第7話

 深淵の森から王都まで、最短でも五日かかる。朸浪とは、この時点で少なくとも三日間の差が発生している。

「もう少し先に行くぞ」

 洸樹が後に続く少年に声をかけた。

 日は沈みかけ、藍色に染められつつある空を白麗は見つめた。洸樹の背にしがみつき、頬をすぎる風は、さっきよりずっと冷たい。日が沈む前に火をたかなければならないのだが、少しでも距離を縮めておきたいのが本音だ。

 後ろを振り返れば、少年と少年の乗る生き物に目が行く。一見、普通の馬と変わりない黒馬だ。

 しかし、馬ではない。

 山際に日が隠れ、ほのかに彩る橙色が消えるとき、少年の乗る黒馬の影が燃え始めた。まるで、黒馬本体が火でできた影のようである。

「やっぱり綺麗ね」

 黒馬の近くに寄れば、火の熱さも感じる。

 外壁の外にいる場合、夜は火を炊き獣から身を守らなければならないが、黒馬がいれば関係ない。

 少年は多くを語らないが、おそらく彼の古獣だろうと白麗は思った。白麗たちはその馬を炎馬という愛称をつけた。

 少年も同行すると決まったとき、頭を悩ませたのが移動方法だ。

 洸樹が馬一頭手に入れたのだが、まさか同行人が増えるとは思ってなかっただろう。さすがに三人で乗るわけにも行かない。

 片肘をつき、考える洸樹の目の前に、荷物をまとめた少年が馬と一緒にやってきたときは驚いた。

「友達、みたいなものなんだ。彼もついてきてくれる」

 少年はそう言うと、鞍もつけずにまたがった。

 呆けた顔で少年を見る白麗と洸樹に、少年は首を傾げた。

「何か変?」

 手綱もなしに、馬を乗りこなす。少年はよくこの黒馬に乗り、森の中を駆け回っていたのだという。

 ――この子、本当にただの古者なのかな。

 年のわりに博学で、一人で生きる知恵をきちんと備えている。聞きたいけど、口にしたらこちらも素性も聞かれるかもしれない。そのときは、適当に嘘で繕えばいい――とは思うものの、そうしたくないと心のどこかが叫ぶ。

