捨てられた女、それはわたし【2】
粉雪はすぐに、大きな牡丹雪に変わった。わたしのカリフラワーの頭の上にも、コートの肩にも雪が降り積もる。リヤカーの鉄製の引手を握る手はかじかんで、感覚がなくなりかけていた。
「これから、どうしよ……」
ず、と鼻水を啜る。行先がないまま街を彷徨うのは、もう限界だった。
今日の日付を思えば、ホテルに向かっても部屋が空いているとは思えない。帰れる実家もないし、この荷物を抱えて泊まれるところなんて、どこにあるんだろう。
「う、わっと!」
リヤカーが、ガタンと止まる。アスファルトの段差に引っかかったのかもしれない。
「よ、いしょ。うあ!」
力任せに引くと、勢いよく動いた。バランスを崩してよろめく。その拍子に、ばっきりと右のピンヒールのヒールが折れた。足首も少しひねったらしい。地面を踏むと電流が走るような痛みを覚えた。
「さい、てい……」
道路にコロンと転がったヒールを拾い上げる。お気に入りだったのに君までいなくなってしまうのね、と思うと新たな涙が溢れた。
涙を拭くのも面倒になって、顎先からぼろぼろと雫を落としながら、ふっと周囲を見渡す。
クリスマス一色の街中で、わたしは酷く異端だった。
古ぼけたリヤカーを引きながらぐずぐず泣いている、ふわふわアフロの女。手には折れたヒール。誰もがわたしを見ないようにして通り過ぎて行った。
「世界に一人きりって、こういうことか……」
こんなにもたくさんのひとがいるっていうのに、誰も私を見ない。まるで、私という存在が消え去ってしまったかのようだ。
「ううー……」
泣きながら、わたしはバッグの中からスマホを取り出した。小さなプレートのようなこれが唯一、わたしと世界を繋ぐもののような気がした。
アドレスの中から、友人である
しゃくりあげなから、達也がいなくなり部屋もなくなったので泊まらせてほしいと言ったわたしに、真帆は大きなため息をついた。
「こうなるって、思ってた。あんな屑とは別れろって何度も言ったじゃん。あいつは女を食いものにするしか能のない馬鹿なんだって」
「だって……」
「だって、じゃない。あたしも
達也と付き合っていることは、友人たちに酷く不評だった。達也が不誠実だと、彼女たちは口を揃えて言うのだった。女の財布を目当てに上手い事を言う。それを仕事にしている男なんて、信用しちゃダメだよ。
そんな彼女たちの言葉を聞かなかったのは、わたしだ。
「荷物だけ残されてたって言ってたけど、ちゃんと全部揃ってる? 金目のもの、なくなってない?」
真帆の言葉に、振り返ってリヤカーの中を見る。剝き出しの洋服たちに雪が積もっているのを見て「ぐえ」と声が漏れたけれど、とりあえず見ないことにする。
あれ? アクセサリーボックス、積み込んだっけ? そういえば家電の類もドライヤーくらいしかなかったような気がする。同棲を始めたとき、随分持ち込んだんだけどな。
「ええと、多分、その……」
「……ない、のね。呆れた」
真帆が一際大きなため息をついた。
「警察行けば? 被害届出しなさい」
「え、っと。でも」
「そこまでしたくない、なんて言うんでしょう。こんなときでさえ。あんたってどこまでも甘いもんね。だから、いいように利用されるんだって」
元々真帆ははっきりした物言いをするのだけれど、今回ばかりは言葉の棘が胸に深く刺さる。
押し黙ったわたしに、真帆は続けた。
「いますぐ家に来なさいって言いたいけど、ごめん。今日だけは無理。彼氏が来てる」
「あ……そうなんだ」
「今の白路にこんなこと言いたくないんだけど……」
真帆がぐんと声音を柔らかくした。申し訳なさそうに口ごもる。
「ついさっきプロポーズされたばかりなの。明日は来ていいから、今日だけは許して」
「お、おめでとう!」
結婚願望の強い真帆が、七年付き合っている彼氏からのプロポーズを心待ちにしていたのはよく知っていた。真帆にとって、大切な夜。そんなときに、わたしが景気の悪い話を持ち込んでいいはずがない。
「そんな大事なときにごめんね。わたし、他をあたってみるから気にしないで。本当におめでとう!」
「あ、白……」
慌てて通話を切った。それからスマホをリヤカーの中に放り投げて、ため息をつく。
今夜はクリスマスイブ。友人たちはそれぞれの幸せな夜を過ごしていることだろう。誰に連絡を取っても困らせるだけに違いない。
「わたしもそうだと思ってたんだけど、な」
あったかい部屋で、達也の作ったご飯を食べて、クリスマスケーキも食べて。シャンパンを飲んで、すごく美味しいよ、なんて言って笑いあう。そんな夜を過ごせると思っていたのに。
ぐず、と鼻を啜ったと同時に、お腹が大きな音をたてた。
「そういえば、ごはん食べてないんだっけ……」
昼食を摂って以来、何も食べていない。空腹に気付くと、堪らなく苦しくなってきた。
「ごはん、食べよ」
お腹をいっぱいにすれば、この虚しさから僅かでも離れられるかもしれない。
ファストフード店でも、どこでもいいや。
冷え切った引手に手をかけ、わたしは痛む右足を庇いながら歩きだした。
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