第14話
正当防衛、ということで話は付けられるだろうか。
持っていた護身用の短刀を振るい、一匹ずつ確実にしとめながら思う。賢い頭を持っているのだろう。十頭いるうちの三頭はすでに事切れた状況の中で強者を前にしていると認識したのか、様子をじっと伺う。
だが、そんなことに構うことなくわめき散らす声が響きわたる。
獣より頭の悪い男だ。
呆れてものも言えない。よくここまで大きな組織をまとめ上げたものだと不思議に思う。
「貴方はここで捕らえさせていただきます」
人権を無視した商売を見過ごせるほど、甘くはない。
この少年がもっともたる証拠だ。男にひどく痛めつけられたのだろう。顔は腫れ、唇は切れて体中痣だらけ。それでも、少年は己の意志を手放すことがなかった。目を見ればわかる。――強い人間なのだろう。
予想外の展開に男も顔を青くして逃げようと背を向けた。
そうはさせない――。
後を追いかけようとしたときだ。一匹の犬が白麗へ牙を向けた。強者を前にしたとき、弱者を狙う――。わかっていたことだ。しかし、後悔しても遅い。だが、牙が届くより先に黒い影が間を割って入ってきた。
目の前で血しぶきが飛ぶ。
「姫様!」
思わず声を上げ、とっさに駆け寄る。見たところ、白麗に怪我はないようだ。青蘭は、白麗を庇った人物を見て目を見開いた。
もう一歩も動けないと思っていた少年が、槍で半狼の頭を貫いていた。
運動神経がよいとあの男は言っていたが、そんな簡単な言葉で片づけられるものではない。
――これが古者?
最後の力を使い果たしたのだろう。少年は糸が切れたように倒れた。
◇
どうしてこなってしまったのか。
青蘭は己の失態を厳しく罰しない現王を少しだけ恨む。
勝手に抜け出したのは子供たちだったとはいえ、監督責任は青蘭にある。來国にとってかけがえのない存在である白麗を、危険な目に遭わせてしまったというのに、貴王からは厳重注意だけでとどまった。
何でも、幻夢珍家の当主を捕らえたことが大きいらしい。数名の隊を組んで向かわせようにも、どこからか情報が漏れているとしか思えないほどもぬけの殻ということが何度か続いたあとだったのだ。
別に手柄を立てたくて白麗を危険な目に遭わせたわけではない。
だが、そんなことはお構いなく、身に覚えのない妬み恨みを集める。
自然と大きなため息がこぼれた。
あのあと、紅貴と無事に合流できた青蘭は、酷い怪我を負った少年と白麗を連れ宮廷に戻った。すぐさま医師に診せれば、少年の体中についた傷と痣に顔をしかめられた。
宮廷召しかかえの医師にこんな顔をさせるのだ。小さな体に抱え込んできた痛みは想像もつかない。
「腕のいい医者を知っている。文を書くからそれを持って彼を連れて行きなさい」
応急処置を終えた医師が、静かな口調で言う。
「ここで治療はできないんですか?」
「ここは燐紫宮だ。民が簡単に入ってこれる場所じゃない」
言っていることはもっともだ。青蘭は口をへの字に曲げると渋々頷いた。ただ、一つだけ確かめたいことがある。
「――彼の傷は治りますか」
医師は伏せていた目をあげると、まっすぐ青蘭を見据えた。
「それは、身体の傷かね?」
「双方です」
身体的にも、精神的にも――。いくら自分の信念をしっかり持っているとはいえまだまだ子供。青蘭の目に見えた少年の姿は、本当の姿ではないかもしれない。
医師は、ふっと息を吐くと答えた。
「傷は治るだろう。幸い臓器に傷はないようだからな。しかし、背中の焼印は一生消えない。それに、この年まで暴力を受け育っていたのなら、私には見込みがないとしか答えられん」
そんな――。
想像以上に悪い返答に青蘭は顔をしかめた。
「この子はこの後どうなるのかい?」
見せ物屋が解体された今、引き取り手を探しているのが現状だ。
「難しいだろうな。背中の焼き印もそうだが、この子供は古者だ。――いい目で見られないだろうな」
