第12話

 白麗が部屋から出ていった直後、州主を呼ぶ侍女の声が飛び込んできた。

「李州主、来客でございます」

「客?」

 眉間に皺を寄せ、顎髭をなでた後、低い声音で聞き返した。

「誰だね?」

 扉越しでも侍女の戸惑いが手に取るようにわかる。

「よい。すぐに行く」

 そう言って倶尊は立ち上がると、部屋の外に控えていた侍女に連れられ去っていった。

 一気に静まりかえった部屋の中で、洸樹は眉間に深い皺を寄せていた。


   ◇


 表門からでは目立つので、裏口を使い外に出ると深く息を吸い込んだ。

 北州の空気は、王都とは違い、背筋が自然と伸びるような冷たさがある。今は日中だからか、その空気には職人の多い銀州ならではの煙の匂いもした。

 こんなとき、兄様がいたら何て言うかしら。

 どうしようもなくなって、逃げ場がなくなってしまった。

 きっと、白麗の好きにするといいよ、というだろう。

「好きにして、か」

 好きにしたくてもどうにもできない。それが今だ。

 もう、この国を兄様と思い描いた国にすることはできないのだろうか。

 自然とため息が出る。行くも宛もなく、気の赴くままに歩み続ければ、いつの間にか大通りからはずれ、人気の少ない細い路地に立っていた。

 そろそろ戻ろうかしら。

 まだ日も高い。しかし、時間は刻一刻と過ぎていく。

 足早に戻ろうとした白麗は気付かなかった。後を付けていた者がいたことに――。


   ◇


 しんっと静まりかえった部屋を出て、竣雨は中庭の見える場所まで行く。決して大きい庭とは言えないが、池にいる大きな鯉や配置よく置かれた岩、そして苔蒸した大地と樹木。雰囲気が何となく深淵の森に似ていた。

 もしかしたら、冷たい空気の影響もあるのかもしれない。

 時間があれば庭を眺める習慣のできつつある今、ふと表門に目を向けたのは偶然だ。馬のいななきが、疲労を訴えている。目を細め門を通る馬車を見た竣雨は、思わず二、三歩後ずさった。そして、脱兎のごとく占師と洸樹のいる部屋を目指す。

 息を切らし戻ってきた竣雨に驚きの視線を向けたのは、占師だけだった。

「洸樹は?」

 大きく肩を上下させながら問えば、さあ、と興味なさそうな返答がくる。

「どこにいるの?」

「僕にもわからないよ。ふらっと出て行ってしまったからね」

「泰樂だった」

「そう。――ん?」

 馬車に書かれていた紋。あれは見間違えではない。

「州主に会いに来たのは、泰樂だったんだ」


   ◇


 一体何が起きたのか。頭が理解する前に白麗は角張った手で口と鼻を覆われた。

 声を上げても、曇った音が出るだけ。それに、あいにく人通りもない場所だ。助けを呼ぶことすらできない。必死の抵抗もむなしく、連れて行かれたのは、一軒の空き家だった。入った瞬間のカビと埃臭さにむせ返るが、容赦なく投げ飛ばされた。力一杯投げ飛ばされた白麗だったが、倒れ込んだ先は寝台だった為、怪我はない。しかし、埃が舞い上がり、肉眼でもわかるほど目の前が白くなる。

 恐ろしさよりも怒りが沸いてきた白麗は、きつく相手を睨んだ。見れば洸樹と同じか少し上くらいの男だ。身なりからして、そこそこ上流階級の者らしい。

「こんなことをして、どうなるかわかっているでしょうね?」

 怒りが収まらない白麗を前に、男は不気味な笑みを浮かべると、圧倒的な力で再び押し倒した。抵抗しても、鎖でつながれたように、びくともしない。

「離しなさい!」

 言葉で警告しても無意味なことくらいわかっている。しかし、言葉で抵抗するしか為すすべがないのも事実だった。

 男は必死で抵抗する白麗の両手首を片手で押さえつけ、自由になった片手でわき腹をなでてきた。突然の出来事に、言葉を失えば男は厭らしい笑みを浮かべ、ねっとりとした視線を投げかけてきた。

