第101話 忍び寄る影 その①
どれだけ時間が経ったんだろう。
雨音が強くなったことにびっくりして、私は夢の世界から現実の世界へと帰って来た。意識を取り戻すと、ざあざあという断続的な雨の音が急にうるさく感じられた。床を這って忍び寄る冷気に身震いを覚え、身体を地面に押し付ける重力が戻って来た気がした。
部屋の奥にあったロッキングチェアに腰かけたところまでは覚えている。それ以降は、大海原を冒険した記憶と、特殊能力を駆使して悪と戦っていた記憶しか残っていない。近くの丸テーブルにうずたかく積み上がった童話の分だけ、私は旅をしてきたのだと思うと、なんだか誇らしかった。
ポラーノ氏のラインナップにはどれも魅力的な童話が並んでいた。本棚は人格を表すとよく言うけれど、私がポラーノ氏の本棚、書庫から読み取った感覚を一言で表すなら『海』だ。広大で濃密。有名どころと人気作は年代問わず集まっていていて、歩いているだけで時代を越えた感動を味わえる。ジャンルの幅も申し分なく、痒い所に手が届くようなニッチなジャンルも、しっかり押さえていた。私が愛してやまない『あひるの王子』シリーズもあったし、童話の国の大ヒットシリーズ『空回りする』シリーズもあった。名作と名高い童話に挟まれて並んでいるのを見て、私の頬が緩んだことは言うまでもない。
面白かったのはその並び順だ。作者順ではなく、刊行順でもなく、タイトル順でもない。ポラーノ氏の著書ももちろんその中には含まれていて、書庫の中のあちこちに散らばっていた。読みたい童話を探すのに随分と苦労させられた。
書庫の中を何度か回ったのち、私はその答えにたどり着く。
これは面白い順だ。
ポラーノ氏が実際に読んで面白かったものを順番に並べている。それに気付くと、この書庫がさらに好きになった。自身の著書もそのランキングに入れているところがさらに好感が持てる。
おかげで時間の感覚が麻痺している。
「ねぇ、ガロン。私どれくらい没頭してた?」
「んあ? すまねぇ。俺様もちと落ちてたみたいだ」
「落ちてた?」
意識が落ちてたってことかな? ガロンは魂という存在だから、食事も睡眠も空気も必要ないはず。意識は途切れることがなく永遠で、それがいい所でもあり悪い所でもあると、以前もっともらしく鼻を高くしていた。私は夜更かしが得意ではないから、ガロンのその体質がとても羨ましかったのだけれど。
「どうしたの? どこか悪い?」
「いやぁ、そんなことはねぇと思うんだけどな。この街に来てからたまにあるんだ。夜の方が多いな。夜は魔法が強まる時間帯のはずなのにおかしな話だぜ」
「そろそろお迎えが来るのかもね」
「冗談じゃねぇぜ!」
冗談はこれくらいにしておいて、意識が飛んでいるという事実は少し気になる。後でヴェルトに相談しよう。ガロンは気にするなって笑い飛ばすかもしれないけれど。
大きく伸びをして、お腹を擦る。今が何時かはわからないけれど、腹時計はおやつの時間を告げていた。お昼の時間はとっくに過ぎてしまっているだろう。散らかっていた童話をまとめて席を立とうとしたとき、ふとどこかから見られている感覚に気が付いた。
「ガロン……」
「……あぁ。見られてるな。そのまま何事もなかったように童話を片付けろ」
低く押し殺したガロンの声がテーブルの上のキャメロンから聞こえる。私はキャメロンを首に掛けなおし、散らかっていた童話をひとまとめにして両手に抱えた。
「素人だな。気配どころか、足音も衣擦れの音も隠せてねぇ。嬢ちゃんに勘付かれる時点で、お察しなわけだが。だが、注意しろよ」
「もう。一言余計なんだから」
私だって伊達にヴェルトと半年近く旅をしていたわけではない。修羅場はいくつも潜って来た。勘の鋭さだって磨かれているはずだ。
できるだけ時間をかけて、抱えた童話を戻す場所を探す。シリーズで読んでいたはずなのに、返却場所がまちまちなのが、この本棚の唯一の欠点かもしれない。
高い位置の童話を棚に戻しながら、監視者の所在をそれとなく探した。
いた。書庫の入り口。開けっぱなしにしていた大きな扉の影に、細く小さい足が二本見える。
不自然にならないように、少しずつ近づいてみる。
視線から感じるのは、戸惑い。時折隠れていることを忘れて、私の方を注視しているみたいだ。相手の目的は読めないけれど、少なくとも敵対的な何者かが命を狙っているわけじゃないことに、少し緊張を解く。
「これで、最後」
『南を向く風見鶏』というポラーノ氏の童話を所定の位置に戻し終え、私は再び伸びをした。
さて、どうしたものかな。
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