青蘭もそう思った。だからこそ、彼が回復し引き取り手が現れるか自分で生きていく術を身につけさせようと思ったのだが――そう簡単にことは進まなかった。
洸樹と名をもらった少年は、想像以上に手に余る子供だった。
◇
「洸樹、何度言えばわかるの!」
まさか紅貴、白麗の兄妹よりもたちの悪い子供の相手をするとは夢にも思っていなかった。
治らないのではないかと思った怪我も回復し、すっかり顔色もよくなった洸樹に、案の定というべきか引き取り手の話はまったくこない。
支援をしている手前、放り出す訳にも行かず、面倒を見ているのだが、青蘭は宮廷暮らしだ。流行病にかかった母のいる実家に預けるわけにもいかず、白虎門の近くに彼の住む家を借りた。
なのに、だ。
洸樹はその家に寄りつこうともせず、大人の目を盗んでは來国で一番警備の堅い燐紫宮に潜り込み、白麗と紅貴と戯れていた。
どうやって入ったのか、何度問いつめても洸樹は口を割らなかった。
さすがに何度も進入を許しては、国家の沽券にかかわる。
「話すわけねえだろ」
そう言って猫のように逃げた洸樹の背をため息を吐いて見送れば、白麗が教えてくれた。
「洸樹、私と兄様と青蘭以外の人とはしゃべらないんだよ」
信用されていると思っていいのだろうか。
だが、宮廷内では洸樹の行動をよく思わない人間も多い。
まだ、必死に子供のやることだと弁解してみるが、それも時間の問題だろう。それはきっと、彼の性格だけではない。
――あの背中の焼印が消えれば何か変わるのかしら。
だが、息をつく暇もなく事件は起きた。
白麗が病にかかったのだ。
回廊を早足で歩き、白麗のいる寝室まで向かう。本来使用人でも許された人間以外立ち入ることのできない区域だ。
いくつか部屋を通り過ぎ、麒麟の浮き彫りの施された扉の前で足を止めた。ゆっくりと部屋に入ると、寝ている白麗の傍らにいる少年と目があった。
「紅貴様」
「……青蘭」
いつもどこか余裕のある紅貴の顔が、真っ青だった。
医者の診療はすでに終わっている。嫌な予感がした。
「紅貴様。もう日も暮れます。部屋に戻りましょう」
小さな肩に手を乗せれば、かすかに揺れた。それは次第に大きくなり、すぐに泣いているのだと気づいた。
流れる涙をそっと拭う。
「――紅貴様。紅貴様が泣いていると白麗様も不安がりますよ?」
「青蘭」
嗚咽を必死に殺し、紅貴が言う。
「僕、聞いちゃったんだ。――白、このまま死んじゃうかもしれない」
そう言った途端、堰を切ったように泣き出した。多少息苦しそうな表情を浮かべているが、白麗に特別変わった様子はない。
紅貴の背を優しく叩き、腕の中で抱きしめ持ち上げると、そのまま部屋を出た。
「――一体どういうことなんですか?」
別室に移り、少し落ち着きを取り戻した紅貴に聞く。
紅貴は鼻をすすったあと、まっすぐ青蘭を見つめ返した。
「白は、夢から覚めない――幻夢になったかもしれないって」
途端、さっと血が落ちた気分に思わずこめかみを押さえた。この目が覚めない病は原因不明とされ、治す方法もないと言われている。一説には古獣の仕業と言われているが、仮にそうだとしてもどのような姿をしているのかもわからない。
しかし、紅貴は言う。
「実は治す方法を知っているんだ――正確には教えてもらったっていうのかもしれないけど」
「誰に教えてもらったの?」
治療法がわかれば、国を挙げた大発見になる。しかし、紅貴は貝のように口を閉ざしてしまった。
ふっと息を吐いて別の質問をする。
「治すにはどうすればいい?」
「……深淵の森にいる真っ赤な鳥が啄んだ真っ青な木の実を食べさせればいいって」
深淵の森、真っ赤な鳥、真っ青な木の実――。まるで謎解きをしているような言葉の羅列にめまいを覚えた。
どう考えても子供だましにしか思えない。
「紅貴様。まだ幻夢と決まったわけではありませんよ」
