第18話

「皆、無事?」

 金色の髪を後ろにかき揚げながら陽稟が問う。乱れた呼吸が響く中、酸欠で目がかすむが、全員の姿を捉えることはできた。ほっと息が出る。

「――何とか。それにしてもあの娘っ子、一体何を考えているんだか」

 ふっと息を吐きながら、占師は額の汗を拭った。

「これじゃあ嬢ちゃん、王都はもちろん、国にいることすらできないじゃないか」

 姫から罪人へ。王の言葉は想像以上の力を持つ。これからは、すべての者の目が白麗を捕らえる網であり鎖になるだろう。人相書きも広まるはずだ。いくら民にとって印象の薄い王族であっても、簡単には出歩けなくなる。この來国で平穏に暮らしたいのであれば、人里離れた山奥で影を潜めひっそりと暮らすしかない。しかし、無実の罪であればそれは死と同じくらい辛い仕打ちとも言えた。

「ねえ、白麗」

 陽稟が白麗の荒れた両手を握り言う。

「一緒に黄国に行こう」

 息を飲む音が聞こえた。何か言い掛ける洸樹に、占師が片手を上げそれを阻止する。

「もう白麗は十分にがんばったよ。これ以上、酷い仕打ちを受ける必要はない」

 心配しないで、と陽稟は笑顔を見せた。

「食べ物はおいしいし、景色も綺麗。ちょっと頼りないけど法王もいる。不自由はさせないわ。――どう?」

 陽稟の透き通った青い瞳が、白麗を映し出す。穏やかな青空のような瞳に映る白麗は、とても宮廷暮らしの王族には見えない。どこにでもいそうな薄汚れた少女。

 ――いや、むしろそれよりも非力な人間だ。

 白麗はぎゅっと拳を握ると、伏せていた目をまっすぐ陽稟に向けた。

「ありがとう、陽稟。――でも、私はこの国を捨てられないわ」

 たとえ役立たずでも、水面の月を掴むような話でも、ここで自分の身かわいさに逃げたら――一生後悔する。

 どんなにあがいても報われないこともある。だけど、やってみなければわからない。

「私、まだあきらめきれないの――バカがつくほど、この国が大好きなのよ」

兄様と過ごした場所であり、同時に守ろうとした国だ。

 何か言おうとする陽稟の肩に、占師は手を乗せ首を左右に振った。

「気持ちは分かるけど、お嬢ちゃんの決意は堅い。それに誰も口出しはできないよ」

「でも! それじゃああまりに――」

「僕らはお嬢ちゃんが助けを欲しているときに手をさしのべるべきだ。そうじゃないと若芽は大木にならずに枯れる」

 うなだれる陽稟の頭に占師は手のひらを乗せた。

「人間だけじゃない。どの生き物も必ず辛く厳しい試練を迫られる。そのとき逃げるも立ち向かうも決めるのは本人だけだ」

 占師はくしゃくしゃに頭をなで回すものだから、陽稟の髪が鳥の巣のように乱れた。

「ちょっと! 何してるのよ」

 つかの間の笑いが起きる。この決断が吉と出るか凶と出るかはわからない。しかしほんの一瞬だけ、そのことを忘れ笑う。ふいに背後に気配を感じ振り返れば、珍しく眉間に皺を寄せた洸樹が立っていた。

「……黄国に行くと思いましたよ」

 捨てられた子犬のように愁いを帯びた表情が、とても似合わないと思った。

「――何しているんです」

「あら、私ったら。ごめんなさい、洸樹ったら変な顔していたから、つい」

 ぱっと洸樹の頬をつねっていた手を離せば、降りる前に掴まれた。

「姫さん、どういうことですか?」

「ちょっ、近い」

 一歩下がれば、一歩近づく。体格差があるため、端から見れば巨大な獣が小動物を襲っているようにしか見えない。全身を覆うほどの影に白麗は怯えた。

「ほうほう、変な顔をしていたら頬を抓っていいなんて決まり、ありましたかね?」

「ね、ちょっと。わかったから。少し離れ――」

「離れたらまたどっか行ってしまうじゃないですか」

「もう、ごめんってば」

 なんで怒っているのかよくわからない。抓ることなど当たり前に行っていたことだ。今更怒る原因がわからない。

 そんなに痛かったのだろうか。彼を見上げれば、思いっきりため息を吐かれた。失礼しちゃう!

