第100話 童話の森への扉

 部屋に戻り着替えを終え、ガロンと簡単な朝のとりとめのない話をして、良しと言って一階に戻る。その辺で遊んでいる子を捕まえてポラーノ氏の書庫の場所を聞こうかとリビングに入ったら、なんとヴェルトがまだそこにいた。

 窓の外は暗いけれど、時刻は既にお昼に差し掛かる頃。レモアとデートに行くつもりならもうとっくに出発している時間だ。


「どうしたの、ヴェルト。もしかして振られた?」


 それとも雨天中止にでもなったのだろうか。二つの答えを想像しながら、あえてキツい方を口にした。


「……ま、そんなところだ」


 溜め息と一緒に帰ってきた言葉には、ヴェルトらしくない疲労の色が見えた。

 箒を持って来た男の子に、「そこじゃま!」と言われて、泣く泣くソファーから立ち上がり、仕方ないと言って、私たちは食堂へと場所を移した。


「レモアな、あいつ、俺が起きるよりも前にどこかに出掛けて行ったらしいんだ」

「あらら」

「色男が落ち込んでる時ほど楽しいものはねぇな!」

「ほっとけよ」


 ヴェルトより早くとなると、日が出るよりも前だ。そんな時間からどこへ出かけて行ったんだろう。お店なんてまだ空いていないし、こんな雨では日の出も拝めない。童話が好きでてっきりインドアなタイプだと思い込んでいたけれど、もしかして外で遊ぶのが好きなタイプだったのかな?

 私はマムが作り置きしてくれてあったサンドイッチを摘まみ、ヴェルトを慰めた。

 その後、遊び回っている子供たちを何人か捕まえてレモアの行方を聞いてみたけれど、みんな首を横に振った。


「たまにね、おやすみの時、朝早くから出掛けることがあるんだよー」


 たどたどしい言葉で精いっぱい教えてくれる。

 孤児院の中を歩き回ってみてわかったが、誰もが孤児院の中で休日を過ごすわけではないらしい。バートたち悪ガキ隊も朝早くから外へ遊びに出ているようだったし、希望者は製紙工場の体験労働に行っていたりする。

 ヴェルトはレモアの帰りを待つと言って食堂に残った。お腹が空いたら帰ってくるだろうと言っていたけれど、朝早くから出掛けるほどのモチベーションを持って出かけた女の子が、空腹で帰ってくるとは思えない。私はヴェルトを放置して、私の欲望を満たしにかかることにした。

 ポラーノ氏の書庫はすぐに見つかった。一階の最奥、シンメトリーに配置された建物の左の奥にあたる場所に、まだ入ったことがない大きな扉があった。

 孤児院に入ってから感じていたことだが、この建物は全体的に子供向きに作られている。扉の取っ手は随分低い位置にあるし、窓も、十歳ぐらいの男の子が背伸びすれば覗ける位置にある。でも、この扉だけは別。明らかに大人が入ることだけを想定されて作られていた。

 大人向けの扉を前にして、私は一つ重大な事に気が付いた。


「ここ! ここあれだ! ポラーノ氏の著書『過大評価の正解』に登場した秘密の部屋だ!」

「なんだそりゃ?」

「知らないの、ガロン? んー、もう。しょうがないなぁ。私が解説してあげるよ!」

「あ、いや、いい……。って、もう聞いちゃいねぇ。地雷踏んじまったか……」


 うんうん! 間違いない! ポラーノ氏はきっと、この扉をモチーフにあの怪作を作り上げたのだ!

 私は興奮に包まれた。

 そこに存在し、威圧感をまき散らしているにもかかわらず、誰一人として入ろうとしない不思議な部屋。どこに通じているのかも、その奥に何があるのかも明かされないのに、読んでいるとどんどん引き込まれる。ページをめくりたくなる。めくれば登場人物の誰かが扉を開けてくれるんじゃないかと信じて。

 発刊は確か一年くらい前。ヴェルトが旅立つ前のポラーノ氏と会っていることを考えると、私の推理はおそらく間違っていない。

 ポラーノ氏が数年前に、今私が立っているこの場所で、あのお話を構想していたかと思うと、居てもたってもいられなかった。


「すごいよ、ガロン! 私、童話の中を歩いているみたい!」

「……よく知らねぇけどよ、教典の国には神様がその生涯でたどった場所を巡る旅があるらしいぜ。そう言うのを聖地巡礼って言うんだとか」

「聖地! そうだね! ここはまさに聖地だね! 心なしかいい匂いがするもんね!」

「いや、しねぇだろ。俺様に嗅覚はねぇけどさ」


 ガロンの言葉を無視して、取っ手に手をかける。


「では、いざ御開帳!」


 重苦しい冷気が扉の隙間から流れ込んでくる。まるで数千年の封印を破られるかの如く、扉はゆっくりと開いた。本が歳を重ねた匂いと、湿気を含んだ埃っぽい空気。高い窓から斜めに差し込む光が、スポットライトのように降り注ぎ、静謐な空間を演出していた。

 踏みしめた一歩が反響して空気を震わす。

 ポラーノ氏の書庫は孤児院と別空間のようだった。私の身長の倍はありそうな巨大な本棚がずらりと並んでいて、堅苦しい背表紙の童話が、息が詰まるほど並んでいる。採光な出来る窓は天井の一か所だけで、奥へ行くほど薄暗い。きっと、童話が好きな人でなければ、半刻も持たずに退屈してしまう場所だろう。


「辛気臭い場所だな」

「それがいいんじゃん! 紙の匂い、重苦しい雰囲気、時の流れが止まったような空間! 想像した通りの書庫だよここは! 私も欲しい、こんな書庫」


 とてもメロウな空間。一朝一夕では作れない雰囲気に、一日中抱かれていたらどれだけ幸せだろう! やはり、いろいろなしがらみを放り投げて、もっと早くここに来るべきだったか……。


「嬢ちゃん、今までで一番悪い顔してるぜ」

「もともとこういう顔!」


 入り口に立っていても始まらない。始まった幸せな時間は有限なのだ。目標とか、レモアのこととかはひとまず隅に置いておいて、私は感性の赴くままに本棚の森へと没入していった。

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