 背筋に寒気が走る。心の底からの恐怖を前に叫ぶまもなく再び口を覆われた。見開かれた目から自然と涙がこぼれる。玖芽のときとは違う恐怖が、白麗を支配する。

 男は、獲物を前にした獣のごとく舌で唇をなめると、わき腹から襟元へ手を動かした。

 白麗は言葉もなく首を振る。しかし、男は構うことなく、幹を伝う蛇のような手を襟元から入れようとした瞬間だった。

 耳をつんざくような轟きが聞こえたと思った途端、白麗を押さえつけていた力が消えた。見れば先ほどまでと打って変わって、床に座れ込む姿があった。

 一体何が起きたのか。視線を音のした方へ向ければ、思わず声が漏れた。

「どうして――」

 彼はいつも白麗の危機に現れ、助ける。

 仁王立ちのまま、力なく座り込んだ男を睨む洸樹は、一見表情がないように見える。しかし、全身から怒りと殺気が漂っていた。

 投げ飛ばされた男は、強く全身を打ったのかうめき声を上げる。しかし、お構いなく洸樹は男の頬を拳で一発殴ると、白麗の方へ向き直った。

 ゆっくりと近づいてきた洸樹は、着ていた羽織を脱ぎ、白麗の頭からかぶせると、ぽんっと手を乗せた。

「怖い思いをさせてしまい、すみません」

 たった、その一言で白麗の目から大量の涙がこぼれてきた。

 ああ、自分は怖かったのだとやっと自覚できた。

 しかし、そう悠長に構えてもいられなかった。

 兵が周囲を囲んでいるのだ。何故、という疑問が沸けば、力なくうつむいていた男の口から笑い声が漏れてきた。

「なるほど。そういうことですか」

 洸樹の鋭い眼光が、男を刺す。

「泰樂の傭兵は、頭も悪ければ素行も悪い。――アンタ、この人を來白麗と知って襲っただろう」

 洸樹の確信のある口振りに対し、男は笑ったままだ。肯定とみなしてもいいだろう。

 それよりも泰樂の傭兵って――。ここに泰樂がいるの?

 理解が追いつかない白麗の目の前に、突然洸樹の顔が現れた。にっこりと笑った顔は、何となく厭な気配をさせる。

 何を考えているの――?

 不安で胸が張り裂けそうだ。

「姫さん。俺、行きます」

 どこにとは聞けなかった。頭を左右に振れば、困ったように頬をかく。

「俺も嫌ですけど、それしか方法がないんですよ。奴は、元々楽しめればそれでよし。俺が来ても捕まえれば手柄になるって踏んでやったみたいですから」

「……ダメよ」

 かろうじて出せた声は、蚊の鳴くように弱々しい。しかしそれでも白麗は言う。

「行ってはダメ」

「姫さん、例えそれが命令だとしても、俺は聞けません。――遅めの反抗期です」

「冗談を言っている場合じゃ――」

 白麗が最後まで言い切ることはなかった。気を失った白麗を寝かすと、洸樹は小さく呻く男の襟元を掴んだ。

 そして、思いっきり蹴破った扉から堂々とした足取りで、外に待ち受ける男たちの前へと向かっていった。


   ◇


 部屋を出た後、来客の名を侍女から聞いた倶尊は、静かに驚いた。

 何故、奴がここに――。

 それよりも外に出た白麗の方が気がかりだ。だが、こうして対面するのは倶尊だ。気を病んでも仕方がない。

「お待たせして申し訳ない」

 軽く頭を下げた後入室した倶尊は、そのまま泰樂の正面へと腰を下ろした。

「して。遠路はるばる最北の地へ将師が来るとは。――よほどの大事があったと見受けられる」

 口元にほほえみを浮かべながら放った言葉。宮廷では表の言葉とは裏腹に腹のさぐり合いが日常茶飯事だ。

 泰樂は、ふと表情をゆるめると口角をあげた。

「何、そう警戒することではございませぬよ。貴殿に新王の王位即位式にきていただきたい。ただそれだけです」

「それを言うために偏狭な地へと赴いたのですか。即位式に州主が出席するのは当然の事柄。将師自ら口添えすることではないでしょうに」

「おっしゃる通りです。しかし、州主の出席は強制ではない」

 泰樂の言葉に、倶尊は目を細めた。

 要は、倶尊の賢老師としての威厳が未だにあるということだ。倶尊が式典に出席するか否かでその後の政治内部も大きく変わると暗に示唆している。

「将師殿、それはあくまでお願い、ということでよろしいか?」

「それは倶尊殿の捉え方次第でしょう」

 性悪狸め――。

 腹の中で毒づく倶尊とは裏腹に、出された茶をすする泰樂は余裕の態度だ。それもそのはず。倶尊は泰樂に弱みを握られている。だからこそ、出身地である北州へ州主として左遷させたれたのだ。