「おーいお嬢ちゃん、洸樹! じゃれてないでこっちに来て。今後について決めておこう」

 声をかけてきた占師に白麗は手を振って答えた。

「だって。ほら、行くよ」

 しかし洸樹はむすっとむくれたまま、動こうとしない。

「もう、小さな子供みたいに拗ねないの」

「別に。拗ねておりませんよ」

「拗ねているじゃない」

 まったく。彼がここまでむくれるのも珍しい。何がそんなに気に障ったのだろうと思ったときだ。

「……人が真剣な話をしようとしてたっていうのに」

 洸樹が何かを言ったが、小さすぎて白麗には聞こえなかった。


   ◇


 一同は、深淵の森を目指し移動していた。

 ひとまず、ほとぼりが収まるまで安全な場所に身を潜めた方がいいとなり、竣雨にとって深くなじみのありかつ人の寄らない深淵の森に行くことにしたのだ。また、何かあれば黄国に行けるという保証もあった。

「なんだか、変な気分ね」

 前後に揺れる馬の上で、同意を求めるように白麗は視線を送ってきた。馬の手綱を少しだけゆるめる。

「そうですね、また振り出しに戻った気分です」

 白麗は小さく笑うと、確かにと返した。

 途端、風が吹き、頭までかぶっていた布をはぎ取る。

 風に揺れる短い髪。ただ、あの頃とは見える景色もだいぶ違うと洸樹は思った。

「次の村で食料の調達をしよう」

 反対の声は上がらない。人目を避けた結果、ずいぶん時間はかかったがあと二日もしないうちに到着する。これで白麗の目元に浮かぶ隈も消えるだろうか。

 食材の調達は、主に竣雨と洸樹、または占師が行う。できるだけ目立たないように注意をしているものの、洸樹は場所によっては手配書が回っているし、占師も顔まで隠す布は嫌でも目立つ。しかし、竣雨一人では五人分を調達するのは難しい。

 木々の間に馬を留め、周囲を確認する。安全が確認できたところで竣雨と洸樹は犂州の里に向かった。

「二人とも、気をつけてね」

 そう言って無理に笑う顔が痛々しくて直視できなかった。


「思いの外、時間がかかったな」

 すっかり日が落ちた空を見上げつぶやく。藍色の空は、目の端に映る黒に次第に染まっていく。

「重くない?」

「このくらいなんてことないさ」

 背中に担ぐ食料の重さを気にして竣雨が訪ねる。優しく小さな少年の頭を強く撫でた。

「僕、もう少しくらいなら持てるから言って」

「はいはい」

 無口で無表情な少年だが、ここ最近少しだけ心を許してきていると洸樹は勝手に思っている。けれど触れられるのはいまだに嫌なのか、半歩下がった竣雨に洸樹の悪戯心がうずく。しかし、彼の頭に手を押く前に異臭が鼻を突いた。

