第213話 私とヴェルトの戦場 その①
からりと晴れた翌日、束の間の暖かさに浮かれた小鳥たちがハミングを重ねる。
私はモニカと一緒にしばらくぶりとなった家の掃除をした。
ヴェルトが出て行ってモニカが引き籠っていた一週間の間、私しか使っていないはずのリビングも、雑巾をかけると真っ黒になる。改めてモニカが生真面目に掃除をしていたことに感心した。
そう言えば、ヴェルトも整理整頓が好きだなと思い出して、私なんて自分の部屋を掃除するのは年に一度くらいだと落ち込んだ。
ついでに庭の納屋も片付けようと言い出したモニカの言葉に従い、穏やかな空間に特異点として存在していたあの納屋も片付けた。
アルトゥールが啓蒙活動の準備をしていた小さな空間を、私たちは午前中をかけて整理した。書き損じた紙の束を大量に捨て、まだ使えそうな筆やらインクやらは回収する。きれいさっぱり片付いた納屋を前にすると、何か大きなものが終わってしまったような、えも言われぬ虚無感に襲われた。
モニカは無表情のまま、口を結んでいた。
ヴェルトが家に戻ってきたのは昼を少し回った頃だった。
肩が落ちて曲がった背中。くたびれたシャツに、憑き物が落ちたような安らかな顔。リラックスしたヴェルトだ。
私は綺麗に片付いたリビングのソファーに腰かけて声を掛けられるのを待った。
「ただいま、リリィ」
「お、おかえりー」
一瞬で手足に緊張が走る。心臓の鼓動が高くなり、耳元で動いているように心地よいリズムを刻む。
落ち着け、私。落ち着け、私。はい、深呼吸。はぁー、ふぅー。
平常心を意識して、ヴェルトと目を合わせた。優しく澄んだ赤銅色の瞳。目が合うと、酷く胸が痛んだ。
「なんつーか。意外とあっさりしてるな、リリィ」
「そ、そうかな? いつも通りだと思うよ?」
「いや……。まぁいいか」
辺りをキョロキョロと見回して入ってこようとはしない。
不自然、だったかな? 普段の私ってどんなだっけ?
少なくとも、ヴェルトが帰ってきたら、文句の一つでもいいながらガロンと一緒にお説教でもしたのかな?
私はそれも楽しそうだと思ってしまった感情を、強く否定した。
不自然でもいい。不自然なことを、してしまったのだから。
「長いこと留守にしてすまなかった。あの軍隊長に、お前が心配してたって聞いてな」
「だ、だいじょーぶだよ! 私だって、もう子供じゃないんだしね。うんうん。ヴェルト、すぐに戻ってくるって思ってたし」
三割増しぐらいで優しいヴェルトだ。モニカのことで頭がいっぱいになっていると思っていたけれど、周りはちゃんと見えているみたいだ。
普段だったら喜んだと思う。ヴェルトが口に出して謝るなんて滅多にあることじゃないし。
もったいないなぁ、と思いつつも、そんなことで覚悟が揺れる私ではなかった。
「……モニカはいるか? 話をしたいんだが」
私から視線を外し、窓の外の金木犀を見つめながらヴェルトが言う。
帰って来れたということは、モニカとの関係に結論が出たということだ。
クリフが掻き乱してくれたおかげで、距離が開いてしまったけれど、ここ数日でヴェルトも、モニカと同じように冷静さを取り戻したのだろう。
そして、この落ち着きよう。朗報を持って来たわけではない。モニカと別れるための覚悟をしてきたに違いない。やはり兄妹だ。結局同じ結論にたどり着いてしまうのだから……。
逆に言えば、私は間に合ったのだ。
誰もが少しだけ不幸になるエンディングに陥ることは、これでもうない。
「話なら、私もあるんだ」
膝の上で握った掌にぐっと力を込めて、言葉にする。
言葉にするのは勇気がいる。
昨日の夜、何度も練習した。
いつだって自分の世界を変える一歩を踏み出すのは自分自身だ。
そして、口にしてしまった言葉は取り戻せない。
進むしかなくなる。
「いやリリィ。後にしてくれないか? わかるだろ? 俺はモニカの……」
「そのモニカの! 話があるの……」
私の語調が想像以上に強かったからなのか、ヴェルトは驚いてこちらを振り向いた。
怖い……。今から言うセリフが、とんでもなく怖い。
ヴェルトを困らせることになるし、ヴェルトを怒らせることにもなる。誰も助けてくれないし、ヴェルトが容赦してくれることは、たぶんない。
モニカは二階に行ってもらっているし、テーブルの上のガロンに助けを求めるわけにもいかない。これは私とヴェルトの戦場だ。
怪訝な顔が私の意図を読み取ろうと舐めるようにこっちを見ている。
「モ……」
耳にかかる髪を一房、人差し指でくるくるして、心を落ち着けた。疑いの眼差しを向ける相貌を、強い意志で睨み返した。
さぁ、一歩を踏み出すよ。
「――モニカの記憶は、昨日私が回収した」
「………………はぁ?」
想像通りのリアクション。私は気にせず続けた。
「モニカの記憶は昨日私が回収した。ヴェルトがもたもたしてるから、私がキャメロンを使って、代わりに済ませておいた。モニカもヴェルトも、お互いになんにも動こうとしないからさ、お目付け役である私が動くのも当然でしょ?」
早口に言ってのける。
私は昨日、モニカからヴェルトの思い出を奪い取った……。
「何を言ってるんだ?」
「言葉の通りの意味だよ。ここに来てヴェルトが怖気ずくとは思わなかったね。まったく。ヴェルトは強いのに、こういう時ダメダメなんだから」
「リリィ。今はお前の冗談に付き合っている暇は……」
「冗談じゃないよ!」
大丈夫。想像通りだ。ヴェルトはまず否定する。あり得ないと思ったことは、まず疑ってかかる。
押し付けなければいけないんだ。
私の、覚悟を……!
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