第21話
あの夜。雷の音で寝られなかった白麗は、紅貴の寝室を訪ねた。兄は、一瞬驚いた表情をしたが、すぐにいつもの微笑みを浮かべると、快く招き入れてくれた。
そしてちょうどいい機会だから、と真剣な面持ちで語る内容に、雷の音など耳に入らなくなった。白麗は、紅貴の語る言葉に胸を抉られる思いがした。
「私――来白麗は、來族の血筋ではない。貴王の后に仕えていた女中の子だ」
一斉に集まる視線は、鋭い針のように白麗を突き刺す。
痛いと思う。同時に逃げたいとも。だが、ここは耐えなければならない。
地鳴りのような雷鳴が、聞こえたような気がした。
――母上に仕えていたその女中は、表向きは流行病にかかり宮廷を退いた。だが、実際は白麗を生んだ後亡くなっていた。元々体の弱い者で父親となる男は、女中が身ごもったとき事故で亡くなっていたという。姉が一人いると言っていたが、その者も病で伏せており、その娘に託そうとしたが、あまりにも若すぎた。
それなら私はどうして生まれてきたのだろう――。あのとき、あまりにも現実味のない話に、白麗は理解できなかった。それでも紅貴は語った。
女中は一度は生むことを諦めたという。しかし、宿った命を感じるにつれ決心が鈍った。......辛かったんだろうな。人目を盗んでは泣いていたらしい。たまたま通りかかった母上が、女中に気づき、すべてを話させた。母上は産むべきだと説得したらしい。だから、女中がひっそりと赤子を生み、その代償に命を落としたとき、お前のことを案じたのだろう。生まれたときから独りであるお前を。――母上も孤児だったというからもしかしたら、自分を重ねたのかもしれない。
自分が育てる、と言い出したのだ。それも養子ではなく、実の子として。多分父上は反対しただろうな。でも、母上は一度決めたら意地でも曲げない性格だったから、根気負けしたんだろう。でも、まさか早々に僕の代になるとは予想してなかったんだろうな。
ここまで來を名乗ってきてしまった以上、いやでも王位というものが周囲をちらつく。もし、僕が死んだら自ら王になろうとするな。代理の王を立て、子を成すことなく天寿をまっとうしろ。決して黒珠を光らせる状況だけは避けるんだ。――そうでないと、この国にとってかつてないほどの波乱を呼ぶ。
そのとき、白麗の耳に紅貴の言葉はあまり入ってきていなかった。この世のすべてに裏切られた――白麗の頬に涙が伝う。
多くを語った紅貴は、湯飲みに口を付ける。沈黙が部屋の中を支配した。雨風が、まるで責め立てるように音を立て、雷鳴は怒鳴っているみたいだった。
そのときだ。
突然、紅貴が背中を丸めせき込んだかと思いきや、舌打ちが耳に届く。
――やられた。
兄に視線を向けた瞬間、息が止まった。
口の端から見える赤。毒を盛られたのだと瞬時に理解した。すぐに医術師を呼ぼうとする白麗の腕を紅貴が掴む。そしてゆっくり頭を振った。それは、無駄だという意味。途端、一気に目の前がかすんだ。そして、さっきまで朧気に耳に届いていた紅貴の言葉が一気に頭の中で響く。
すとん、と腹の底まで落ちていったのは、おそらく感情。白麗はおもむろにいつも持ち歩いている短刀に手を伸ばすと鞘を抜き去り、勢いよく己に向かって振り下ろした。
しかし、痛みは襲ってこない。
それもそのはずだった。
――どうして。
声にならない叫びが全身を駆けめぐる。
短刀は紅貴に深く突き刺さっていた。
――お前には生きていてほしいんだ。
血を吐き出しながら、微笑んだ。
――勝手ばかり言ってごめんな、白麗。
それっきり、紅貴は動かなくなった。
白麗は嵐の夜で心底よかったと思った。強い雨風と雷鳴の音が、泣きわめく声を消してくれたから。
――僕はお前を×××
夢の中だったとはいえ、兄様は私のことを恨んでいるだろう。
――お前を恨んでいる。そう言われても文句ひとつ言えない。
兵が捕らえていた洸樹からこちらに向かってくる。殺されてもいい。だけど、その前に伝えたいことがあった。
短刀と共に手にとったのは、黒い石。それを柄で思いきり叩いた。
途端、太陽のような眩い光が石から放たれる。惚けたような顔をしてこちらを見る民衆に対し、泰樂だけは驚きの表情を浮かべていた。おそらく華姫もだろう。
「これは、黒珠じゃないわ。黒輝石と名付けられた、近年北州で発見された鉱石。今見たとおり、衝撃を与えることで光るわ。――そして華姫の王位即位式典で使われた石は、これよ」
「いつまで罪人を手放しにしている! 罪人の戯れ言だ。民を惑わせこの国に混乱を招こうというのだ! 早く捕らえ処刑しろ!」
