第229話 ヴェルトのいない世界 その⑤

「シューゼルっ!」


 泥だらけになった格好そのままに集会場の執務室に飛び込むと、シューゼルは読んでいた書類から顔を上げ、わかりやすく不快な顔を向けた。


「公共の場だから強くは言わないが、王女様。もう少し身なりに気を使ってくれ。掃除をするのはモニカ君なんだぞ?」

「シューゼル!」


 シューゼルの声を遮って、私はもう一度叫び上げた。


「ヴェルトが大変なの! 教典の国のゴロツキたちに掴まって、もしかしたら殺されてしまうかもしれないっ! お願い! 力を貸して!」


 一息で言い切った。伝えたいこと全部。

 けれど……。


「またヴェルトか……」


 シューゼルは眼鏡を外し、目頭を強く揉みながら冷静に言う。


「英雄ごっこをやっている暇はないんだ。遊びたいならモニカ君を捕まえてやってくれ。あの口やかましい女軍人がいない間に少しでも執務を進めておかないと……」

「シューゼル! 人が、殺されるかもしれないの!」

「俺は仕事に殺されそうなんだ。頼むから静かにしていてくれないか?」


 冷たい拒絶。私の話をまともに取り合ってもくれない。唇がわなわなと震えていた。


「どうして!? 村人がピンチなんだよっ」

「村人が殺されそうなら自警団を動かすさ。だが、ヴェルトという人間はこの村にはいない。仮に王女様の話がごっこ遊びじゃなく本当だったとしても、歴史の国との会談が行われている今、関係のないところで勃発した教典の国のいざこざに自ら首を突っ込むような愚行を、俺は村長として容認できない」

「……」

「以上だ」


 ……甘かった。

 私は服の裾をギュッと握りしめ、唇を噛んだ。

 例えヴェルトのことを忘れてしまっていたとしても、人命がかかっているとわかればシューゼルなら動いてくれると思った。

 でも違う。

 この村の人たちの団結力は、この村の人たちを助けるために発揮される。アルトゥールの時がそうだった。村の為という大義名分のもと、彼はシューゼルたちに掴まって歴史の国に引き渡された。悪く言えば、政治の取引材料として……。

 シューゼルじゃダメだ。

 私はまた来ると言い残して、強くドアを閉めた。




 クリフだ。クリフを頼ろう。

 アルトゥールを匿い、シューゼルに反抗してまで部外者を守ろうとした情に篤い彼なら、赤の他人となってしまったヴェルトのことを救い出してくれるかもしれない。

 それに、クリフは自警団の団長だ。腕っぷしも申し分ない。

 湖のほとりでの一件以来姿を見なかったクリフだが、その大柄な体躯はとても目立つ。私はすぐに目的の人物を見つけた。


「クリフ!」


 私が声を掛けると、驚いたように振り返った。どうやら村の柵を強化するための作業をしていたようだ。肩に担いでいた丸太が、振り向きざまに時計の針のように振り回された。


「おう! 王女様。どーしたんだ、こんなところで。その、モニカは、一緒じゃないのか……?」

「大変なのっ!」


 小声でモニカの所在を聞いて来る小心者の相手をしている暇はない。

 モニカがいたらどうだというのだ!


「ヴェルトがね、教典の国の人に掴まっちゃった! お願い、協力してほしい!」

「はぁ? 誰が捕まったって?」

「だから、ヴェルト、っていう……」


 だんだんと言葉が小さくなってしまう自分が情けない。でも、ヴェルトを知らない人に、ヴェルトが誰なのかを語るなんて、それこそ時間が勿体ない。


「はっきりしねぇ奴だなぁ。ちゃんと飯食ってんのか?」

「ご飯は食べてるよ。だから、お願い。ヴェルトを……」

「王女様や。あんたも見てただろ、この前のアレ……。あの一件で俺は兄貴に目ぇ付けられてな。仕事、サボれねぇんだわ。すまねぇけど、そのイヌだかネコだかは、王女様一人で救ってやってくれ」

「イヌじゃなくて、ヴェルト……」


 訂正しようとする私の声を、横から入って来た筋骨たくましい男の声が掻き消してしまう。どうやら資材の置き場所を迷っているようだ。呼ばれたクリフは負けないように大きく返事をして、それから私に向き直る。


「そういうわけだ。んじゃ、またな」

「まだ、話は……」


 終わっていないのに……。

 村の中心人物が、赤の他人になっただけ。

 たったそれだけの違いだというのに、その違いが果てしなく遠い。私は改めてヴェルトの影響力を思い知った。

 湖の村のヴェルトだったら違った。

 何物でもなくなってしまったヴェルトだから違った。

 絶望がお腹の辺りまで支配していた。このまま足を止めてしまいたい……。

 どうせ誰も知らないのだから……。

 負の感情が渦巻いて、私の思考を支配しようとする。

 ううん。ダメダメ!

 私はパンと一つ両頬を叩いた。

 まだ諦めちゃだめだ。私には足があって、声がある。出来ることは残っている。二人に振られたからってなんだ。行くよ!

 震える足に、力を込めた。

 ……でも、心のどこかでは気付いていたのかもしれない。

 ヴェルトを助けてくれる人なんて、初めからいなかったんだって……。

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