 日が沈んだ後も、しばらく走り続けた一同は小川のそばで一晩を過ごすことにした。


   ◇


「君の名前は?」

 旅をするに当たり、少なくとも名前くらいは知るべきだろう。

 白麗は麗凛、洸樹は洸と名乗った。しかし、少年は口を結んだまま開こうとしない。

 名乗りたくないのかな――。

 視線を落としたときだ。

「――だ」

 かすかに聞こえた声は、たしかに少年のものだ。しかし、風に遮られてうまく聞こえない。少年は顔を上げるとまっすぐ瞳を向けてきた。

「ボクに、名は――ない」

 きっと、ぽかんと呆けた顔を少年は見ただろう。

「名前がない?」

 洸樹の言葉に少年は頷いた。

「あったんだろうけど、忘れてしまった。適当に呼んでいいから」

 何事もないように言い切る少年だが、そう簡単に済ましていいものでもない。

「ねえ」

 少年は顔を上げ、声をかけてきた白麗へと視線を向けた。

「名前って特別なものなのよ?」

 ――名はその人を表す呪だからね。

「だから、蔑ろにしてはいけないわ」

 紅と白。兄様と少しでも同じものがよくて、名前を変えたいと言ったときのことだ。紅貴はいつものように優しい笑みを浮かべ、白麗の目をまっすぐ見るとそう言ったのだ。

 ――白麗は白麗の名のままがいいよ。白は何色にでもなれるし、そのままでも綺麗だ。

「でも、忘れてしまったんだ。――もう、思い出せない」

 深淵の森で一人暮らしていた少年の名を呼ぶ者は、ずっといなかったのだろう。

「麗凛、ボクに名前をつけて」

 少年のさりげない一言は、白麗を硬直させるには十分だった。


 責任重大じゃない――。

 寝ようにも目がさえて寝られなくなった白麗を見て、大きなため息が吐かれた。

「自業自得です。姫さんは後先考えず、猪のように突っ込んでいくからこうなるんです」

「……反論する余地もないわ」

 うなりながら頭を抱え込む。名は呪。適当に考えることなんてできない。

「まるで親が子に名前をつけるみたいですね」

「そんなこと言っている暇があるなら、貴方も考えてよ」

「嫌ですよ。そもそも姫さんが蒔いた種じゃないですか」

 洸樹の言うとおりだ。

 まったく、相変わらず口の減らない護衛人である。

 とりあえず、良い意味の名を並べてみる。しかし、どれもしっくりこない。

 何か違うのよ。

 うんっと唸りながら夜空を眺める。遠くで梟が鳴いた。

 虫の音を聞きながら目を閉じる。闇を恐れ、火を頼る人間とは違い、虫は堂々と鳴く。四方八方から聞こえるため、守られているような安心感があった。

 ふと虫の声に混じって、せせらぎが耳に飛び込んできた。決して大きくはない小川の奏でる音に聴き入っていれば、ふっと文字が浮かんだ。

 ああっと白麗は空を見上げる。

 欠かせないものなのに、身近すぎると忘れてしまう――そんな人間である自分がひどく情けなく思った。

「決めたわ」

 出発する間際。炎馬にまたがった少年は、首を傾げた。

「君の名前よ」

 そう言えば、一瞬だけ驚く。ふっと息を吐いて白麗はその名を口にした。

 來国では、珍しい雨。雨は川となり生活に潤いを与えるため、天からの恵みであるが、同時に天の涙とも言われている。その涙が止んだとき、流れる雲の隙間から差し込む光が照らす世界――。それは、言葉では言い表せないほど美しい。

 幼い頃、宮廷から見た街の姿が、未だに目から離れない。煌めく世界は、池に映った月よりも美しかった。

竣雨しゅんう――雨の終わり」

 少年の表情は変わらない。沈黙が重くのしかかる。たまらず、白麗は口を開く。

「気に入らないのなら別に――」

 しかし、少年は白麗の言葉を遮るように頭を左右に振った。

「これからはそう呼んで」

 ほっと胸をなで下ろす白麗の視界に、にやけ顔の洸樹が入ってきた。

「……何よ」

「いえ、別に。何でもありませんよ」

 その顔は、何かいいたいことがある顔でしょう。

 しかし、今はどうでもいいと思えるくらい気分がいい。ぐっと延びをして、その身に日を浴びた。


   ◇


「麗鈴もしっかりかぶってください」

 前が見えなくなるくらい思いっきり頭にかぶっていた布を引っ張られ、白麗はよろめいた。

「何するのよ」

 むっとしてにらみ返せば、すっかり顔色の良くなった洸樹がにたりと笑う。

「鬱陶しいとか言って、無意識に取らないでくださいよ。そんな理由で捕まりたくないですから」

 一同は王都前の外門まで来ていた。さすが王都と言うべきか。外壁の外でも人は多い。中には屋台をひらく者もいる。いくら王都のまわりは獣が少ないからと言って、羽目を外しすぎなんじゃないかと思う。

「そういう貴方こそきちんと顔を隠しなさいよ」

 仕返しとばかりに意地悪を言ってみる。

 なにせ、人相書きをされているのは洸樹だけなのだ。私は、別にそこまで顔を隠す必要もない、はず。

「あ、今もしかして「私は人相書きされてないから大丈夫」とか思いませんでしたか?」

 むっと口を曲げれば、洸樹はやはりと一人納得した表情を浮かべ、どこか満足そうに頷いた。

「姫さんは、もう少し……いやかなり視点を広げて物事を考えた方がいいですよ」

 いつものように小馬鹿にした表情で言われると、やっぱり腹が立つ。

 毎度のこととはいえ、慣れるものでもない。

 でも、彼がこうして軽口をたたけるまで回復したのだと思えば、怒りも自然と収ま――るわけがない。

「大きなお世話よ!」

 ああ、きっと兄様がいれば、いつものように仲裁に入ってくれたのだろう。ツンっと鼻の奥が痛んだが、知らないフリをした。

「姫さん」

 竣雨には聞こえないよう、小さな声で洸樹が呼ぶ。差し出された手を見て首を傾げれば、ため息を吐かれた。

「行きますよ」

 そう言っていきなり手を取ると、先を行く竣雨を追いかけ走った。

「ちょっ、待ってってば!」

 人間、いきなり手を取られ、走り出されれば足がもつれるのが道理な訳で。

 洸樹の大馬鹿者!

