第13話

 白麗が五つ、紅貴が十のときだ。

 二人の母親である鈴景は病気がちで床に伏せていることが多く、二人の面倒はもっぱら鈴景の侍女、青蘭が見ていた。

「紅貴様、白麗様! お召し物が汚れます。どうかこちらへ戻ってきてくださいませ!」

 宮廷から出してもらえない二人の遊び場は、現王の來白貴の趣味で作られた造園だ。たしかにここなら子供の遊び場に最適なのだが、ずっとこの庭で遊んできた二人にとってもはや宮廷は箱庭でしかない。

「紅貴様、白麗様!」

 しびれを切らした青蘭は、外履に履き替えると駆け寄ってきた。

「池の鯉を捕まえてはいけません!」

 本来なら透き通った水の中を泳いでいるはずの鯉が、小さな子供に追いつめられ暴れたようで、濁った水の縁側に大きな水しぶきが上がっている。

「青蘭、まだ僕たち捕まえてないよ?」

 紅貴がまっすぐ見つめれば、青蘭は渋い顔をした。

 まだ子供ではあるが、聡明な頭脳を持つ紅貴にどう言葉を尽くせばいいのか頭の中を巡らせていれば、大きな水しぶきが上がった。

 気付いたときにはもう遅い。

 空気を割るのではないかと疑いたくなるような泣き声があたりに響きわたった。

「白麗、大丈夫?」

 泥水の中で泣き叫ぶ妹の手を取り、紅貴が泥だらけの白麗を引っ張った。

 白麗は、返事をする余裕すらないようで、ひたすらわめく。

「すぐに着替えを用意しますから、池から上がって待っていてください」

 そう言って風のように室内へ戻ると、適当に布と着替えの衣を持ち、すぐに庭へと向かった。

 しかし、目を離したのが悪かった。

 庭に二人の姿はなく、ただ濁り水から逃げるように泳ぐ鯉の姿が目に入るだけだった。


 青蘭は、二十歳前の娘であるが、伴侶となる男はいない。青蘭の母親も王族に仕える侍女だったが、流行病にかかり今では寝たきりのため、青蘭は家に戻る事もできず、住み込みで働いている。

 そんなとき、紅貴と白麗の世話係に任命された。本来なら、もっと立場も経験もある者が任される役だったが、いかんせん、二人のやんちゃは年寄りには無理があった。

「まったくもう、御子様たちったら」

 子供の視点は、いつも大人の遙か斜め上を行く。

 青蘭自身、まだ自分は子供だと思っていた節があったが、來族の兄妹には到底及ばない。

 宮廷を抜け出すのも、これで三度めだ。その度に抜け道を塞いでいるのに、新たな抜け道を見つけだしてしまうのだから、頭を抱えるのも頷けるだろう。

 しかし、世話の役目を担っている以上、常に守りに入るわけにも行かない。過去三回、抜け出した兄妹の行きそうな場所の目処は立っている。

 ――大事になる前に見つけださなければ。


   ◇


「それにしても、派手に転んだね」

 頬についた泥を拭ってやれば、白麗はにっこり笑い返してきた。

 いくらか乾いているものの、泥水を頭の先からかぶったのだ。着ているものも随分粗末に見える。

 さすがに浮浪者と間違われるわけにもいかない。

「あれ、白。履き物はどうしたんだい?」

 妹の手を引き、抜け出すのに夢中だったせいか、ようやく白麗が裸足でいることに気がついた。慌てて怪我がないか確認する。

 足の裏を触られてくすぐったかったのだろう。白麗の笑い声が耳を打つ。

 宮廷を囲む門を抜け、日ノ出通りから外れた細い路地で兄妹は身を潜めていた。表通りと違い、人数は少ないが、先ほどから視線を感じるほどには注目を集めている。

 このままでは、すぐに捕まってしまう。

「白、ここに隠れて待っていて」

 大きな瓷の間に小さな妹を座らせると、着物と履き物を調達するため、紅貴は走った。

 しかし、紅貴は侮っていた。白麗は好奇心が強い。気になるものは何でも手を伸ばす。水瓷の中に落ちそうになったときや、火鉢に手を入れようとしたことさえあった。

 そんな白麗の目の前に、心を奪われるようなものがたまたま通りかかることはないだろう――紅貴はそう踏んでいたに違いない。

 だが、いつ何が起こるのか、予測がつかないのが人生だ。

 白麗の前を視界を遮るように荷車が通った。そのとき、一瞬だけ見えたもの――それを追ってしまうとは夢にも思わなかっただろう。

「お待たせ――白?」

 あのときほど肝を冷やしたことはなかったと紅貴は後に語った。


   ◇


 呼吸さえ忘れるほど驚いたのは、このときが初めてだった。

 見せ物として各地を巡り、獣のように扱われる日々。唯一の心のより所は、日が昇る前に目を閉じられること。

 できれば夢は見たくない。この世界から逃げ出せれば一番いいのだが、そんなことは不可能だと嫌でもわかっていた。だから、目を閉じ、この世界から離れる――それで十分だった。

