、徒に体温を奪われ続けたのだった。
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