 何だ――。

 もう集落からはだいぶ離れている。なのに何かを焼いた煙の臭いがさっきから鼻をかすめる。

「――洸樹」

 そう言って竣雨が指さす方を見た瞬間、得体の知れないものが足下から這い上がってくるような不快感に襲われた。

 藍色の空に映える、赤――。

 風に舞い上がった赤い花弁のような炎が飛び込んできた。

 ――姫さん。

 とっさに走り出したのはいいが、荷物が重くて思うように足が進まない。

 一体どうなっているんだ。

 食料の調達はもちろん、ついでに情報収集も含め集落には顔を出すのだが、どこに行っても兄王殺しの妹の話でうんざりする。

「でも、今この国のどこかにいるんだろう? 捕まえて警備兵に出せば、褒美と共に望みを叶えてくれるっていう話じゃないか」

 だから血眼で探すものも多いと言う。

「こんな世の中だからなぁ。安心、安全、金、名誉――それら全部手に入るならどんな手でも使うさ。誰もが楽をしたいって思うのは当然だろう?」

 だからと言って偽王の言いなりになるのか――今にも口から飛び出しそうになる言葉を必死で押さえた。民にとって王とは絶対的主君。王が右を向けと命じれば向き、上を向けと言えば向くのだろう。――自害しろと命じればそのとおりに実行しかねない。そう思ったら嫌悪が全身を走った。

 王とは天そのものなのか――。

 いや違うと洸樹は思う。

 洸樹の知る王は、決して君臨する者ではなかった。

 ――洸、キミは本当に奥手だよなあ。そんなに傷つくのが嫌なのかい?

 白麗の護衛人に選ばれたとき、今までのように馴れ馴れしい口調から敬語に改めたら、紅貴にそんなことを言われた。ほっとけ、と返せばくすくすと笑い、肩に手を置いて言う。

 ――キミが考え、決めたことなら否定はしないさ。ただ、あんまり自分の気持ちを無視しすぎるなよ。心が死ぬとたちが悪い。

 洸樹の知るもっとも優れた王は、そういう男だった。

 華姫は王の器ではない。

 だが、声を大にして訴えても誰も聞く耳を持たないだろう。不本意ではあるが、紅王の遺言とされ、かつ黒珠も光らせた。

 ――それが今の來国のすべてだ。

「まさか秋螢に見つかった、わけじゃないよね」

 竣雨の淡々とした声音が、さらに気持ちを焦らせる。

 先ほどの集落で有力な情報が手には入った。それが、秋螢がこちらに向かっているという話。

 身を潜めそうな場所は、早い段階で固められる。しかし、洸樹の足止めができる、数少ない人間を向かわせるということは、気づかれたのだと思っていいだろう。……遅かれ早かれ、こうなることは予測していた。

 しかし、これはどうだ。

「急ぐぞ」

 洸樹の脳裏によぎったのは、白麗の無理に笑った顔だった。

 顔が熱い。炎に近づけば近づくほど熱風が全身にぶつかってくる。

「洸樹」

 ただがむしゃらに前を行けば、突然裾を引っ張られた。何事かと視線を向ければ、見知った顔がこちらに向かって駆け寄ってきた。

「――姫さん」

 ほっと一息つこうとした洸樹だが、白麗の顔を見て目を見開いた。

「姫さん、その怪我一体……」

「ああ、これ? 転んじゃ――」

「襲われたんですよ」

 占師、と白麗が止めようとするが彼は言葉を続けた。

「たまたま居合わせてしまった州外の集団に」

 占師によると、一番最初に会ってしまったのは竣雨くらいの年頃の子供だったという。頬も痩せこけ、衣服からのぞく手足は折れそうな程細い。かつ、犂州の行う外州民狩りから逃げてきたのだろう。目に光はなく人というよりは人形のようだったという。

「そのときその子の腹の虫が鳴ったんだ。そうしたら、白麗が自分の団子を渡してね。その子、奪い取るようにして受け取ると獣のように森の中に姿を消した。僕らも君たちが戻ってくるまで身を潜めようとしたら、いつの間にか彼らの集団に囲まれてしまったんだ」

 そこからが大変だったと占師は言う。すぐに白麗が手配されている來白麗だと気づかれ、逃げる間もなく捕まったのだ。

「誰だって身に覚えのない罪で捕らえられれば、抵抗するのが当たり前。お嬢ちゃんももちろん、例外なく抵抗したよ。でも、州外で暮らす彼らにはお嬢ちゃんが金の塊に見えていたんだろうね。全力で押さえつけに来たってわけ」