 そんな唯一の時間が、刺すような日の光で壊される。

 別に珍しいことじゃない。射るような日の光から逃れるようにゆっくり腕を上げ影を作ると重い瞼をあけた。

 しかし、目の前にいたのは小太りの禿げた男ではなく、明らかに自分より年下の泥にまみれた少女だった。

 何者だ――?

 辺りを見回すが、やはり知った顔はない。目の前に少女が一人いるだけだ。

 そういえば、今日から王都で金稼ぎ、だっけ。

 だとしたら、ここは王都なのだろう。今夜も奇異な目で見られると思うと、吐き気がこみ上げる。しかし、さっきからずっとこちらを見ている少女の視線には、不思議と嫌悪感は抱かない。

「……なんで」

 少女の鈴が転がるような声音より、栗毛の髪にこびりつく泥に目が行く。

 ――もしかしたら、この子も自分と同じ。

「なんで牢屋にはいっているの?」

 その言葉が引き金だった。きつく少女を睨む。さっさと去れ、そんな意味合いを込めて――。

 しかし、拍子抜けしたのはこちらだった。

 少女の目を初めて見た瞬間、水面の上で揺れる月光のように美しい瞳に心を奪われた。

「あなたは、いぬでもとりでもないわ。にんげんでしょ?」

 そう言うと、小汚い少女は檻へと手を伸ばす。その小さな手では、錠を外すこともできない――しかし、少女は意図もたやすく鍵を開けてしまった。

 目の前に、ずっと閉ざされていた道が開けたようだった。

「にんげんはおりの中には入らないものね」

 にっこり笑う小汚い少女。そんな小さな子がまぶしく映った。


   ◇


 宮廷を抜け出した子供たちが向かう場所は、人通りの多い朱雀門前だ。人も多いが、子供の喜びそうな店も多い。前は飴細工の店の前で動物や植物に化ける飴をじっと見ていた。

 今回も日ノ出通りを中心に探せば見つかる。青蘭は、兵にも声をかけ手分けして探した。しかし、有力な手がかりはない。だからといって、街中で王族の子が迷い込んでいる、なんて言ってしまえば、大騒ぎになることくらい目に見えている。

 もしかしたら、玄武門の方に行っているかもしれない――。

 早くも焦りを感じ、すぐに向かおうと駆けだした青蘭に、呼び止める声がかかった。本来なら、無視して行くのだが、何故か気になって足を止めた。藁にもすがる思いだったのかもしれない。振り向いた先にいたのは、道端に座り込む前髪の長い男だった。

「これは大事なことだ。嘘偽りと否定する前に、一度その身に受け入れてほしい」

「……私急いでいるの。話なら早く――」

「お主は要だ」

 要――?

 できることなら、紅貴と白麗の居場所を教えてもらいたかった。随分みすぼらしい格好をしているが、何かしら力を持つ者なのだろう。寺院が力を失いつつある今、力のある僧が各地で流浪の旅をしているという話は耳にする。だが、それはほんの一部。大半は賊へと手を染める。

 青蘭は、内心ため息を吐いた。嘘偽りを説く者もいるという噂を思い出したのだ。

 こうしている時間すらもったいない。男から顔を逸らしたときだ。

「この国は、近い内に滅びる」

 思ってもみない言葉に、青蘭は眉間に皺を寄せ男を睨んだ。国が滅びるとき、それは、來族が滅ぶことを示している。

「あり得ないわ」

 この数百年、いつの時代も一人の王に一人の息子だった來族に待望の第二子が産まれた。それこそ、來国の繁栄を示唆するものだ。だが、目の前の男は、静かに首を横に振った。

「明日の自分のことさえ知ることなどできないのに、どうして国の行く末に断言できる?」

「あなたにそっくりそのままお返しするわ。あなたこそ、どうして言い切れる?」

「私の言葉に偽りはない。どう受け取るのかもお主次第。だが、わかっていて何もしないのも歯がゆい。だから私は人々に嘘偽りと罵られても言葉を紡ぎ伝える。それが私にできる唯一のことだから」

