第17話

 足音が響く。先ほどから部屋の隅から隅まで行ったり来たりを繰り返しながら、親指の爪を噛む。

 ――一体何がどうなっている?

 確証はない。ただ、あの女ならやりかねないということだけだ。

 ――白麗姫が、奴隷としてこの宮廷にいる。

 親指の爪を強く噛んだまま、にやりと笑えば、小さな音を立て爪が折れた。

「――これは、好機だ」

 黒珠は姫が持っているはずだ――となれば、ここで姫と黒珠、両方を同時に手に入れられる。

 泰樂の笑みがより一層黒く深まった。


 それから数日後、王位即位式典が開催された。

 地下にいても伝わる壮大な式典に、白麗は静かに顔を曇らせた。

「今日は役人が少ないから快適ね」

 隣に座る陽稟がご機嫌な様子でつぶやいた。たしかに、今日は見張りも少ない。この隙に奴隷が脱走することを考えていないのだろうか。そう思ったときだ。

 地上に続く階段から足音が聞こえてきた。まだ式典の最中である。勝手に動き回ることは許されないはずだ。白麗はじっと階段の方を見つめた。しかし、現れた者の姿を見た瞬間、すぐに陽稟の背後に身を隠す。

「交代だ」

 声が聞こえる。それだけで、鼓動が激しくなる。白麗の異様な様子に陽稟が小さく声をかけてくれるが、それどころではなかった。

 一人だけ式典を見ることなく、見張りを任されていたことに不満があったのだあろう。役人は颯爽とその場を去っていった。

 ――ああ、嫌な予感がする。

 その予感は的中した。ざわめく周囲の様子から、さっき来た者が収容されているこの中に入ってきたのだろう。白麗は姿を隠すように身を縮ませたが、足音は迷うことなくこちらに近づいてくる。

