第225話 ヴェルトのいない世界 その①

 不安な夜を越え、次の日になっても、ヴェルトは帰って来なかった。

 身体はくたくたなのに、ヴェルトの最後のセリフが気になって、全然寝付けず気が付いたら夜が明けていた。

 酷い寝不足で、頭も回らなければ身体もだるい。

 それでも行動せずにはいられなくて、布団から出した私の素足を、澄んだ空気が悪戯につついて行った。

 何か、あったのかな……?

 村の全員から自分の記憶を奪い取って一人になってしまったヴェルト。一人でも生きていける強さを持ち、他人に頼ることをほとんどしないけれど、それでも、こんな辛い日ぐらい、私の元に帰ってきてくれてもよかったのに……。

 私は十五年しか生きていなくて、童話の中の世界ばかり追いかけて来たけれど、今のヴェルトの状態が、どれだけ恐ろしいものなのかはわかるつもりだ。

 いったいどこで、この冷たい夜を越したのだろう……。

 階下へ降りるといい匂いがした。ベーコンを焼く匂い。

 心配事が胸にわだかまってお腹いっぱいだと思っていたのに、匂いを嗅ぐと自然と食欲が湧いた。


「あ、リリィさん。今日は早いね」

「おはよう」


 髪をまとめてエプロンをしたモニカがキッチンに立っている。テーブルの上には、既にトーストされたパンと、美味しそうな果物のジャムが並んでいた。もちろん二人分だ。

 昨日、ヴェルトの記憶を失ったというのに、その事実すらきれいさっぱり忘れたこの村は、今日も平和に回っていく。

 香ばしいトーストも、焼き加減が絶妙なベーコンエッグも、とてもおいしかったけれど、お腹がいっぱいになったという感想以外出てこなかった。


「ねぇ、モニカ。昨日、ヴェルト帰って来なかったよね?」

「え? ヴェルト? 誰それ?」


 無駄だとわかっていながら聞いてしまうのは、未練という奴だろうか。

 モニカは案の定眉を寄せて怪訝な顔を向けて来る。


「昨日は誰も来なかったけれど、リリィさん、誰かと待ち合わせでもしてたの? その、ヴェールートさん」

「ううん。ごめん。私の勘違いだ」


 わかっていた反応をされただけなのに、酷く心が傷ついた。

 モニカはわかっていないだろうけれど、モニカに私を傷つけさせてしまったことに、罪悪感を覚えた。

 はやく、ヴェルトに会いたい……。

 私が吐いた嘘のせいで、ここ数日ほとんど口もきいていなかったというのに、気が付くとヴェルトのことばかり考えている。

 朝ご飯を終えると、私はメイリン飯店へと向かった。もしかしたらお腹を空かせてご飯を食べに来ているんじゃないかと考えたからだ。


「お客さん? 今日のお客さんはリリィさんが一番だよ。誰もこんな朝早くから飯食いに来ないからねぇ」

「お客さんじゃなくても、ヴェルト、っていうか、背が高くて髪の毛がバサッとしていて目が赤い色で旅装束の人、来なかった?」

「随分と具体的だね。その、えっと、ヴェントさん? 探しているのかい?」

「……。ううん。いいや。またね」


 間違えられた名前を訂正する気も起らなかった。

 ここにも来ていない。仮にヴェルトという人間の存在を忘れてしまっても、小さな村に旅装束のよそ者がいるとわかれば憶えているだろう。お腹を空かせてふらっと、なんて童話みたいな展開は残念ながら期待薄だ。

 その足で今度は集会場に向かった。

 村の役人たちが忙しなく働きまわっているなか、邪魔をしてしまわないように静かに目的地を目指した。

 廊下の先の扉をノックをすると、シューゼルは声だけで返事をして私を迎え入れてくれた。


「ちょっと待っていてくれ。レベッカ殿に持って行ってもらう書類がもう少しで出来上がるのだ」

「うん……」


 デスクの上に広げられている書類を、目を皿のようにして睨みつけ、指でたどりながら読んでいる。時折ペンを取り出し何やら文字を書いているようだ。

 私は邪魔をしないようにソファーに腰かけて作業が終わるのを待った。今日はレベッカの姿も、ギールの姿もない。


「ん? あぁ、これか?」


 私の手持無沙汰な視線を感じ取ったのだろう。何も言ってはないけれど、シューゼルは一旦手を止め、眼鏡を外した。


「これは委任状だ。村の命運をレベッカ殿に預けるためのな」

「村の命運?」

「国境の問題、わかるだろ? 今日、歴史の国との会談がある。そこで正式に湖の村の境界が決まる。まぁ、例の革命家を引き渡しているから、よっぽどこじれることはないと思うが」


 形式上のことを形式通りにするのが、役人の仕事なんだ。シューゼルはそう言って、再び作業に戻った。

 そういえばそんな話もあったなぁ、と私は上の空でシューゼルの説明を聞いた。ヴェルとともにかの問題にかまけていて、ほかのいろいろなごたごたを全て忘れていた。

 最後の一枚にサインを終え、紙を丸めてシーリングスタンプを押すところまで見守り、私はようやく本題を切り出せた。


「あの、今日か昨日か、背が高くて、ぶっきらぼうで、愛想がない背の高い男の人が来なかった? ヴェルトって言うんだけど……」


 最後の取っ手付けたような情報は、正直なくてもよかったかもしれない。シューゼルにまで名前を間違えられたら、たぶん私はショックを受ける。

 シューゼルは珍しいものでも見るように私を見つめ、静かに口を開いた。


「変な質問だな。昨日か今日来なかったってのはどういう意味だ?」

「そのままの意味だよ。髪の毛も目も赤銅色で、旅装束を纏った人が、ここに来たりしてないかなって思ったの……」

「何か、大きな齟齬があるようだ。リリィ王女の言う、ヴェルト、とは、この村を救ったという伝説の旅人ではないのか?」

「……!?」


 あれ? なんか今、ちょっとだけ繋がった?

 私の中に、希望が芽生える。

 けれど、その小さな希望は、蕾のまますぐにむしり取られることになった。


「さすが王女だな。確かにこの村には、風のようにふらりと村を訪れて、村の窮地を救ったとされる旅人の言い伝えがある。村人の中には教典の国の神のように崇める者もいる」

「……」

「私は神などという偶像、信じてはいないがな。信じている者を否定するつもりもない」


 そういう形で、記憶が補完されたんだ。

 村の救世主という偶像。いつものように代理になる人物が近くにいなかったがため、村人たちの脳は、いたはずの存在を埋めるための架空の伝説を作り出した。

 救世主ヴェルト。モニカもメイリンさんも、聞き方を変えたらこの伝説のことを話してくれたのかもしれない。

 私が聞きたかったのとは全く違う、別物のヴェルトの話を……。


「ごめんなさい。何か寝ぼけていたみたい……」


 ヴェルトはいるのに……。

 私はあの温もりを知っているのに……。

 誰も、憶えていない……。

 どこ行っちゃったの、ヴェルト……。私、おかしくなってないよね?

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