冷静さを欠いている幼い王子に青蘭は笑顔で言う。
「もう少し様子をみましょう」
放っておいたら何をするかわからない。まだ、どういう状況なのかはっきりとした根拠がない今、とりあえず待ちながら落ち着きを取り戻すしかないだろう。
しかし、そんな青蘭の想いとは裏腹に、忽然と洸樹の姿が消えた。
◇
馬を走らせ風を切る。馬上で馬を操る青蘭の顔は険しい。
――間に合うかしら。
今朝、血相を変えた紅貴がやってきったかと思えば、洸樹が深淵の森に行ったかもしれないとささやかれたとき、驚きと同時にどこか納得したものがあった。
紅貴としては、最近見かけない友の姿に一つの可能性へとたどり着いただけかもしれない。しかし、青蘭にはそれが事実にしか思えなかった。
あの子ならやりかねないわ。
深淵の森は人を惑わし、太古の生物が住まう別世界。
いくら深淵の森付近で暮らしていたとはえ、違いがありすぎる。慢心していると、簡単に命を落とす場所だ。
青蘭の父は、深淵の森で命を落とした。
青蘭の父は、国軍の一部隊を束ねる部隊長だった。自分の身は自分で守るという父の口癖は、青蘭の根本に根付くのも自然の通りだった。青蘭の父がよく嘆いていたというのは、彼の部隊の者からよく聞く。
――青蘭が女ではなく、男であればよかったのに、と。
そう言われる度、苦笑を浮かべるしかその場をやり過ごせなかった。
武術、剣術の腕前は、軍の虎と畏れられていた父と互角に渡り合えるほどだったからだ。
自分の身は自分で守る。
女だから武術や剣術を教えないというのは、根本的な大間違いだと声を高らかにあげていた父は、娘の青蘭に指導を施した。
おそらく、基本的なことが身につけばそれだけで十分だっただろう。しかし、青蘭はその辺りの女とは違う。目も反射神経も判断力もいい。見る見る内に力をつけ、挙げ句の果てには子虎と揶揄されるまでに至った。
しかし、軍人になれるのは男だけ。
男だったら出世間違いなしと言われるが、青蘭本人は女でよかったと思っていた。
――守る為とはいえ、命を奪っていい訳ないわ。
父の希望もあり、母のように宮廷で侍女をしていたはずのなのに、何故か御子のお守りをしている。
縁、だろうか。
こうして深淵の森へ行くことは。
ふと前に占師に言われた言葉が頭をよぎった。
もしそうなのだとしたら、とても恐ろしいと心底思った。
◇
馬を走らせ、森の入り口付近まで行けば、鞍のついた馬を見た。
やはり洸樹はここにいるようだ。
正直、何が起こるのかわからない森だ。細心の注意を払い、必要だと思うものは端から持っていた。
馬から降りた青蘭は、意を決して森へと足を踏み入れた。
結果から言えば、すぐに洸樹は見つかった。しかも、すでに青い実を手にしている。洸樹いわく、簡単に見つけられたそうだ。一刻も早く白麗の元に届けたいのだろう。すぐさま森を出ようとする洸樹に青蘭は声をかけた。しかし、素直に聞くわけもない。
青蘭は、すぐにでも走り去ろうとする洸樹の襟足を掴んだ。途端、走り出そうとした洸樹から蛙のような声が飛び出した。
「何すんだよ」
明らかに怒っている洸樹だったが、やっとこちらをまともに見たことに青蘭は安堵した。これで、やっと話を聞いてもらえる。
「霧が出ている」
先ほどまではなかったが、今は周囲を囲むように白い空気が漂う。
「だから何だって言うんだ」
「深淵の森の霧は人を惑わす。――二度と元の場所に戻れなくなるわよ」
父はこの霧が原因で亡くなったと聞く。事実は知らない。けど、ここは深淵の森。その言葉を鵜呑みにするしかなかった。
「じゃあどうするんだよ」
口をとがらせる洸樹に微笑みかける。
「晴れるのを待つのよ」
しかし、待てども一向に晴れる気配はない。むしろどんどん濃くなっていく。もう、日も暮れた時間だろうか。空を仰ぐが白しか見えない。
そのときだ。
腹の虫が大きな音を立てた。
