捨てられた女、それはわたし【1】
街路樹を彩るイルミネーションの光を受けて、粉雪が舞う。温かそうなコートを着てふわふわのマフラーを巻いた女の子が、隣を歩く男の子に「雪だよ」なんて可愛く言って、微笑み合っている。
メリークリスマス。
今夜はホワイトクリスマスっていうやつだね。聖なる夜に清らかな雪。ああ、神様ってなんて粋な演出をするんだろうね。
この夜、どれだけの人が愛を囁き合い、温もりを分かち合っているんだろう。
クリスマスムードが限界まで高まった、十二月二十四日の二十二時。わたしは朽ちかけた木製のリヤカーをギシギシと引きながら街中を彷徨っていた。
積み込まれているのはわたしの洋服やバッグ、歯ブラシやメイクボックス。いわゆる全財産だ。
「お、重た……」
タイヤの軸がおかしくなってしまっているリヤカーは思うように進まなくて、無駄に力がいる。
どうせ行く当てもないのだから止まってしまえばいいのだろうけれど、わたしは足を止めることができなかった。
この煌びやかなムードから逃げ出したくて。いや、この残酷なまでに哀しい現実から逃げ出したくて。
「う、う……」
涙は頬を滝のように伝い、鼻水まで垂れている。噛みしめた唇からは嗚咽が零れた。顔をぐしゃぐしゃに歪ませて、みっともなく泣き声を洩らしながら、わたしは歩き続けた。
*
遡ること三十分前、わたしは一年ほど同棲していた彼氏と、強制的に別れたのだった。正確に言えば、捨てられた。まともな説明もなく。
仕事から帰ったら、部屋がもぬけの殻だった。
がらんどうのリビングのど真ん中に、わたしの物だけが放り出されるように置かれていた。
『どういう、ことでしょうか』
立ち尽くすわたしの後ろで、管理人さんがおろおろしている。
『ぼ、僕に言われても、なんとも。三枝さんは何も仰ってませんでしたし』
彼氏――
『
彼の言葉を背に、スマホを操作する。何度目かの発信だけど、達也が出ることはない。単調な女性の声で、『この番号からの着信はお繋ぎできません』というフレーズが繰り返されるばかりだった。
荷物の上にチラシがぺらりと乗っている。それを拾い上げてみると、裏に達也の特徴のある右上がりの文字が並んでいる。
『他に好きな人ができた。別れ話をして
メリークリスマス。幸せになってね。達也』
意味が、わからない。
だって、今朝はそんなそぶりなかったじゃない。笑顔でわたしを見送ってくれたじゃない。
『――今夜は二人で美味しいご飯を食べて、ケーキを食べよう。俺が全ての支度をしておくよ』
今朝、出勤前のわたしを見送ってくれた達也は、確かにそう言った。
『支度って、達也は料理が苦手じゃない。大丈夫なの?』
『そりゃあ、白路が満足するものは作れないかもしれないけど、頑張るって』
達也が照れたように頬を掻き、わたしは達也にぎゅっと抱きついた。
『すごく、嬉しい』
『じゃあ、仕事頑張っておいで』
達也がわたしのふわふわの頭を優しく撫で、頭のてっぺんにキスを落としてくる。
四日前に、ゆるふわヘアを意識してかけたパーマは大失敗して、わたしの頭は茶色いカリフラワーのようになっていた。言いたくはないけど、アフロと形容されるやつ。
それまでは綺麗目を目指してサラサラのストレートヘアをキープしていたから、この変化は回りに驚きと爆笑を与えた。達也も、帰ってきたわたしを見るなり体をくの字にして笑い転げた。何だよそれ、大失敗じゃん!
でも、見慣れてきたら可愛いよって言ってくれるようになったし、こうして慈しんでくれる。達也は、どんなわたしでも好きだといつも言ってくれるのだ。
『行ってきます! 達也の為にも頑張って来るね!』
『うん、行ってらっしゃい』
ドアが閉まるまで、達也は笑顔を崩すことはなかった。
達也は二ヶ月前に、務めていたジュエリーショップを辞めている。見た目もよく、トーク技術の高い達也は女性客に人気があって、売り上げもすごくよかった。だけど、達也の営業態度に妙な勘違いする女性が多くて、トラブルも多かった。
達也はすごく優しい。お客様を無下には出来ない、とやんわりと断っていたけれど、中には勘違いが度を越し過ぎて、部屋にまで押しかけてくる人もいた。
わたしも、全く知らない人にいきなり、達也と別れてと迫られたことも何度もある。
『白路に嫌な思いさせてまで、この仕事したくない』
これも仕事だからと我慢していたわたしに達也はそう言ってくれて、惜しまれながら退職したのだった。
その行動に、わたしは達也のわたしに対する愛情を感じていた。達也はわたしを想っているからこそ、仕事を辞めたのだ。達也の次の仕事が決まるまでどれだけでも待つつもりだったし、その間は支え続けると誓っていた。
なのに、どうして? こんな置手紙一つで、わたしと達也は終わりなの……?
『そ、それでですね、三倉さん。契約は今日でおしまいなので、今日中に出て行ってもらわないといけないんですが』
チラシの裏を呆然と見つめるわたしに、管理人さんが申し訳なさそうに言う。
『契約がおしまい? いつから、そんな話になってたんですか……?』
『退去の場合は……、一ヶ月前にはご連絡頂いてます』
ひと月も前……。そんなに前から、達也は別れるつもりでいたのか。全然、気付かなかった。
そうね。達也は、自分の本心を隠すのが上手いもんね。どれだけ嫌なお客様でも、笑顔を曇らせないのが自慢だって言ってたもんね。
『どんな些細なことでもいいから、その人のいいところを見つけるんだ。そして、一緒にいる間はそれを理由にして心から好きになる。本心からの好きが伝われば、嫌な思いをする女はいないよ』
いつかに言ったあの台詞。あれは、わたしにも当てはまっていたのかな。
『あの、三倉さん。可哀想だけど、その』
『荷物……、運びたいので。何か運べそうなもの貸してもらえませんか?』
こんな声が自分から出るのかと思うほど低い声が出た。管理人さんが、あからさまに安堵の息を吐く。
『古いリヤカーでいいなら、あげますよ。そのくらいの荷物なら、全部乗るでしょう』
『ありがとう、ございます』
決まりだから、ごめんねえ。そう言いながら、年配の管理人さんはわたしの荷物を運ぶ手伝いをし、あったかな缶コーヒーを一本くれた。心配そうに見送る彼に会釈を一つだけして、わたしは行く当てもなく歩き出した。
達也と住んだマンションから少し離れると、堰を切ったように涙が溢れだした。わたしは別れを拒むことも出来ず、彼との思い出に身を預けることもできないのだ。
大切だった場所なのに、背を向けて去ることしかできない自分が憐れで、わたしは泣きながら足を動かしたのだった。
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