捨てられた女、それはわたし【4】
わたしに料理を出してくれた男性は、何も言わずに厨房に引き返して行った。店じまい作業に戻ったのだろうか。がちゃがちゃと音がする。こんなわたしを放っておいてくれているのかもしれない。
「……ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
すっかり食べ終わって、お箸を置く。それと同時に、男性がトレイを持って現れた。わたしの前に湯呑を置き、正面に腰かける。
「腹、いっぱいになったか」
「はい。あ、お茶、頂きます」
程よい熱さのお茶はほんのりと甘い。ゆっくりと飲むわたしを、男性は黙って見ていた。
お腹がいっぱいになり、体も温まると頭が少しずつ機能を取り戻す。壁掛け時計を見上げれば十二時を回っており、途端に申し訳なくなる。
「あの、急に無理なお願いをしてすみませんでした。すぐ出ます」
慌ててバッグを取って、財布を取り出す。
「あの、これ、お代です」
一万円札を取り出してテーブルの上に置く。
生乾きのコートを掴んで立ち上がると、「行くとこないんだろ」と男性が言った。
「え?」
「行くとこ、ないんだろ。これからどうするんだ?」
「何でそれを知ってるんですか」
「さっき言ってただろ。それにあの荷物を見れば分かる」
「あ……」
そういえばさっき、必死の余りそんなことを口走った気がする。
思わず頬が赤らんだ。切羽詰まってるからって、そんなことまで言っちゃってたなんて、情けない。
座ったままの男性が私を見上げる。
「これからどうするつもりなんだ。行くあて、ないんだろ」
「明日になったら、友達が泊めてくれるって言うので、大丈夫、です」
「今夜は?」
「ええ、と……」
言葉に詰まる。そんなわたしに、彼は「うち、部屋空いてるぞ」と言った。
「え?」
「布団もある」
「え、ええと」
おろおろとしたわたしに、彼はくすりと笑った。
「心配しなくても、変な真似なんかしない。あんまり可哀想だから、言ってるだけだ」
それは、嬉しい。だけど、初対面の人に理由なく甘えてはいけないと思う。ただでさえ、不躾なお願いを聞いてもらったというのに。
躊躇うわたしに、彼はテーブルの一万円札を摘み上げた。
「この金、宿泊費込みで貰うってことでどうだ。朝食もつけてやる」
そう言って、にこりと笑った。その笑顔はとても優しくて、疲弊しきっていた心がじんと疼いた。この世界にちゃんとひとはいて、わたしはたった一人なんかじゃないんだって思う。
「……お願い、します」
気付けば、そう口にしていた。
「よし。それなら、外のリヤカーを裏庭に持って行くか」
言うなり、彼は立ち上がって外に出ようとする。慌ててその背中に声をかけた。
「あ、あの。私、三倉白路といいます。一晩、お世話になります」
「ん? ああ、名前か。俺は眞人。
振り返った眞人さんは、「よろしく」と歯を見せて笑った。
それから二人で、リヤカーを店の裏へと運んだ。
「あれ? 足、どうした?」
「あ。ここに来る途中、ちょっと。ヒールも折れちゃって」」
右足をひょこひょこ引くように歩くわたしに眞人さんが気付く。えへへ、と笑って恥ずかしさを誤魔化すと「ほんと、散々だな」と彼は笑い、「湿布、あったかな」と呟いた。
焦っていたので来たときには全然店構えを見ていなかったけれど、古い日本家屋の一部を店舗に改装しているようだ。連れて行かれるままに裏門を通ると、二階建てのどっしりとした家屋が建っていた。庭も広くて、暗がりに幾つもの植木があるのが分かった。
「ほえー。おっきな家ですね」
「よく言われるが、幽霊屋敷みたいなもんなんだ。人の使っていない部屋は埃まみれだし、畳が腐ってたりするからな。とりあえず使える部屋に連れてくから、荷物はあとから取りに来るといい」
雨よけの庇の下にリヤカーを置き、中に入った。
随分古い建物らしい。歩くたびに廊下がキシキシと鳴る。しかし店と同じく、掃除が行き届いていてすごく綺麗だった。
「あの、ご家族は?」
「飼い犬が一匹だけ。もう寝てる」
「はあ、そうですか」
眞人さんは一階の和室へ案内してくれた。六畳の部屋は客間として使っているのだろう。中央に一枚板の応接机と座椅子が置かれていた。さっきの話のように埃まみれではないし、畳もまだ新しい。
部屋の隅にはヒーターが置かれていて、眞人さんはすぐにスイッチを入れてくれる。
「そこの押し入れの中に布団が一組入ってる。廊下の奥がトイレとバスルーム。すぐに使って構わない。俺は向かいの部屋で寝るけど、ここには入らないから安心するといい」
応接机を隣室に片づけながら――こちらはすごく埃っぽかった。なるほど、話は本当らしい――眞人さんがテキパキと教えてくれる。
「あんた、仕事は? 住むとこがない上、無職だったりする?」
