『好き』と鳴くから首輪をちょうだい
苑水真茅
それは、最後の晩餐
「食、食べていい?」
「よし」
許可を貰ってから、そっと漆塗りの箸先を動かす。摘み上げれば、艶のある身の上を白いソースがゆっくりと伝い落ちた。
ぱく、と一口に入れる。鼻からふわりと出汁の香りが抜け、口の中に柔らかな風味が広がる。噛みしめたら、ぷりぷりした身から甘い汁が溢れた。
「この白いソース、なに」
「白味噌。うまいか?」
もぐもぐと口を動かして嚥下して、もう一尾に箸をのばしたわたしに
「次、いくか?」
「いく」
眞人さんは厨房に引き返していった。かちゃかちゃと器具を扱う音を聞きながら、海老と空豆を食べる。
お皿が舐めるようにきれいさっぱり綺麗になった頃、小ぶりなお椀が現れた。
お椀の蓋をそっと取ると、温かな湯気が溢れだす。
「蕪の擦り流しだ。シロの好きな蛤を入れた」
「わあ。わたし、蕪も大好きなの!」
「知ってる」
三つ葉の青々とした香りが食欲をそそる。お椀に両手を添えて持ち上げ、黒く光る椀の縁に口をつける。滋養深い、あったかな味が流れ込んでくる。箸を手に取り、沈む貝の身を摘まんだ。口に運んで噛みしめると、蛤の甘さが感じられる。
「ねえ、眞人さん。わたし、すっごく贅沢なことしてる」
「当たり前だろ。懐石料理なんか滅多につくらないんだぞ、俺は」
「……うん、知ってる」
再び椀に口をつけて、温かな汁をすする。口を離すと、三つ葉がぺとりと唇に張り付いた。
「ああ、もう。お前はもっと上手く食えないのかよ」
はあ、小さくため息をついた眞人さんが、親指でぐいとわたしの唇を拭った。わたしよりも幅の広い指腹に、くたりとなった青葉がくっつく。
それを認めた瞬間体は勝手に動いて、わたしは無意識にその指先を口に含んでいた。
少しだけ塩気のある指をしゃぶり、葉を舐めとる。咀嚼することもなく飲み下して、目の前に立つ男を見上げる。
眞人さんはくつりと顔を歪めて笑った。わたしの口の中の指をそっと引き抜き、それから撫でるように指腹を唇に這わす。優しい感触を、わたしはじっと受け入れた。
「もう、そういうことしなくていい。お前はただ、食え」
「しなくていい、じゃなくて。するなって眞人さんは言ってるんでしょ?」
「……最後のメシくらいいいモノをゆっくり食わせてやりたいって、本気で思ってんだ。まあ、俺のエゴなんだけどな」
「それも……」
知ってる。
言葉を飲み込むのを誤魔化すように、永遠に体内に取り込めない指先を吐き出した。
椀を再び取り上げ、蛤を食べる。咀嚼を繰り返していると、瞳に溢れた涙が椀の中に落ちた。その小さな水音が、聞こえた気がする。
「飼うって言ったくせに、な」
「うん……」
「捨てちまうなんて、な」
「うん……」
少しだけしょっぱくなった吸い物を啜る。椀の中身を見計らった眞人さんが立ち上がった。その背中を思わず掴む。
「なんだよ、準備、できないだろ」
こちらを振り向かないまま、眞人さんが言う。その広い背中に縋った。
「一緒に、食べて」
「そんなことしてたら、料理を出すタイミングがズレるだろ」
「冷めていい。煮えすぎちゃっていい。だから、お願い。今日くらいは、飼い犬と一緒に食べてよ。最後、なんでしょ?」
涙で濡れた声は何度も詰まり、震えた。
「おねがい、眞人さん」
「……お前はいいのか、クロ」
眞人さんが、部屋の隅っこに顔を向けた。四人掛けのテーブルに一人座り、蛤を突いていた
「いいに決まってるじゃん。景気の悪そうな顔したクソ女と二人きりでゴハン食べるなんて、楽しく無いもん」
「……そうか。じゃあ、少し待ってろ」
眞人さんは小さくため息をついて、厨房に戻った。それから幾つかの食器を乗せたトレイを抱えて戻ってくる。その中にはビール瓶もあった。
「あとは勝手にとって食えよ。俺も飲む」
「あ、いいな。僕にもビール頂戴」
「好きに飲め。ああ、シロは止めとけよ。酔ったお前は、めんどくさい」
「むう! なんでよう。わたしだって飲むもん!」
厨房に駆けて行ったわたしは勝手に瓶ビールとグラスを持って来た。自分の席に戻れば、目の前に座っていた眞人さんが諦めたように栓抜きを手渡してくれる。
「量、控えろよ?」
「眞人さんの言うことは、もうきかないもん」
「好きにしろ」
グラスにビールを注ぐと、勢いが余ったせいか泡ばかりになってしまった。それを一息に飲み干して、大きく息を吐く。冷たい液体が食道を通っていくのが分かる。
「シロ。泡」
わたしを見てくすりと笑った眞人さんが手を伸ばして、わたしの鼻の下を乱暴に拭った。
「……ありがと」
「ん」
何気ないように眞人さんが言って、自分のグラスに口をつける。露わになった喉仏が上下するのを見てから梅之介に目を向けると、ばちりと視線がかち合った。梅之介が綺麗な顔を歪めてみせて、舌をべ、と出した。
「食いしんぼ。こっち見たって、料理は分けてあげないよ」
「眞人さんのをもらうからいいもん。ふんだ、ぶさいく」
「あんたにだけは言われたくないね」
いつものくだらないやり取りをしながら、思う。こうして三人で食事をとるのはきっと、これが最後だ。この時間はこんなにも愛おしいのに、掬い上げた水のようにするすると流れ消えていってしまうんだ。
目の前に座るひとを窺う。端正な横顔を見つめるだけで胸の奥がきゅうっと締め付けられた。喉の奥がひりついて、目が熱くなる。
ふっくらと炊かれた黒豆よりも艶やかで深い色をした瞳がわたしを見る。
「なんだ、シロ。箸が止まってるぞ」
食えよ、優しくそう言う声が、愛おしくて哀しい。泣き出しそうになるのを堪えて、わたしは静かに頷いた。
――わたしは、心地よかったこの家から、飼い主の元から去らなくてはいけない。
この人のことを、好きになってしまったから。もう、どうしようもなく。
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