第66話 トトルバさんのパートナー

 オレンジ色の街並みをしばらく歩く。途中の土産物屋で、私は麦わら帽子を買ってもらった。

 香ばしい植物の香りが、夏の好奇心を刺激する。ぎらつく太陽を遮ってくれるおかげで、坂道も苦にはならない。

 道はやがて煉瓦から土へと変わった。この辺りは瓦の街の農業区画らしく、ナスやトマト、トウモロコシと言った定番の野菜が太陽に向かって背伸びをしていた。


「ねぇねぇ。どこまで行くの?」

「もうすぐ。もうすぐだよ!」


 トトルバさんはそう言って、目的地を教えてくれない。

 ガロンの紐をかけた首筋に汗が滲む。ヴェルトとともに、言われるがままについて行く。

 そして、丘を登り切ったところに……。


「――っ!」


 一面のひまわり畑が広がっていた。

 なだらかにくだる広陵の、見渡せる限り全てが黄色い。青い空との境の地平線まで、ずっとずっと敷き詰められた黄色の絨毯。湿気を帯びた風に揺られ、まるで一つの生物のように脈動している。ぷわりと漂う蜜の香り。どんな値打ちのある絵画でも表し切れない感動が、ここにはあった。

 熱風に麦わら帽子を揺られて、私はしばらくの間何も言えず、この景色に見入っていた。


「綺麗っ! 素敵っ!」

「こいつは、凄いな……。以前寄った時には気付かなかった」


 普段こういうことに無関心なヴェルトまで、素直に簡単を漏らす。


「ねぇ、ヴェルト! 私は今だけ蜂になりたい!」

「はぁ?」

「人間じゃ目と鼻でしかこの景色を堪能できないけどさ、蜂ならきっと、全身でこの楽園を楽しめると思う。余すところなく!」

「ははっ! リリィさんの発想は、やっぱり面白いね。蜂になりたいか」

「私ちょっと蜂になってくる!」


 もはや我慢ならなかった。首にかけたキャメロンをヴェルトに押し付け、一目散にひまわり畑に突入した。

 私よりも背の高いひまわりたち。顔を太陽に向けて、我先にとその恵みを享受しているようだった。かき分けて進めば進むほど、青と黄色と緑の色合いは強くなり、美しいコントラストの世界に目が回る。


「おーい、ヴェルトー」


 麦わら帽子を片手で押さえ、もう片方の手を、丘の上に立っている大樹の側で休むヴェルトに向かって振ってみた。ヴェルトは苦笑して振り返してくれた。

 世界を見て来るのじゃ。

 お父様が伝えてくれたお母様の言葉が頭をよぎる。

 ふと真上を見上げると、たなびく雲に思いが揺れる。


 お母様。私はまた、新しい世界を見つけました。




 思う存分走り回って帰ってくると、大人二人は先ほどの木の影で涼をとっていた。三人掛けの丸太のベンチを少し詰めてもらって、私もヴェルトの隣に腰かけた。


「世界は広いね、ヴェルト!」

「これは、トトルバに案内を頼んで正解だったかもな」

「ありがとう! トトルバさん」


 私が言うと、トトルバさんは照れたように笑った。


「お礼なんてそんなそんな」


 でも、笑い顔はすぐに引っ込んで、遠く地平線を眺めて少しだけ寂しそうな顔をした。

 ふと疑問に思う。

 私にはヴェルトという旅のパートナーがいる。途中参戦したガロンという喋るキャメロンもいる。だから毎日は賑やかで、会話に困ることも寂しくなることもない。

 でも、トトルバさんは……。


「ねぇ、トトルバさん。トトルバさんはずっと一人で旅をしているの?」


 こうして私たちを案内してくれたのだって、人恋しさ故、だったのかもしれない。

 トトルバさんは、私の方を見た。少しだけ間を置いた後、また地平線を眺めながら語り始める。


「違うよ。僕にもね、パートナーがいたんだ」

「へぇ。どんな人?」

「妻のエリーシャだ。とても素敵な人だった」

「妻!? えっと、奥さん?」

「そうだよ。意外かい?」


 悪戯っぽく笑った拍子に、捻じれたモミアゲが柔和に歪む。


「結婚していたのか」

「そうさ。童話市で童話商人をやっていた頃にね、縁があって結婚した。僕には本当にもったいない人でね。不正がばれて投獄されてしまった時も、毎日のように僕の元へやって来てくれた。おかげで詐欺なんてやっていた僕も、改心しようと思えたわけだ」