泰樂のわめき散らす怒声に負けずと白麗も声を張り上げた。
「式典で使われていた石は黒珠じゃない。麒麟が選んだ王ではない。そもそも国は皆の居場所よ。選択する権利は皆にあるのよ!」
若木のような刀身の人切包丁が、降りかかってくるのを横目に白麗はありったけの思いを込めて叫んだ。
「古者とか王とか来族とか関係ない。私は私。皆は違うの!?」
兄様と共に約束した国にすることは、白麗の夢だ。しかし、白麗は來の血筋ではない。兄様とは天と地ほどの差はなくても、天に昇る月と水面に映る月ほどの差があった。
――ごめんね、兄様。
いつの間にか降り出した雨が、白麗の頬を伝う。
――私、兄様が守ろうとしたもの、全部壊しちゃった。
目を閉じ、人生の幕引きを覚悟したときだ。
「――本当、姫さんには振り回される」
だから飽きなどこないんですけどね、と頭の上から降ってきた言葉に白麗は顔を歪ませた。
「もう、私のことなんて放っておけばいいのに……」
「仕方がないでしょう。長年お守りをしてきたんです。勝手に体が動きました」
そう言って、防いでいた人切包丁を振り払った。
「それに、こっちも好き勝手やっているだけなんで。姫さんが気に病むことなど一つもないですし、むしろいい迷惑です」
「こんなときでも、相変わらずね」
「それは、どうでしょうかね? 内心かなりビビっているかもしれないですよ?」
本格的に降ってきた雨の中、洸樹の笑顔がまぶしく見えた。
「さ、行きましょう」
洸樹が白麗の手を取る。
「どこに行くって言うの?」
もう、白麗には居場所などどこにもない。
「竣雨たちが控えてます。まあ、結果的にこうなりましたが、全員で黄国に向かいます」
そのときだ。
壇上に息を切らした兵が入ってきた。そして泰樂に告げる。
「黄国が! 黄国の空軍が來国へ侵入しました! まっすぐここ、麟紫宮に向かっております!」
「数は」
「およそ三百。空飛ぶ古獣に乗っております」
静まりかえった宮廷に怒声が響く。
「全軍、攻撃に備え用意!」
「民は? ここまで多くの民がいては、準備に時間もかかります」
泰樂はどよめきが広がる民衆を一瞥した。宮廷の中に入れてほしいと願う声もあがる。
しかし、泰樂は兵に伝える。
「民は一刻も早く蹴散らせ。邪魔になるようなら妨害行為とみなしてよい」
「我々は、どうすればいいか?」
犂州主の問いに泰樂は、にやりと口角をあげた。
「州主ならびに貴族は宮廷へ。――この国にとって失ってはならない人たちなのでね」
その瞬間、泰樂と目があった白麗は吐き気がするほどの悪寒が走った。 この国にとって必要なのは、來の血で肩書きで権力なのか。
白麗は頭を振る。そんなわけない。国は民で成り立つ。その民をないがしろにする国などないほうがいい。
白麗の手を持つ洸樹は、じっとこちらを見つめる。長年のつき合いだ。きっと、白麗がろくでもないことを口走るのだろうと察しているのだろう。
そして、それは的を射ていた。
「洸樹――この混乱を止めたい」
黄国が來国に攻め込んできたというのは誤報だと白麗たちにはわかっている。おそらく、黄国にいる先読みの力を持つものが、法王が來国にいると見たんだろう。王のいる宮廷に赴き、協力を仰ごうとしたのかもしれない。
だが、隣国の侵略を恐れていた一派は先制を仕掛けられたと誤った。それが今、この状況を生み出している。敵意のない黄国の人間に手を出したら、間違いなく戦争になる。
「皆、落ち着いて!」
白麗は叫ぶ。しかし、雨音と共に逃げまどう人々の耳に白麗の声は届かない。
「黄国は攻めてこない! だから――」
そのときだ。
「こんなところに黄国人がいるぞ!」
はっと視線を向けた先には、鮮やかな金髪を露わにした陽稟と彼女を守ろうとする占師の姿。占師は相変わらず布をかぶっているが、陽稟は混乱の際、はぎ取られてしまったのだろう。
「こいつは密偵だ」
誰かの放った一言で、陽稟たちを囲む視線が一気に殺気立つ。
「やめて!」
駆け出そうにもここ数日ろくな食事もとらなかったせいか、足がもつれた。倒れそうになる白麗をとっさに支えた洸樹の胸の中で白麗は唇を噛む。王都を出ていろんなことを知り、学んでいたけど、私は肝心なときに無力だ。
でも――。
白麗はなけなしの力を振り絞って走った。
「お願いだから、やめて!」
こんな空虚な争いで人が死ぬなんて――耐えられない。
肝心な場面で無力だとしても、生きている以上、誰もが力を持つ。立つこと、息を吸うこと、しゃべること。些細なことすべて自分の力だ。それをここで使わずどこで使う?