 くくくっと男が笑う。

「まあ、信じろというのも無理な話だ。先のことはそのときまで誰にもわからないのだから」

 忘れろ、と言い捨てた男は、身を縮ませると置物のように動かなくなった。大通りに溢れかえる賑やかな声が耳に届く。

「ねえ、一つ教えてほしいの」

「……まだいたのか」

 男の気だるげな声を気にすることなく、青蘭は意味深な笑みを浮かべると言った。

「あなたの見る先の世で失ってはならない大切な人――その人は今どこにいるかわかる?」


   ◇


 ――まるで空を漂う雲の気分だった。

 誰かの指示でなく、自分の意志で出た檻。鉄格子がないだけで、目の前の光景が今まで見たことのあるはずなのに、まるっきり違って見えた。空気も街も人もまるで別物だ。

 しかし、頭のどこかでは理解していた。これはつかの間の奇跡。もし、今ここから逃げたとしても、この檻の中以外で生き抜く方法を知らない。

 目を伏せ、重い足を再び檻の中へと入れようとしたときだ。

 唐突に現れた、小さな手。

 顔をあげれば、にっこり笑う少女がそこにいた。

「行こう」

 暗雲の中から差し込んだ、一筋の光が見えた気がした。

 この手を取れば、もう痛い目に遭うことも恐怖心や寒気、そして奇異な目で見られることもなくなる。

 それは、すべてを差し出しても手に入れたかったすべてだ。

 これは、幻じゃないのか――。

 掴もうとして、躊躇したときだ。

 日溜まりのような温かさが手に伝う。

「早く行こう。にいさまが待ってる」

 いきなり少女に手を捕まれ、心臓が大きく跳ねた。

 人ってこんなに温かいのか――。

 ぼんやりとしていれば、少女のむすっとした表情が目の前に飛び込んできた。

「行くよ」

 手を引かれ、一歩踏み出したそのときだ。

「おい、どこに行く気だ」

 全身が粟だった。金縛りにかけられたように、体が硬直する。少女も異変を感じたのだろう。不思議そうに見上げるとすぐに声をかけてきた男へと顔を向けた。

「何でこんなところに汚ねえガキがいる? まさか、逃げようと手引きでもしたか? ......塵屑風情が」

 顔を真っ赤にした男が、怒り狂った牛のごとく向かってくる。目を見開く少女の前に躍り出れば、無防備な腹を思いっきり蹴り上げられた。

 気を失わなかったのは、幸か不幸か。唾液を拭うことなく呻けば、今度は背中に強い衝撃を受けた。空気の漏れる音が口から出る。

「ガキが! 誰のおかげで飯が食えると思っていやがる! 俺のおかげだろうがっ!」

 家畜が恩を仇で返すか、と一方的に怒鳴り散らす見せ物小屋の主人の体罰をじっと耐える。黙ってなすがままにされていれば、飽きてやめる。それまでじっとしていればいい。小道に転がる小石のように無心を決め、ふるわれる拳や蹴りにじっと耐えていたときだ。

「やめて!」

 男の蹴りが止む。同時に、痛みを訴える体に、涙がこぼれそうなほどの温もりを感じた。ゆっくり閉じていた瞼を開けば、先ほどの少女がまっすぐ男を睨んでいた。

「どうしてこんなことするの? 痛いことはしちゃダメなのよ!」

 虫を見るような目で見下す男だったが、次の瞬間、品定めするような目に変わった。体中の力をかき集め上体を起こすと、男の視線を遮った。

 早く逃げろ――。そんな思いで背を向けながら少女を軽く突き飛ばす。しかし、少女は離れるどころかくっついてきた。

 男の口角が気味悪くあがる。

「今は小汚いクソガキだが、着飾ればそこそこいける。まだガキだからしつけもし放題――――これは高く売れるな」

 沸々と湧く怒りを腹にしまい、小さな声でささやく。

「早く逃げろ」

 今ならまだ、少女の盾になることくらいはできる。しかし、少女は大きく頭を左右に振る。わがままが通る相手じゃねえんだよ――。苛立ちを募らせ、力一杯突き飛ばそうかと思っていた矢先だった。