「……姫さん」

 その声音は、白麗がよく知るものと同じで、思わず涙がこぼれた。

 一向に顔を上げない白麗にしびれを切らしたのか、目の前が大きく揺れたと思ったら、抱き抱えられていた。

「ちょ! いきなり何するのよ!」

「やっぱり姫さんでしたか」

 間近にあるのは、笑みを浮かべた洸樹だ。しかし、白麗は知っている。洸樹の目は全然笑っていない。

「放して」

 暴れても今度はふりほどけない。むしろ落ちてもいいんですか、なんて余裕のある発言までしてくる。

「姫さん、俺もひとつ聞きたいんですけど」

 にっこり笑う洸樹の顔を直視できない。

「なんで姫さんがこんな場所にいるんですか?」

「なんでって言われても――私が聞きたい」

「まあ、あらかた察しはついていますがね」

 だから今、この瞬間を狙ったのだと洸樹は言う。

「それじゃあ、行きましょうか」

 白麗を抱えたまま、洸樹がその場を後にしようとしたときだ。

「ちょっと待て」

 その行く手を遮ったのは、他でもない陽稟だ。

「あんた、何者だ。十十をどこに連れて行く?」

 金髪に青色の瞳の少女を前に、洸樹は一瞬目を大きく見開いたが、すぐにため息を吐いた。

「姫さん、友達できたんですか? 人と関わるのが苦手なあの姫さんが?」

「ちょっと、どういうことよ」

「お嬢さん、この際なので話しますけど、この方は現在家出中のおてんば姫、來白麗なんですよ。――世間知らずだからこんなところに放り込まれていますけどね」

 途端ざわめきが広まった。それもそうだろう。王族が奴隷としているなんて前代未聞。聞いたこともない。

「というわけで、この人連れ出しますから」

 有無をいわさぬ勢いで洸樹は走った。

「洸樹!」

 声を荒がれば、大丈夫ですという返事が返ってきた。

「鍵は開いたままです。式典をしている今のうちならうまく逃げられるでしょう」

 階段を一気に駆け抜けたときだ。目を刺すような光にくらんだ白麗は、突然体が大きく揺れ目を見開いた。

「どうしたの洸――」

「姫さん、そう簡単にはうまく行かないよう、人生って奴はできているんですかね」

 そんなこと、私に聞かれても困る。

 明るさに慣れた目を向ければ、武装した護衛人が一人、行く手を塞いでいた。

「ここは、通させない」

 槍の先をこちらに向け構える男に見覚えがある。華姫の護衛人の一人、秋螢。洸樹と同い年で洸樹の次に実力のある若者だと言われている。

「華姫の差し金か」

 しかし、秋螢は静かに首を左右に振った。

「じゃあ誰の――」

 洸樹が言い終わる間もなく、鈍色に光る先端が迫ってきた。

「お前には関係ない」

「大あり、だね!」

 いくら洸樹が手練れの武人だとしても、白麗を抱えたままでは秋螢の相手は分が悪い。かろうじて繰り出される攻撃を避けながら、洸樹は相手の隙を狙っていた。

「秋螢。今お前の主人の晴れ舞台だろう。こんなところで油売ってていいのかよ」

 言葉で相手の動揺を誘う作戦だろう。洸樹は次々に言葉を放つ。

「華姫の差し金じゃあないとしたら、泰樂か。――どうせ姫さんがここにいることを知って、どうにかして自分のものにしようと考えたんだろうな」

「泰樂が私を? でも、泰樂はまだ自分の所行を知られたことすら知らないはずよ」

「さすがに姫さん、鈍すぎです。泰樂は別に貴方を罰しようとしているわけではありませんよ」

「じゃあ、他にどんな――」

「來国王は、來族の血を持つもの。――泰樂は姫さんに子を生んでもらおうとしているんです」

 開いた口が塞がらない。たしかに洸樹の言うことは的を射ている。むしろそうだと考える方が正しい。でも、白麗は現実を受け止められないでいた。

「い、嫌よ! そんな道具にされることは絶対」

「だから今、この場をどうにかして宮廷から出ようとしているんじゃないですか。まあ、早くしないと兵を呼ばれて、再び牢屋に逆戻りですが」

 洸樹は、必死に逃げるその瞬間を探している。だけど、相手は秋螢だ。なかなか隙を見せてくれないようだ。このままでは二人とも捕まってしまう――そう思ったときだ。何かが秋螢に向かって飛んで行った。それが貧相な靴だとわかった瞬間、頭を殴られたような迫力のある声が耳に飛び込む。

「邪魔だ、退け」

 途端、目の前を黄金色が通り過ぎる。白麗と秋螢の前に割って入ってきたのは、陽稟だった。

 洸樹は秋螢の一瞬の隙をみて、これを好機とばかりに走り出す。

「洸樹!」

 まだ、陽稟が残っている。

 しかし、白麗が非難の声を上げた途端、地面に降ろされた。

「ここでじっとしていてくださいよ」

 洸樹はそう言うなり、すぐさま今来た道を戻る。あっという間に小さくなる背中を見つめながら、洸樹は白麗が言わなくても同じように行動しただろうと思った。彼は恩を決して忘れない。そしてそれを仇で返すこともないのだ。