◇
一方、兵を駆使して最速の構えを見せる泰樂だが、雨の中現れた、虎のような姿の古獣を使いこなす黄国空軍の姿におそれを抱いた。
來国屈指の兵を持ってしても適わない――。投石の準備をさせ、弓兵をそろえたが、どれもが無意味だと察した。
もう、終わりだ。
何年も時間をかけ、やっと誰にも口出しできない権力と地位を築き上げたというのに――。どうせ滅びるのなら――。泰樂は思う。
一層のこと国と共に心中してやろうと。
◇
誰の目から見ても、白麗が陽稟たちのもとへ向かうのは不可能だった。殺気立つ民衆は、今にも襲いかかりそうな気迫のこもった目で三人を睨む。それでも白麗は必死に足を動かし手を伸ばす。
そのときだ。怒声が聞こえたかと思った瞬間、地鳴りと弦の音が響いた。しかし、自由に空を駆ける空軍には当たらず、地に落ちてきたのだ――それもこちらに向かって。
「姫さん!」
洸樹がすぐさま駆け寄りかばおうとするが、それでも彼らに手を伸ばす。兄様が作りたかった国はまだできていない。
こんなところで幕引きなんて、絶対に嫌だ。
華姫が王になりたければなればいい。泰樂が來国一番の権力者になりたければなればいい。――だけど、彼らの治める來国は白麗の望む來国の姿とかけ離れている。
国を治める者が妄執に囚われていては、その妄執で他人が死ぬ。
私がそうだったから。
雨に紛れて涙がこぼれた。
王にならなくても、権力がなくても、仲間がいれば国の内側から少しずつ変えることはできるのだ。
どうしてあのとき、來の血筋でないことに絶望して死のうとしたのか。王の近くにいることさえ許されない立場だったことに失望し、兄様と共に描いた未来を描けないくらいならと選んだ、死という浅はかな道。その結果が、今、目の前に転がる。
白麗は奥歯を噛みしめた。
ならば、生きている限り、必死に抵抗しようと思った。
国が民が己が作り出した、常識という概念に。
途端、目の前が止まって見えた。目の前だけではない。音も風も匂いもすべてが止まっていた。
――貴方にとって国とは?
唐突に耳に飛び込んできた声は、四方八方から聞こえた。
白麗はふっと息を吐くとはっきりと答えた。
「水面の月もつかめるんだって思えるところ。太陽の見えない厚い雲に空が覆われ、雨風に身をさらしても、その身に一光が射すことを忘れることのない場所――兄様が私に示してくれた国はそうだった」
答えた瞬間、再び雨音が耳に届く。同時に矢と石も飛んできた。だが、それらが地上に降り注ぐことはなかった。
「キミに力を貸そう」
白麗は見た。確かにこちらに向かって降り注いでいた矢と石が初めからなかったかのように忽然と消えたのを。そして白麗が手を伸ばす先から、民衆の壁を割って現れたのは、馬に似た見たこともない獣だった。陽稟も民衆も皆惚けたようにその獣に視線を向けている。
それもそうだろう。確かに容姿は馬に似ているが、額から一本の角を生やし、鬣も体躯も真っ黒だが、背に月光を浴びたような斑模様を浮かび上がらせ、足元からは止めどなく虹彩を放つ霧が放たれていた。
息を止めてしまうほど、美しい獣だ。そんな獣が、白麗の前で立ち止まると首をあげた。
「乗って」
そう言う声はどこか聞き覚えのある声だった。そのせいか、恐怖心は抱かない。白麗は恐る恐る背にまたがる。白麗が乗ったことを確認すると、獣は駆け上がった。地ではなく、天に向かって。
囂々と耳元で鳴るのは風を切る音。目をつむっていた白麗は、ぴたりと止んだ風に目を開けた。するとどうだろう。先ほどまでいたところからずいぶん高くにいるではないか。宮廷はもちろん、集まっている民すべてに目を向けることができる。
いつの間にか雨も止み、厚い雲から光りが差し始めていた。
「聞け」
風のように声が広がる。
「我は天よりこの地に使わされた者。麒麟と名を与えられた者」
えっと声を上げたのは言うまでもない。神獣でありこの來国の守護神である者の背にまたがっているのだ。恐れ多くて落ち着いていられない。
もしかしたら、天罰とかでこのまま地面にたたき落とされるのかな、と思ったときだった。