「あ、仕事はあります。明日も仕事があるので、七時半にはここを出ようかと思います」
わたしは、出て行かざるを得なかったアパートから徒歩に十分ほどの場所にある駅中のエステサロンで働いている。
いまいちここの場所が分からないけれど、わたしの足で行ける範囲なんてきっとたかが知れている。その時間に出てタクシーを使えば、出社時間には十分間に合うだろう。
「そうか。じゃあ出る前までに朝食は準備しておく」
「わたしの為に早起きするのなら、お気遣いはいらないです。泊めて頂けただけで充分ですし」
「早朝から市場に買い出しに行くんだ。いつもその時間には起きてるから、心配いらない」
ヒーターが部屋をゆっくりと暖めてくれる。その間に眞人さんは布団まで敷いてくれた。
「よし、これでいいな。あんた、着替えはある?」
「はい、リヤカーの中に。あ」
言いながら気付く。随分雪をかぶっていたけれど、大丈夫だろうか。
眞人さんもそれに思い至ったらしい。「無理かもな」と呟いた。
「えっと、見てきます」
「ああ」
そうしてリヤカーの元へ戻り、荷物を確認したわたしだったけれど、荷物は見るも無残な状態だった。
ああ、革のバッグがシミだらけに、カシミヤのショールがびしょ濡れになってる……。
「あ、明日の服だけでも乾かさなきゃ!」
前日と同じ服なんかで出社したら、絶対に余計な勘繰りをされてしまう。突っ込まれたくない現実があるだけに、それだけはどうしても避けたい。
荷物の前でへたり込みたい気分だったけれど、慌てて最低限の服を抱えて部屋に戻った。
「ほら、ハンガー。鴨居にでも掛けとけ。後でアイロンも持ってきてやるから」
眞人さんはわたしの様子を見てすぐに状況を理解したらしく、ハンガーを貸してくれた。それから、大きなトレーナーも渡してくれる。
「俺のでよければ使うといい。まあ、あんたがいいなら、だけどな」
「お借り、します」
こんなに迷惑をかけてしまっていいんだろうか。一万円だけでは足りない気がする。
しかし眞人さんは全く嫌な顔をせずに、淡々とわたしの世話を焼いてくれた。右足のことも忘れていなくて、湿布とアイスノンまで出してくれた。右足首は少し熱を持っているだけだったので、湿布を貼っておけば明日は大丈夫だろう。
そうして一通りのことをしてくれると、「さっさと風呂に入ってこい」と言って部屋を出ていった。
「なんていい、ひと……」
渡されたバスタオルを抱えて、わたしは彼の去っていった襖をしばらく見つめていた。彼はそのまま、店舗の方へ行ったらしい。すぐに気配が消えた。まだ片付けが終わってないのだろう。それと、多分お風呂を使うわたしに気を使ってくれたのだと思う。
「あ、と。早く入らなきゃ」
わたしが早くお風呂を使わないと、彼はいつまで経ってもこちらに戻ってこられない。これ以上迷惑をかけられない、とわたしは急いでお湯を使わせてもらったのだった。
「あの、ありがとうございました」
お風呂を上がり、眞人さんに報告にいく。慣れない家で、見当をつけてドアを開けると厨房に繋がっていた。狭いけれど綺麗に磨かれたキッチンの中央に、眞人さんはいた。丸椅子を置き、そこでぼんやりと煙草を吸っていた。
「ああ。服、デカいな」
眞人さんがわたしを認めてくすりと笑う。トレーナーはわたしが着るとでっかいワンピースのようになっていた。
「わたしの服、全滅だったのですごく助かりました」
「そうか。まあ、ゆっくり寝るといい。ん?」
立ち上がった眞人さんがわたしの方へ来た。
ドアと厨房は階段二段程の段差があって、わたしの方が少しだけ高い。そのわたしの頭に眞人さんは手を伸ばした。
「は、はい?」
「髪、濡れてるぞ。ドライヤー、あっただろう。遠慮しないで使え」
雫を残しているわたしの髪に触れて、眉根を寄せる。
早くバスルームを空けなければと焦るあまり、髪を乾かすことをサボっていたのだ。
「あ、じゃあ部屋でしますから。眞人さんもお風呂使ってください」
「ああ。じゃあおやすみ」
彼はそう言って、椅子の方へ戻った。その背中に「おやすみなさい」と声をかけて、わたしは部屋に戻った。
ドライヤーを借り、髪を乾かす。それから布団にもぐりこんだ。
「いい匂いがする」
昔、祖母の家の布団がこんな風にあったかい匂いがしたっけ。すっと吸い込むと、心が穏やかに落ち着いてくる。
今日は、数時間の間で色んなことがあった。だけどいまは、全部忘れよう。だって、こんなにも気分が穏やかになれてるんだもの。ああ、地獄に仏って正にこのことだ。眞人さんに出会えて、本当に良かった。
疲れ切っていたせいもあるけれど、眞人さんのお蔭で人心地の付いたわたしは、目を閉じただけで実にあっさりと簡単に、眠りへ落ちたのだった。
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