 ほんの一瞬、こちらを見た焦げ茶色の瞳。思わずはっと息を飲んだのは言うまでもない。

 少女の瞳は、覚悟を秘めた目だった。

 こういう目をしているものは、人に限らず、一度決めたことを曲げない。嫌と言うほど人を見てきたからこそ断言できる。

 ふっと内心笑いがこぼれた。そして少女の手を取ると勢いよく立ち上がる。途端、体の内側で鈍い音が響いたが気付かないふりをした。

 力を抜けば、顔を歪ませるほどの激痛が走る。だからこそ、これは捨て身の賭けだ。

「行くぞ」

 そう言って走り出そうとした瞬間。いくら気力があっても、体はとうに限界を迎えていた。一歩足を踏み出した瞬間、糸が切れたように膝から崩れ落ちた。

 目を見張ったのは、少女だけではない。

「行け!」

 気付けばそんな言葉が口から飛び出していた。

 逃げだそうとした手前、今二人捕まればもう為す術はない。

「逃げろ! 走れ!」

 だから、せめて。日溜まりのような少女だけでも逃がしたい。

 しかし、少女はまだ手を掴んだまま、一緒に逃げようと力一杯引っ張る。

「行け!」

 小さな手を振り払い怒鳴る。しかし、少女は首を左右に振り、何度も手を掴もうとした。このままじゃ、埒が明かない。

 今すぐにでも気を失いそうになる自分に渇を入れ頭を動かす。しかし、妙案は浮かばないまま、肩に大きく冷たい手が置かれた。次の瞬間、思いっきり力を込められ、呻き声があがった。

「ったく。家畜は家畜らしくしてろって言ってんのに。自分の首が締まっていることくらい、わかっているだろう?」

 髪を鷲掴みにされ、のどが反る。無防備にさらされた喉を男が掴んだ。かっと空気が口から漏れる。呻く自分の声は、どことなく他人のもののような気がして、これが現実だと理解しろというのも無理な話だったとぼんやり思った。

「やめて!」

 もやがかかり始めた脳に、風のように鋭い一声が届く。

「これ以上、痛いことはやめて!」

「ぴーぴーうるさいガキだな」

 男が手を挙げるのを見た。とっさに暴れれば、男の視線はこちらへ向く。――お前の相手は俺だろうが。挑発的に睨めば、拳が跳んできた。口の中に鉄の味が広がる。

「もうやめて!」

 泣いているのだろうか。少女の声は震えていた。

 泣かなくてもいいのに、とぼんやりした頭で思う。

 こんなのは日常茶飯事。もう慣れたことだ。生きていれば怪我も治る。

 だけど、少女が殴られ蹴られるのは我慢ならなかった。自分でも不思議に思う。見ず知らずのさっき会ったばかりの他人。だけど、奴隷でも物でも家畜でもない。一人の人間として扱ってくれた初めての相手だった。

 感情などとうの昔に消えたと思っていた胸に、名前の知らない気持ちが湧く。

「お願いだから、もう……」

 座り込み、嗚咽を漏らす少女に男の手が伸びる。遮ってやろうと体を動かそうとしたが、もう指一本動かせなかった。

 悔しさが全身を駆けめぐったときだ。

「恐れ入ります。何かこの子が失礼をしたのであれば、私が代わりに謝ります。なので、これ以上この子に関わらないでいただけませんか」

 地面から突然現れた――そう思ってしまうほど、唐突に現れた女に目を見開いたのは、小太りの男だけではない。

 ――何なんだ、あの女。

 気を失っている場合ではない。自分より年上の女だが、まだ若い。着ている物、言葉遣い、態度からしてそこそこよい育ちの人間だと瞬時にわかった。それは男も同じだった。そんな女が庇おうとするあの少女は、それだけ価値のあるガキだと値踏みしたのだろう。ニタッと笑う男の顔は私欲にまみれていた。

「その子供は、オレの商売道具を盗もうとしたんだ。そう簡単には返せねえな」

「商売道具? 失礼ですが、この子は何も持っていないようですが?」

 男は顎でこちらを示した。一瞬だけ合った目は、家畜を見る目と変わらない。

 ――どうせ俺は家畜だよ。

 ほんの一瞬だけとはいえ、自由を夢見た自分が馬鹿馬鹿しい。青い空に浮かぶすべてを照らす太陽。格子に邪魔されずに眺めたいと思ったことは何度もあった。日中は檻に布がかけられ、日光は遮られる。しかし、布越しに伝わる温もりだけは、何者にも奪われることはなかった。