 両目をきつく閉じ、護衛人を心の内で非難する。だが、転ぶ直前に引っ張られたおかげで盛大に転ぶような事はなかった。

「……お姫様だっこでもしましょうか?」

 洸樹が真剣な面持ちで訊くものだから、とうとう白麗の堪忍袋の緒が切れた。

「いい加減にしなさい、大馬鹿者!」

 しかし、怒鳴られているというのに洸樹は口角を上げるとさらに強く駆けだした。

「ちょ、そんなに早く走れ――」

「走れますよ。大丈夫です」

 洸樹の言うとおり、転ぶこともなく駆け抜けた。でも、これは洸樹が私の手を引っ張ってくれたおかげだ。

 あっという間に竣雨の元まで追いついた二人だったが、白麗の息が整うまで足止めをしたのは言うまでもない。


「いいですか、手筈通りにいきますよ」

 顔を合わせた三人は、互いに頷く。 

「今まで通り、商人と養い子という関係でいきます」

 まさか追われてる身でありながら、何の策もなしに王都まで行く真似はしない。白麗は男装、洸樹は商人の格好をしている。

 一応、竣雨と私が兄弟、洸樹が育て親の商人という口合わせで旅をし始めたけど、どういうわけかよく声をかけられる。

 疑われているわけではないのは、その口調や態度でわかる。しかし、どうして皆が皆、優しい言葉をかけてくるのか。とても不思議だ。洸樹や竣雨には綺麗な女の人が集まるのだが、私は逆に男の人に声をかけられることが多い。女とバレているのかな、と二人に話したら、二人そろって首を左右に振った。その仕草が親子みたいでちょっと笑ったのは内緒だ。

「麗鈴は、男にしては綺麗すぎるんだよ」

 竣雨が首を傾げながら言う。

「綺麗かどうかは置いといて、髭でも生やせばいいんじゃないですか?」

「無理言わないの!」

 元々女なのだ。髭なんか生える訳がない。

「それが嫌でしたら、もっと顔を隠すしかないですね」

「これ以上布の面積は増やしたくないなあ」

 髪を隠す為に巻いた布は、想像以上に蒸し暑い。何度布を取りたい衝動に刈られたことやら。

 そんなことを考えていれば、風が頬をなでた。髪をおろしていれば、布のように揺らいだことだろう。

 外門を通る為、まずはこの周辺を調べることにした。

 ここは、犂州と比べ、外壁だというのに人々の表情は明るい。人も多くとても都の外だとは思えなかった。

 人々に活気があるのは、害獣に襲われる危険が少ないことの他に、外壁に沿って並ぶ店の影響も大きいだろう。また、店が出ているということは、それなりに物を買う者がいるということだ。もしかしたら、麒京の者が来ているのかもしれない。

「……竣雨は、いい子ね」

 人の多さが珍しいのか、滅多に感情を表に出さない竣雨が、きょろきょろと視線を泳がせ前へと行く。そんな竣雨に聞こえないよう、できるだけ小さな声で白麗が言った。

「竣雨のこと。――私たちと一緒にいれば確実に危険な目に遭うわ」

「まあ、そうでしょうね」

 つまらなさそうに遠くを見つめる洸樹だが、その視線の先に竣雨がいることは言われなくてもわかった。何だかんだ言って、洸樹も竣雨を気に入っている。そうじゃなければ、ここまで面倒もみないはずだ。