もちろん、青蘭ではない。
小さく笑いを漏らせば、洸樹の不機嫌な声が飛んできた
「――笑うな」
「別に恥ずかしがることないじゃないわ」
生きていれば、誰でも腹は鳴る。
青蘭は、出かける前に同僚から受け取った荷物を開けた。
そのとき、指先に鋭い痛みが走った。見れば、薄く切れ血が滲んでいる。
こういう小さい傷の方が痛いのよね――。
紙か何かで切ったのだろう――そう思い、放っておく。荷物の中には、干し桃が入っていた。それを洸樹に渡す。
「――いいのか?」
ちゃんと確認してくるところが可愛らしい。青蘭が頷くとあっという間に平らげた。動き回ったせいで腹も空くのだろう。
同じ人間に虐げられ育った洸樹。彼が唯一心を許すのが、そのうち国をまとめる人間だというのだから、心が痛む。このまま今のように寄り添うことはできない。紅貴と白麗は近い将来、今のような自由はなくなるだろう。彼らは子供ではあるが來の血を持つものだ。そうなってしまったら、洸樹は――。
「何ぼさっと考えてんだよ」
目の前で手を振りながら、眉をしかめる少年の顔が飛び込んできた。
「……なんでもないわ」
きっと今こんな話をしても彼は信じようとしないだろう。
しかし、これは避けられない定めだ。
これから先の彼の人生を思い、青蘭は目を伏せた。
「ったく。本当、何も見えねえ」
苛立つのも無理はない。互いの顔がようやくわかる程度にしか見えないのだ。
立ち上がろうとする洸樹の腕を青蘭は引っ張った。
「だから何度も言っているでしょう。今動き回れば、帰れなくなるって」
「うるせえ。こんなところで何もしないよりはマシだ」
「ダメよ! 絶対」
このやりとりももう何度目だろうか。洸樹の性格からしてこうなることは何となくわかっていたが、それでも繰り返されるやりとりにため息がでる。
もしかして、この霧は晴れないのかもしれない――そんなことを考えていれば、思いっきり腕を振りきられた。
「洸樹!」
「わかってるよ。ちょっとこの木に登るだけだ」
そう言って背後を振り返った。ここは深淵の森。大木と呼ぶにふさわしい木で覆われている。現に青蘭と洸樹も木の幹に寄りかかるようにして霧が晴れるのを待っていた。
大人何人かでやっと木の幹を囲うことができるだろう大木に、登ると彼は言う。
「洸樹、危ないからやめな――」
「もう登った」
空から降ってくる声に青蘭は言葉を失った。
枝でさえ、大人でも届きそうにないはるか上にあったのだ。いくら子供で身体能力が高いからといって、道具もなしに簡単に登るなんて――。
驚きのせいか、ふっと力が抜けた。幹に寄りかかり、何も見えない白い世界をにらむ。
「気が済んだなら早く降りてきなさい」
いくら人間離れしていても青蘭にとって白麗や紅貴と同じ、子供だ。足を滑らせて落ちてきたらと考えただけで身の毛がよだつ。
しかし、返ってきた言葉に、青蘭は目を見開いた。
「何か来る!」
身を強ばらせ、じっと白い霧のその先を見据えるように見つめる。音も気配もない。しかし、洸樹の緊迫した声は止むことがなかった。
「青蘭、早く上がれ」
この木によじ登れ、と洸樹は言う。けれど、青蘭には無理だ。
「早く!」
切羽詰まった洸樹の声に、この子は人を思うほどの優しさを身につけたのだとしみじみ思った。途端、遠くからかすかに轟音が聞こえた。
「鈍間! ほら、さっさと上がるぞ」
いつの間にか隣に立つ洸樹に腕を引かれる。しかし、次の瞬間、二人は目を見開き硬直した。
青蘭の手が紫に変色していたのだ。
「……なんだよ、これ」
洸樹が説明を求める視線を送ってくるが、青蘭にもわからない。ただ、先ほどから感じていた違和感の正体を知り、腑に落ちた。
「青蘭!」
洸樹が焦っている。だからだろうか、逆に落ち着いていられた。
――これはもう、助からない。
