第236話 ヴェルト奪還 その③

 宙を舞う埃が月灯りに照らされて、幻想的な時間が流れている。

 荒れた室内にはいくつかの缶詰と空の瓶。隅に出来た蜘蛛の巣が、この部屋のこれまでの姿を如実に物語っていた。

 部屋の真ん中で、一人の男が立ち上がる。

 立ち上がった拍子にふらりと揺れ、その案山子のようなひょろ長いシルエットがたたらを踏む。シューゼルを呼んだ男が慌てて支えに入ると、肩を借りたその人物は、疲れたような表情を持ち上げて、そして安堵したように息を吐き出した。


「よっ」

「ヴェルト……」


 ……会いたかった人が今、そこにいるっ!

 会えなかった時間は短いけれど、人生を三回はやり直せるぐらいの間離れ離れになっていた気がする。

 その人の顔を一度たりとも忘れた日はなかったのに、優しく微笑むその表情に懐かしさを覚えた。

 あぁ、よかった……。

 本当に……よかった!


「ヴェルトっ!」


 私は脇目も振らずにヴェルトに飛びついた。

 固い胸板に頭がぶつかった。ヴェルトはうっと短い悲鳴を漏らしたけれど、空いていたもう一つの腕で、私の背中に手を回してくれた。


「心配かけたか?」

「当たり前だよ! ばかぁ!」


 大きな掌、静かに脈打つ心臓の鼓動、安心する暖かさ。全部、私が知っているヴェルトのものだ……!

 ヴェルトが、ここに、いるっ……!

 ゆっくりと顔を上げて見上げると、追いつけないと思っていた身長が、なんだか少しだけ低くなった気がした。


「おいおい。俺様の知らねぇ間に随分と男前になってるじゃねぇかよ。男の勲章かその顔はよぉ」

「イメチェンって奴だ。かっこいいだろ?」

「痛く、ないの?」

「めっちゃ痛ぇ」


 ヴェルトは笑った。

 ガロンの言うように、ヴェルトの顔面は痛々しかった。両頬と右目の瞼が三割増しに膨らんでいる。口から伸びた血の跡はすでに乾いていて、服にも転々と赤色のシミが出来ていた。

 辛い目に、遭っていたんだ……。

 間に合って、よかった……。


「リリィがこいつらを連れて来てくれたんだな」

「うん。うん。すっごく大変だったんだからっ!」

「そりゃ、俺が頼んだからな。絶対にリリィにはバラさないでくれって」

「そのせいで私がどんな思いしたかっ……」


 ヴェルトにわかる? と問いかけようと思ったけれど、ヴェルトにはわかっていたんだと気が付いた。優しい瞳がそう語っている。


「そんで、村の鉄よりも固い俺との絆をぶった切って、リリィは村人を味方に付けたんだな。流石ポンコツ王女だ」

「むぅ。今回ばかりは、私もポンコツじゃないもん」

「そうだな。そうかもしれないな」


 ヴェルトはもう一度私を抱きしめてくれた。心臓の音が耳のすぐ隣で鳴っていた。


「それに比べて」


 ヴェルトは私の肩越しに、後ろにいる誰かに語り掛ける。


「不出来な妹だな、まったく。俺との約束一つ果たせないのか」

「何を言っているの、兄さん。強がってないでさっさと治療を受けなさい」


 モニカが呆れたように息を吐く。

 そんな言い方ないよ。そう言おうと思ったけれど、私は思い留まった。

 モニカとヴェルトの関係は、前からずっと、この距離だ。モニカが私にヴェルトの嘘を話してくれたことは、ヴェルトに対する裏切りかもしれないけれど、ヴェルトはきっとそれを咎めない。ヴェルトもまた、モニカのことを信頼しているから。

 私はヴェルトの胸から離れる。


「でもごめん。やっぱり私も謝らないといけないことがある。――ヴェルトが考えた作戦、モニカから聞いちゃった。ヴェルト助けるために台無しにしちゃった……」

「それは私も謝る。ごめん、兄さん。状況はちょっとピンチかも……」


 ヴェルトを救い出して一件落着とはいかない。事態はそんなに簡単ではない。

 湖の村を童話の国の一員として認める、ヴェルトに課された最後の責務。モニカの記憶を童話の国へと差し出さなければいけない問題は、またふりだしに戻ったことになる。これだけ大体的に動いてしまった以上、レベッカの心証もよくはない。一度漏れた作戦がもう一度使えるほどレベッカは甘くない。

 教典の国とも全面的に敵対してしまった。村対国の軍事力がどう転ぶかなんて子供でも分かる。もはや童話の国の庇護は不可欠だろう。


「それなんだが。……実は、リリィたちがここに踏み込んできてくれたおかげで、すべてのピースが揃ったんだ」

「ん? ――へ?」


 ヴェルトはまだ歩くのが辛そうだったけれど、肩を支えられてどうにか部屋を出る。

 縄で締め上げられた誘拐犯を確認して、納得するように頷いた。自由になったヴェルトの姿に、ブルーネが罵声を浴びせるけれど、ヴェルトは耳にすら入っていないようだった。


「どういうこと?」


 言葉の意味が理解できず私は聞き返した。

 それじゃまるで――。


「モニカの記憶を奪わずに、ヴェルトの責務を完遂させる方法があるみたいじゃん」

「あぁ。その通りだ」


 私の目は満月のように丸くなった。

 私だけじゃない。モニカも、シューゼルも、クリフも。この場にいた事情を知っているすべての人が、自分の耳を疑った。


「あるのっ!? そんな方法!?」

「きっかけはな、リリィ。お前が投げつけてくれたんだぞ」

「私が、投げつけた?」

「これだ」


 そう言って取り出したのは、一冊の童話だった。

 質の悪い赤色の表紙。ポケットに丸めて入れていたのか、曲がって折り目が付いてしまっている。製本されたものではなく、質の悪い紙をまとめ、そこに黒のインクで書き殴ったような粗雑な出来栄え……。見覚えがあるその童話のタイトルは、


『時間旅行』


 ヴェルトの指の隙間から、荒々しくも頼もしい題字が、ちらりと見えていた。

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