「我、ここに王を定める」
そう言って眩い光を放った。それは、遠く黄国まで届いたと言う。
「來白麗、汝を王と認める」
「なんで――王になるには來の血筋じゃないと」
困惑する白麗をよそに、麒麟は続けた。
「治める者に血筋など不要。――我の借りの姿である黒珠が光ればそれでよかったのだ」
だが、いつの間にかねじ曲がった条件を付け加えられ、黒珠を持つことのできる人間も限られてしまったと麒麟は言う。
「すでにできあがってしまっている檻を壊すのは難しい。しかし、汝はその困難に挑む信念を持つ。――それに自らを人殺しと思っているようだが、紅貴はあの晩、毒を飲まされた。そのことを忘れるな」
麒麟は泰樂を睨む。泰樂は小さく叫んで身を縮ませた。
「紅貴が白麗を恨むことなど決してない。――たとえ夢でもそんなことを言う男じゃないって誰よりも白麗が知っているはずでしょ? ……さて、法王よ。彼らに話をつけ、この馬鹿げた茶番を終わらせよう」
◇
地面に降り立ったとき、やっと呼吸ができる思いがした。
「姫さん!」
「ああ、洸――」
しかし、言い終わる前に力強く回された腕のせいで言葉が消し飛んだ。護衛人の思いも寄らない行動に目を見開く。
「無事でよかった」
耳元で囁かれた言葉がくすぐったくて顔が熱くなる。
「あれ、白麗顔が真っ赤だよ?」
そう言って意地悪げに笑う陽稟に、白麗は怒った。
そんな彼らの様子を遠くからじっと見つめるものが一人。華姫だ。麒麟直々に王を宣言された今、もはやただの貴族の娘でしかない。これでは、手に入れたいと思った男にも見てもらえなくなる。あふれ出る涙を必死に拭えば、近くに気配を感じた。護衛人の一人、秋螢だ。
「目障りよ、去りなさい」
そう命じればいつもなら従う彼が今日はその場を動こうとしなかった。
「貴方を一人にはさせられません」
秋螢のたった一言が、胸をえぐられるほど嬉しかった。
「占師、ずっと疑問に思っていたことがあるの。......貴方はどうして単身危険な來国にやってきたの?」
先読みでなくても、一国の王が突然行方不明になれば大騒ぎになることくらいわかっていたはずだ。
占師はかぶっていた布を自ら取り去った。途端、眩しいほどの黄金色の髪が現れ、大空のように深い青い目が白麗を写す。口元は笑っていた。
「改めて名乗らせて。僕は黄国法王、黄凌劉(き りょうりゅう)。ゆっくりと滅びゆく国を憂い、荒神になる寸前の神獣の助力になるために来たんだ。3年ほど前からね」
3年も前から......。陽稟が怒るのも無理はないと思ってしまった。
「いろいろあったけど、神獣殿も満足しているんじゃないかな? きっとこの結果にほっとしているよ」
「それじゃあ、守護獣様をお呼びしたのは貴方ってこと?」
白麗は、口を抑えた。
「そんな! それじゃあ貴方は來国の恩人だわ」
「いや、結局僕は力になれなかったし。って、白麗? 聞いてる?」
「お客様をもてなす準備をしなくちゃ! ああ、でも今すぐには無理よね。占師、じゃなくて、凌劉様。もう少し來国に滞在してくださいます?」
「お嬢ちゃん、今更だし敬語で話さなくていいよ。堅苦しいのは嫌いなんだ。それに、結局のところ神獣殿の憂いを晴らしたのは、僕じゃない。お嬢ちゃんだ。お嬢ちゃんが、祈らなければ、神獣殿は黒珠から出ることさえ叶わなかった」
白麗は首をかしげた。正直、自分がそんなことをしたとは思えない。
ふと周囲を見回した白麗は、一人だけ姿が見えない者がいることに気がついた。
「あれ、竣雨は?」
「そういえば、あいつさっきから見あたらないな」
白麗と洸樹が周囲に目をやれば、占師と陽稟は声を上げて笑った。一体どこに笑われる要素があるのかわからない二人は、眉に皺を寄せる。
「僕ならここだよ」
その声は、麒麟の方から聞こえてきた。
「竣雨、隠れているのか」
洸樹がそう言えば、さらに二人は声をあげて笑った。
「違うよ、洸樹」
すると麒麟がいた場所に竣雨が立っていた。
「僕が麒麟だよ」
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