力が抜けその場に座り込めば、洸樹が腕をつかみ自身の肩に回した。いくら洸樹でも、成人間近の女を担いで登ることはできないだろう。青蘭は、ふっと笑みをこぼした。その気持ちだけで十分だ。
彼の助けを優しく拒めば、大きく目を見開いた顔がこちらを向いた。その目にはうっすら涙の膜が張っている。
「おい、青蘭! ふざけている場合じゃ――」
「私はいいから」
「は? 何言って――」
「このままだと、二人とも助からない。――白麗様を救うこともできないわ」
そう言えば、洸樹は眉間に皺を寄せた。涙をこぼさぬよう必死なのだろう。強く抱きしめれば、かすかに嗚咽が聞こえた。苦痛に歪む彼の表情に胸が張り裂けそうだった。
そのとき、青蘭は洸樹の肩にかかる荷物を見てすべてを察した。
青蘭をよく思っていない者は多い。荷物を受け取る際、泰樂様が準備してくださったものだと聞いていたが、実際のところはわからない。
「洸樹、その荷物を開けるとき、決して袋の中に手を入れてはダメよ」
おそらく、先ほど指先に刺さったのは毒針だったのだろう。まだ、中に残っている可能性もゼロではない。
真剣な面持ちの青蘭に洸樹も何か気づいたのだろう。涙を一粒流しながらも強く頷いた。
「さあ、もう行きなさい」
洸樹の背中をそっと押す。
まさか、こんな形で幕切れとは青蘭自身も思ってみなかった。
まだまだやりたいことはたくさんあった。けど、ここまで。ふと占師の言葉が浮かぶが、結局虚言だったのだ。この国の明暗を分けることなど――。
「青蘭」
一瞬、父だと思った。しかし、声をかけてきたのは、覚悟を決めた少年。その眼差しに青蘭の不安が飛ぶ。
「絶対に白麗と紅貴は俺が守るから。――青蘭の分も。絶対」
酷く冷えた指先を優しく温めてくれるように、青蘭の胸に広がる。だが、彼一人の力ではどうにでも抗えないことがある。でも――。
「洸樹、宮廷に戻ったらまっすぐ正面から行きなさい。そして貴王にお目通りすることを懇願するのよ」
この子のことだ。人嫌いが災いして、いつものようにこっそり白麗に実を渡そうとするだろう。しかし、それではいずれ洸樹は独りになってしまう。
「貴王は必ず貴方に褒美をとらせるでしょう。そうしたら、兵士になりたいと言いなさい。そうすれば、堂々と正面から宮廷に入ることができる」
洸樹を認めない者たちも貴王の命令だとなれば手出しはできない。その髪色と背中に焼き付く印の重荷は少なくとも今よりは軽くなるはずだ。
「大丈夫」
優しく髪をなでほほえむ。
「洸樹には誰にもない才能がある。これから先、困難なことが幾度も貴方の前に立ちふさがる。でも――貴方は一人じゃないから」
轟音がずっと近くで聞こえる。もう時間はない。
「さあ、今度こそ行きなさい」
手足は冷たく、視界も揺らいでいる。正直、立っていることがやっとだが、それでも笑顔を絶やさない。
「二人をよろしくね」
それが、青蘭の最後の言葉だった。
それからすぐに白霧が作り出した嘘か真かもわからない濁流が、彼女の立っていた場所を飲み込んだ。
◇
「――それから洸樹は言われたとおりに実行し、兵士から騎士、そして護衛人になった。ああ見えて奴は強い。心を壊すことも閉じることもなく強くなった。――しかし」
表情が暗くなった倶尊が紡ぐ、次の言葉が容易に想像ついた。
「――白麗は、そうじゃなかったんだね」
占師の言葉に、倶尊は頷く。
「あの子が家族以外でもっとも信頼していたのが青蘭だった。そんな彼女が白麗の寝ている間にいなくなってしまったのだ。――何も言わずいなくなってしまうくらいなら他の人はいらない、と護衛人さえ拒む白麗に儂もかける言葉などなかった」
「――それなら、今、白麗は」
倶尊は顔をしかめる。
「紅王のいない今、洸樹が連れ去られたことで、冷静さを欠いているはず。何をしでかすかわからん」
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