「それでは式典の際、お会いできるのを楽しみにしてます」

「もう発つのですか?」

 立ち上がった泰樂は、倶尊の問いかけに振り向くとにっこり笑って答えた。

「ええ。もともと長居するつもりはございませんから。用も済みましたし、王都へ戻ります」

 引き留める理由もない倶尊は、そのまま泰樂の背を見送った。馬車の遠ざかる音が耳を打つ。

「まったく、嵐のような男だ」

 ふっと息を吐いたそのときだ。

 急に勢いよく開けられた戸に、小さく飛び上がった。さっきの今で襲撃を受けてもおかしくはない。

 しかし、戸にもたれ掛かるようにして立っていたのは、顔を青くした白麗だった。

「安心しなさい」

 目尻に皺を寄せ、倶尊がなだめるような声音で言う。

「泰樂はすでにここを発った。慌てることは何も――」

 しかし、白麗は目を見開くと足を引きずるようにしてその場から立ち去ろうとした。慌てた倶尊は、すぐさま白麗の元へと寄ると手首を掴んだ。細い手首は、目を見張るほど熱かった。

「――何かあったんじゃな?」

 白麗はゆっくりと頷いた。ここまで走ってきたのだろう。息はまだ上がっているが、それ以外に熱もあるようだ。

「何があったのだ?」

 あの男が釘を刺すだけだとは考えにくい。

 まだ白麗が幼いときよくしたように、両手首を掴むとかがんでうつむく両目をのぞき込んだ。

 白麗の目には大粒の涙が浮かんでいた。

「――洸樹が、連れて行かれてしまったの」

 瞬きをした瞬間、雨のような滴が落ちてきた。まつげに乗った涙が、儚い星の瞬きのごとく光る。しかし、嗚咽をこらえようと、強く目を閉じたせいで、朝露を乗せた小枝をはじくように、まつげから落ちていった。

「洸樹が、連れて行かれた?」

 どうやら白麗たちの足取りは、泰樂に筒抜けだったようだ。

 泰樂のことだ。北州に向かうことを知り、わざと泳がせていた可能性もある。

「私をかばって捕まったの。助けに行かなきゃ!」

 倶尊は、両手をしっかり握った。もし、今手を離せば風のような勢いで追いかけるだろう。そうなれば、泰樂の思うつぼだ。

「落ち着きなさい。洸樹なら大丈夫さ。そう簡単に殺されはしない」

 緊張の糸が切れたのだろう。白麗はその場に崩れ、顔を覆って泣いた。

 白麗の動揺は無理もない。

 泣き疲れ眠ってしまった姫を侍女に任せ、倶尊はとある一室の前で足を止めると、その戸を開けた。

「待たせたな」

 黒目黒髪の古者の少年、竣雨。そして、素顔も名も明かさない謎の占師。何があったのか彼らには知らせておくべきだろう。

 倶尊は胡座をかくと、白麗から聞いた事柄と自分の憶測を話した。

 洸樹が捕まった今、どのような選択をとるのか、彼らにも選ぶ権利はある。どういう経緯で二人につきそうようになったのか、倶尊は知らない。しかし、彼らは泰樂の手先ではないと確信が持てた。もし、そうだったら今頃姿を消しているか、取り逃がした白麗を連れて泰樂の元にいるはずだ。

 そもそも、これ以上偵察を続ける利点もない。

 一通り話し終えたとき、占師が腕を組み唸った。

「一つ、疑問をよろしいか?」

「答えられるものであれば」

「本来、來国の王族には専属護衛官がおり、だいたい数十名いると聞きます。絶えてはならない血ですので当然です。しかし、白麗様の護衛人は、宮廷にいたときも一人だけ。――そこが腑に落ちないのです」

 倶尊は髭をなでながら少し考えると、口を開いた。

「長い話になるが、構わないか?」

「ボクもいいの?」

 大抵、大人同士の会話だと言って、竣雨くらいの年の子供は邪険に扱われるのが普通だ。しかし、倶尊は逆に問う。

「お主が聞く必要はないと思えば、別の部屋で休んでいても構わないぞ。もう日も沈み、闇は深くなる一方だからな。さて、出て行くのなら今の内だぞ? よいか?」

 占師はもちろん、竣雨も静かに頷いた。

「まず初めに言っておくことがある」

 倶尊は、ふっと息を吐くと意を決めたように二人に視線を向けた。

「洸樹は、奴隷だったのだ」

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