 その結果がこの怪我か。ぱっくりと切れのだろう唇の端を親指で撫でる。痛い、と顔を背けても顔から手を離さなかった。

「で、僕らがお嬢ちゃんを救出したら、今度は他の者の手に渡るくらいならって森に火をつけたわけ」

 先読みの力が教えてくれればこんなことにはならなかったのにと占師は肩を落とした。

「――もう終わったことよ」

 そう言って白麗は前を行く。

「占師が言うには、この火事はそう大きくならないですぐに消えるみたい。だからこの騒ぎの隙に深淵の森を目指しましょう」

 そう言って白麗は笑うのだが、洸樹にしたら身を裂かれるような気持ちにしかならなかった。

 沈黙が一同の上にのしかかる。

 木の葉を揺らし、土を蹴り、枝を折る。

「今日はここまでにしよう」

 沈黙を破ったのは、陽稟だった。

 小さなたき火を囲んで眠りにつく。今火の番をしているのは洸樹だ。ばちっと炎がはじけるたびに先ほどの火柱が脳裏をよぎる。

「――怒っている?」

「さあ、どうでしょうかね」

 隣に座ってきた白麗には目もくれず、洸樹は答えると巻きをくべた。

「洸樹、私ずっと言おうと思っていたんだけどね――」

 布の奥に隠れた頬が、炎で赤く見えた。白麗は伏せていた目を上げると言った。

「洸樹はもう護衛人じゃないから、私と一緒にいなくてもいいんだよ」

「はあ?」

 腹の底から力が抜けるような気がした。

 今更、何を言っているんだ? このバカ姫様は。

「私、ずっと考えていたの。これ以上洸樹を束縛し続けていいのかって。でね、やっぱり私のわがままでもうこれ以上振り回しちゃいけないって――って何するのよ」

「何って、この前の仕返し……ですかね?」

「ですかね――って!  質問しているのは私! もう痛いから離して」

「嫌ですね」

 両頬を抓れば、手ではたき落とされた。

「――酷いのは姫さんですよ」

 赤くなった手の甲を撫でながらぽつりとつぶやく。すると白麗は何度も瞬きを繰り返した。

「何で酷いのよ?」

 はあ、っと思いっきりため息を目の前で吐いて見せた後、洸樹は空を見上げた。今では無数の星が夜空にちりばめられている。

「主従関係がとっくに崩壊していることは。……何となくわかっていました」

 玖芽の住まう小屋の前で、解放した責任を持てと言ったのは、他ならない洸樹自身だ。しかし、今はあのときとはまるっきり違う。

 えっ、と声を上げる白麗に目を向ける。

「だからと言って、今更姫さんを名前で呼ぶのはちょっと。噛んで恥をかくのは嫌だったので、ずっと今まで通り呼んでいようと思っていたんですけど、それじゃあ不満ってことですか? 名前で呼べってことですか?」

「ちょ、ちょっと待って」

「何です?」

「洸樹は、好きなところに行って好きなことをしていいんだよ?」

「姫さん、勘違いしてません?」

 ばちっと火花が弾けた。

「俺は好きなところに行って好きなことをしていますよ」

 その瞬間、白麗があまりにも間の抜けた顔をしていたものだから思わず吹き出した。すると笑いは止まるどころかどんどん大きくなって、終いには涙まで滲んできた。

「この際なので言っておきましょう。この先二度と言わないですからよーく聞いてくださいね」

 深く頷く彼女の純粋さに再び笑顔がこぼれる。

「華姫のところにいてわかったんです。俺は他の人間に仕える気はさらさらありません。もともと従者のようなことは性に合わないんですよ。――でも姫さんには仕えたいって本気で思うんですよね」

 目を点にする白麗の額に向かって指をはじく。痛いと額を押さえる彼女を見てさらに腹を抱えた。

「主にこんな真似して許してくれるのは、姫さんだけだと思いますからね」

 にっこり笑えば、バカ洸樹と罵られた。

 ――あんまり本心から目を背けるなよ。

 紅貴の声が頭の中で聞こえた気がした。 

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