 ふっと息を吐きながら、積み上げられた木箱の影に身を寄せた。確かにここなら王位式典真っ最中に見つかることはない。

 しかし、ここから抜け出せたとしても事態がよくなるとは言えなかった。

 ――新しい王が立てば、なおさら私の発言力はなくなる。泰樂はきっと傀儡の王を立て、実権を握ろうとしている。

 ますます思い描いていた未来から離れる現実に、奥歯をかみしめた。

「あ、やっぱりいたいた」

 洸樹ではない声にはっと顔を上げた途端、自然と涙がこぼれた。

「占師、竣雨――なんで」

 目の前に北州にいるはずの二人が立っていた。

「やだなあ、お嬢ちゃん。僕は曲がりなりにも占師を名乗る者だよ? たまたま未来が読めただけさ」

 相変わらず頭からすっぽりかぶった布で顔は見えない。けど、氷のように冷えた体に優しい温もりが広がるような安心感が白麗を満たした。

「白麗」

 占師の後ろに隠れていた竣雨は、白麗の顔を見るなり飛び込んできた。「心配、したんだから」

「ごめんね」

 竣雨を抱きしめながら白麗は思う。人に恵まれたと。

「当初の目的も果たせたし、さっさと行きましょうか」

「ちょっと待って、占師。すぐに洸樹が来るはずだから」

「洸樹が?」

 竣雨の問いに白麗は深く頷いた。

「ここまで抜け出せたのは洸樹がいたからなの。でも、妨害をされていた私たちを助けてくれた子がいて――今、その子を助けに行っているから」

 洸樹のことだ。必ず戻ってくる。

 白麗は洸樹の消えた方を見つめながら、無意識のうちに両手を合わせた。

「お嬢ちゃん、そんなに思い詰めなくても大丈夫だよ。彼は才能に溢れた負けなしの武人なんだろう?」

 占師の言葉にうなずきつつも、白麗は祈った。

 何度も足音が近づいては遠ざかる。先ほどから、この辺りをうろつく兵が増えたような気がする。不安が顔に出ているのだろう。竣雨の視線を何度も感じた。

「――大丈夫。勝手に飛び出すようなことはもうしないから」

 月の美しい夜空のように深い黒髪を撫でながら白麗は言う。絹糸のように滑る髪は、人の髪というより金糸のようになめらかであった。

「竣雨の髪はとても綺麗ね。嫉妬しちゃうくらい」

 ほほえみながらそんなことを言えば、目を丸くした竣雨がこちらをじっと見つめ返した。何もかも見通しているような漆黒の瞳は、水面のように白麗の不安そうな顔を映しだしていた。

「白麗は――」

 もともと口数の少ない子だ。何か気に障るようなことをしてしまったのなら、遠慮なく指摘してほしい――そんな思いが通じたのか、竣雨は小さく言葉を紡ぐ。

「自分の髪、嫌い?」

 その言葉に白麗は思わず笑ってしまった。竣雨は特に気にする様子もなく、白麗の短い栗色の髪を撫でる。

「全然」

 確かに男子と間違われるし、奇異の目で見られることもある。だけど、少なくとも洸樹、竣雨、占師は他の人と同じように接してくれる。髪が長ければと思ったこともある。けれど、これは白麗にとって覚悟の証。