 少女の手の温もりは、まさしく日溜まりそのものだった。

「その子供が、貴方の商売道具ですか?」

「おや、幻夢珍家は知らないのかね?」

 男は大げさに驚いてみせた。來国最大の見せ物屋だと日頃から自負しているだけあってか、知らないという人間をみると必ずと言っていいほど、人を見下す。

「知ってます。珍しいものや美しいものを見せて歩く見せ物屋、ですよね。……その子供も見せ物の一つ、なのですか」

 興味を持ったと思ったのか、男は鼻を鳴らすと髪を掴んだ手を持ち上げた。頭に痛みが走る。髪が何本か抜けたようだ。足で体重を支える力が残っていれば、苦痛も治まるのだろう。しかし、もうそんな力は残っていない。

「こいつはあの深淵の森の近くで保護した古者の奴隷の子ですよ。奴隷制度が撤廃されてもう十数年経ちますから、きっとこれが最後の奴隷なんでしょうね」

「もし貴方のおっしゃる通りでしたら、今すぐ解放すべきです。もう、この国に奴隷制度はない。その子は奴隷でも商売道具でもないはずです」

「アンタ、勘違いしているよ」

 男は口角をわずかに上げ言う。

「俺が拾ったのは、あくまで孤児。その孤児の背中に奴隷の烙印が押されていただけであって、決して奴隷として扱っちゃいない。こいつは「奴隷の子」ではなく「人並み外れた身体能力を持つ古者」として、見せ物屋を盛り上げているんだ。文句の付けようもないだろう」

 何十回と聞いた台詞に呆れを通り過ぎて感心する。見せ物として出されるときは、奴隷の子として扱われる。普段の扱いもそうだ。おかげで生傷が絶えない。

「これは、こう見えてこの幻夢珍家の目玉に値する。――謝れば済むという問題じゃあないんですよ」

 反吐が出そうな顔で笑う男に唾をかけてやりたかったが、まだそんな気力もわかない。それに、口の中は鉄の味しかしなかった。

「それでは、どうすればよろしいのですか?」

 そこ言葉を待っていたと言わんばかりに男の口角があがる。獲物に狙いを付け機会を伺っていた獣と変わらない。

「慰謝料を支払う、それができない場合は、あの子をこちらで引き取らせていただく」

 そう言って男が金額を伝えれば、女は大きく目を見開いた。

「そんな――法外な額です!」

「払えないのなら、あの子供をこちらで――」

「それはできません」

 きっぱりと言いはねる女に、男の眉間に皺が寄る。

「アンタ――あのガキの失態がなんだかわかっているのか? 責任をとるって言った以上、きちんと取ってもらわねえと、こっちも生活かかっているんでねえ」

「それは重々承知です。しかし、規格外の金額を要求し、飲めないとなると人身売買ごとき要求をされる――これは、どう考えても法に反しています」

 旧制度だったら問題視されることもない。しかし、今は四部身分制の撤廃された貴王の世。一世代前では当たり前のことが、当たり前でなくなるのは、別に珍しいことでもない。

 しかし、この男は納得しない。

「あくまでも、俺に逆らうんだな――死んでも文句言うなよ」

 そう言うやいなや、空を割るような甲高い笛の音が響きわたる。途端、四方八方から何かが向かってきた。

 真っ黒い毛並みと金色に光る目。唾液を流しながらうなり声を上げるそれは、犬に似ている。

「俺たちのように、大所帯で旅をしながら商売をする者は、必ず用心棒がいる。――幻夢珍家の用心棒がこいつらさ」

 余裕の態度をとる男は、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「ただの犬じゃねえ。狼の血が入っている。なめていると痛い目を見るどころか、かみ殺されるぞ」

「だからおとなしく金か子供をよこせ、というのですか? ――なるほど。そういうあくどい手を使って、ここまで珍しいものを集めたのですね」

 おびえるどころか挑発してきた女の態度に男の表情が変わる。

「せっかく忠告してやったのによお――死ね」

 笛の音が鳴る。周囲を囲んでいた半犬が一斉に牙をむいた。

 あの牙で何人もの人間が犠牲になったのを知っている。走って逃げようとした奴は、背中から飛びつかれ、地面に伏した途端、喉元を食い破られた。刃物を持った奴は、長時間によるにらみ合いの末、背後から迫った存在に気付かず、殺された。

 たかが犬――そう侮っていたら絶対に殺される。

「青蘭!」

 少女が叫ぶ。四方から一斉に飛びかかった犬どもを見て、死んだと確信した。――だが。

「ほう、これが用心棒ですか。それなら安心しました」

 一瞬何が起きたのか、理解できなかった。犬どころか虫も殺せなさそうな線の細い女のまわりに黒い塊が横たわる。

「――それなら手加減は無用ですね」

 にっこりと笑った女が、初めて恐ろしいと思った。

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