 トトルバさんの言葉には、一つ一つに愛情が籠っているようだった。


「童話王からの温情を頂いて、童話の原石を集める旅に出ることになったときも、エリーシャは牢の前で僕を待っていてくれた。出た瞬間抱きしめてくれたよ。嬉しかったな」


 私はそのシーンを心の中で思い浮かべる。

 ずっと待っていた旦那さんが、責務を与えられて戻ってくる。心配で心配で、でも少しだけ安心できる心待ちにしていた日。揺れる思いに自制できなかったに違いない。

 会ったこともないエリーシャさんに感情移入して、胸が苦しくなった。


「僕たちは拠点にしていた童話市を捨てて旅に出ることにした。童話市での僕の悪行を知っている人たちの思い出が、いい童話になるわけはないからね。幸い、童話の買い付けでこの国のあちこちに知り合いがいる。その人たちを訪ねて、思い出を頂いて回ったのさ」

「い、今、奥さんは?」

「……」

「あ、えっと。言いにくいなら言わなくても……」

「こいつでさ。奪い取っちゃったんだ」


 トトルバさんは、腰の鞄からキャメロンを取り出して膝に置いた。大樹の葉を躱して来た木漏れ日が、魔法具に反射して黒光りする。


「こいつって……」

「お前……」


 それはつまり、奥さんの記憶を、キャメロンで奪い取ったってこと?

 想像した最悪の展開に、全身に鳥肌が立った。


「ど、どうしてっ!」

「言ったろ。空っぽになっちゃったんだ」


 トトルバさんは、力なく笑った。


「僕に縁のある人の思い出は全て回収したんだ。でも、足りない。足りなかった……。後四年分も、足りなかった。……エリーシャはね、自ら思い出を差し出すと言ってくれた」

「……そんな」

「この景色もさ、彼女と見たかったよ。当たり前だろ? ……ごめんよ。案内すると言っておきながら、実はダシに使わせてもらった。そうしないと、来れそうになかったから……」

「トトルバさん……」


 責めようにも、責められなくなってしまった。

 好きだった相手との思い出を童話の原石にしてしまった。それはいったいどんなに切なく辛いものなのか。今の私にはわからない。

 一生を誓った相手なのに、別れることが相手のためになる。愛する人のことを忘れなければならないエリーシャさんも、エリーシャさんの記憶を消してしまったということを、ずっと憶えていなければならないトトルバさんも、どんなに叫んでも割り切れない。

 きっと、壮絶な葛藤があったに違いない。でも、二人の間に言葉は少なく、「うん」「あぁ」みたいな簡単なやり取りで済まされてしまったのではないだろうか。それで済んでしまうほど、二人はお互いをわかっていたのだから。


「ドドルバざんっ……」


 私は嗚咽を噛み殺せなくなっていた。

 出会ったばかりのトトルバさんの前で泣くなんてはしたない。でも、わかっていても、喉を締め付けるこの気持ちは制御しきれなかった。手の甲で目を拭っても、溢れる雫は容赦なく袖口を濡らす。


「ど、どうしてリリィさんが、泣いているんだよ。泣くのは、僕の特権だってのにさ。先に泣かれたら、男は涙なんて見せられないじゃないか」

「泣いて、……泣いていいよ。私も、ずずっ。一緒に泣ぐがら……」


 私は、鼻水を啜りながら、トトルバさんに言った。何か言わなければ、もっと泣いてしまいそうだった。

 現実には悲劇が多い。誰も救われず、誰も得をしない、どうしようもない理不尽が多すぎる。童話ではそこで話が終わり、切ない気持ちを堪能することもできるけれど、現実は続く。続き続ける。悲劇を背負ってなお生き続けなければいけない。

 童話にはない残酷さが、この世界には多すぎる。


「ごべんなさい。わだ、わだし、トトルバさんのこと……胡散臭い、とか、思っちゃってて。ごめんなさい」

「そいつは唐突なカミングアウトだね」

「でも! でもっ! 全然そんなことなかった。そんな辛いことがあったのに、同業者の私たちに優しくしてくれて。本当に、優しい人ですっ」

「よく言われるよ。僕は、勘違いされやすい質らしいからさ」


 気にしてない。そう笑って見せた。

 その笑顔が切なくて、私はまた、大声をあげて泣いてしまった。

 こんな悲劇が大衆の心を掴まないわけがない。トトルバさんとエリーシャさんの終わってしまった恋物語は、童話の国でも屈指のカタストロフィをもたらすだろう。

 来たときとは打って変わって、揺れるひまわりたちが私を、ううん、トトルバさんを、慰めているように見えた。

 肩に触れたヴェルトの大きな手が妙に暖かかった。

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