「髪はまた延びるわ」

 たとえ、他の女よりも短い髪だとしても。

 そのとき、いきなり何かが頭を掴んだ。叫び出しそうになる声を必死で飲み振り返ると、口をへの字に曲げる洸樹の顔が飛び込んできた。

「姫さん、どうしてこんなところにこいつらがいるんですか?」

「占師の先読みが当たったって言ってたけど――」

「先読み?」

 洸樹の背後から突然顔を出した陽稟は、共に身を潜めていた占師の姿を見て目の色を変えた。

「こんなところにいたのか、法王!」

 そう言うなり、占師のかぶっている布を目にも留まらぬ早さで奪い取った。途端、日にさらされた黄金色の髪。

「ちょ、なんでキミがここにいるんだい? 陽稟」

 こんなの僕の先読みにはなかったよと情けない声を出しながら、両手で顔を覆っていた。

「早く、布を返して」

「嫌だ。そもそも何も言わず国を出る方が悪い。皆がどれだけ心配したと思っている!」

「ごめん! 謝るから布を――」

「嫌だ。これは罰だ」

 口をとがらせ、顔を背ける陽稟に白麗は恐る恐る声をかけた。

「ねえ、陽稟。貴方が前に話してくれた探している人って――」

「ああ。このバカ王だ」

 さも当然のように言い放った言葉に、白麗と洸樹は目を丸くした。

「――占師は、黄国の王なんだね」

 驚きのあまり二の次が告げない二人に代わって竣雨が言葉を続けた。

「そう。若いけど応龍に認められた王。だけど法王としての自覚が薄すぎて振り回される周りの身にもなってほしいよ」

 陽稟は口ではそう言うが、表情はとても穏やかだった。

「別に僕はそんな立派な人間じゃないよ」

 両手で顔を覆いながら占師はいう。

「法王だって、応龍がただ勝手に定めただけなんだから」

「ちょっ! 仮にも神獣! 逆鱗に触れたらどうするつもりよ」

「……だって陽稟もさっき言ってたじゃないか。僕のせいで周りが迷惑しているって。だったらもっとちゃんとした王を選べばよかったじゃないか」

 途端、陽稟は髪をかき乱した。

「ああもう! そういうことじゃないでしょう! いいから早く国に戻るわよ」

 陽稟の言葉に洸樹も小さく頷いた。

「ここでのんきに言い合っているほど、俺たちに余裕はないはずなんでね。とりあえず、ここから出ましょう」

 そう言うなり、洸樹は白麗を抱えた。

「な! 降ろして!」

「俺もそうしたいのは山々なんですけどね。まあ馬がないので少しだけ俵になっていてください」

「俵って――別に洸樹に担がれなくても私、走れ――」

「本当ですか? この中で一番足が遅いのは誰か自覚がないのなら、たいしたものです。大物ですよ」

 一発、頬に平手打ちする欲求を押さえた自分を誰か誉めてほしい。結局白麗は洸樹に抱えられるはめになった。


 木を隠すなら森の中。人を隠すのなら人の中。

 式典の最中、宮廷に続く四方門は常に開かれている。その中でも東向きにある朱雀門が式典の壇上にまっすぐ続く為、もっとも人混みで溢れかえっていた。

「――本当來国には多くの人間がいるなあ」

「ダメだって。そんなに顔を上げちゃあ」

 布を目深にかぶった占師を先頭に、同じく布をかぶった白麗、陽稟が並ぶ。竣雨は白麗のすぐ後ろにつき、さらにその後ろを洸樹がついた。

 しっ――と声を潜めるよう言ったのは陽稟かそれとも洸樹か。今、まさに新王が來国に立とうとしている。

 顔を上げるなと言われているが、無理な話だ。

 祭壇の中央に立つのは、煌びやかな着物に袖を通し、長い髪を結い上げた朱華姫。凛とした佇まいは神聖なこの場の空気によく合っていた。奥から白い衣に身を包んだ神官がやってくる。頭の上までかかげ持つ、何の細工もない漆の木箱の上には、白い絹糸で結わえられた來紋。そして、來紋の上に置かれた黒い珠。

 黒珠だ。

 あれを光らせることができなければ、來国王を名乗ることはできない。

 白麗は知っている。あそこにある黒珠は、似て非なるもの。來族の者でも光らせることはできない。

 ――一体どうするつもりなの。

 温かみを失った黒珠を手のひらで握りしめ、壇上を見据えた。

 華姫は、神官の持つ木箱から黒珠を持つと手のひらに乗せた。

「我、來を導き繁栄を志す者。來の守護神よ我を認めよ」

 艶やかな朱色の唇を動かし、高らかな声で宣言したあと、華姫は空いているもう片方の手をその手に重ねた。

 その瞬間、カンっと空耳かと思うほど小さな音が聞こえた直後、ゆっくりと片手を上げると黒珠がここからでもわかるほどに眩い光を放った。途端、歓声が沸く。

「新王万歳!」

 どうして――。

 周囲の熱狂とは逆に、白麗は真っ青な顔で光る偽の黒珠を見つめた。

 一人目の前が暗くなりつつある白麗の手を誰かが握りしめてきた。

「――竣雨」

 じっと華姫の方を見ながら、竣雨は力強く白麗の手を握ってきた。

「まったく。面倒なことになりましたね」

 洸樹が背後でそっとささやいた。

「いいですか、人の波に乗りながら後退してください。できますか?」

 正直、自信はない。けどやらなければならない。まだ背丈の小さい竣雨の手を握り直し、熱気に包まれる民衆の中を動いた。無理に動けば目立つ。本来なら目出度い出来事なのだ。それを喜ばない者は逆に浮く。しかし人の群を侮ってはいけない。白麗は徐々に身動きがとれなくなり、最終的には一歩も前に進めなくなってしまった。砦の石のように人が密着し、足を動かすこともできない。なんとか竣雨の手は離さないでいるが、ただ手をつないでいるというだけで姿を確認することもできない。また、白麗も背が高い方ではない。周囲に囲まれた世界は、まるで水のようだ。息苦しい。ところ構わず手を伸ばしたときだ。

「世話のかかる方ですね」

 延ばした手を取り、思いっきり引っ張られた白麗は波が割れるような気分を味わった。

「さっさと行きますよ」

 洸樹に手を引かれ、もう片方の手で握る竣雨の様子を見に振り返ったときだ。

 目が合った――気がした。

 そんなことない。祭壇上に立つ彼女には一人一人の顔などわかるはずない。

 だが、それなら笑顔を振りまいていた華姫が、急に笑みを消しこちらを凝視するだろうか。

 華姫は、ゆっくりと片腕を横に振る。途端、集まっていた人々は口を閉じた。

「今、この場で來国王を名乗ることできることを喜ばしく思います。――ただ王位について早々ではありますが、皆には伝えたいことがあります。前王紅王のことです」

 ざわめきが静かに広がる。同時に、白麗の心臓も強く脈を打った。

「紅王の崩御の原因は病死、とされていますが、私は今、來国王の名を持って宣言します。――前王、紅王は殺されたのです」

 華姫の一言で場内はさらにざわめいた。目には見えない生物がうねっているようだ。

「わたくしはその罪人を知っている!」

 途端、水を打ったように静かになった。彼女の声一つで操れる巨大な獣がここにいる――。

「皆、思ったであろう。黄国の刺客だと。だが違う」

 華姫の小さな唇に視線が集まる。彼女は、小さく口角を上げると言い放った。

「前王、紅貴を殺めたのは、行方不明になっている來白麗だ!」

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