「じゃあ、何です? ここでさよならします?」

「違うわよ」

 突拍子もないことを言い出すのはいつものことだけど、あまり乗り気じゃないのが声音からもわかる。

「私、あの子を危険に巻き込むのは嫌なの」

 別に竣雨だけじゃない。無関係の人たちを巻き込んでまで自分たちの安全を確保しようとは思わない。

 ただ、これはわがままでしかないことはわかっている。どうあがいても、人を巻き込んでしまうことはある。それでも――。

「わかりました。もしものときは、アイツの安全を確保しますよ」

 その一言でほっとしたのは言うまでもない。

 私の守人は、口にしたことは必ず守ってくれる。

「危険だと思ったら、あの子とは無関係のフリをしてね」

 胸が痛むけど、これもあの子の為――。でも、いざそのときになったら、私は泣いてしまうだろう。今も想像しただけで目の前がかすむ。

「姫さんに言われなくてもそうしますよ。――それより」

 むにっと両頬をいきなり抓られた。

「なにふるのよ」

 睨んでも洸樹は口元に笑みをたたえるだけで、離してくれない。手首を持って引き剥がそうとしても、びくともしない。この力の差は不公平だと思う。まあ、洸樹の場合、その腕の強さも努力のたまものだとわかっているけど。

「はなひなはい」

 睨みながら命じれば、洸樹はあっさり手を離した。

「まったく、いったい何なのよ」

 かすかに熱を帯びる頬をさすりながら、目の前にいる護衛人を睨む。しかし、当の本人に反省の色はまったくない。

「いえ。空気が重かったのでどうにかしないと、と思い――」

「その答えが私の頬を摘むってことにはならないわよ」

「いえいえ。姫さんには無理にでも笑っていただければ、と」

「強制的に笑わせられるのなんてごめんだわ。まったく、貴方って人は」

 肩を落とし首を振る。侍女がときどき「姫様は時折ひどくお疲れになっておりますね」という言葉を思い出す。それもこれも、すべて護衛人のせいだとは誰も思わなかっただろう。


   ◇


「麗凛、ちょっと待ってもらえますか?」

 そう言いながら、返事も待たず洸樹は一軒の店へと向かった。戻ったらさんざん小言を言われるだろうが、まあいい。店先に並んだ品を眺め、粗末な小屋の中へ足を踏み入れる。

 暖簾を持ち上げ顔を入れれば、薬特有の臭いが鼻をついた。

「いらっしゃい」

 しわがれた声がかろうじて耳に届く。はっと目を凝らせば、腰の曲がった老婆が置物のように座っていた。薬が入っている木箱や硝子瓶で埋もれていたため、声をかけられなければ気がつかなかっただろう。

「解熱と吐き気を押さえるもの、あと疲労回復に効果があるものが欲しいんだが」

「まいど。――お客さん、随分遠いところから来たみたいだねえ」

「ええ、まあ」

 遠くがどこからのことかはわからない。だが、慣れ親しんだはずの王都がずっと遠くに感じるのは事実だ。

「最近じゃあ痛み止めの薬なんか、飛ぶように売れちまってもう残ってないもんでね。ああ、あと馬に使う薬品も売れ行きがいいよ。お客さん、いいときに来たね」

 そんなことを言いながら、老婆は小さい体をゆっくり動かし、薬を取り出す。亀のようだなとその様子を眺めていれば、老婆がケケケと笑いながら薬を手渡してくれた。

「奥さんのかい?」

「違います。……まあ、連れ用ですよ」

 間髪を入れずに否定する。仮にも従者だ。伴侶などと間違われては、紅貴に睨まれる。彼奴のことだ。化けてでも出てくるだろう。

 薬を受け取り、代金を払えば老婆は再びケケケと笑った。鶏のようだと思った。

「そうかい? じゃあ、お客さんの想い人ってところだねえ」

「違います」

 まったく、この老婆は一体どう考えればそういうふうになるのか。あきれてため息を吐けば、わかるさ、しわがれた声が返ってきた。

「お客さん、自分の気持ちに嘘はつかないほうがいい。辛いだけでいいことなんてひとつもない」

「ご助言、ありがとうございます」

 顔は見せられないが、努めて明るい声色で答えた。

 薬屋を後にした洸樹は、その足で白麗と竣雨のいる場所へと向かう。ここからでも、白麗がへそを曲げているのは痛いほどわかった。

 くすりと笑うと、老婆の言葉が頭をよぎる。

「――自分の気持ちに嘘はつくな、か」

 以前、紅貴にも同じようなことを言われた。あのときは、笑ってごまかしたが――。洸樹は、そっと口元の布を引き上げた。

「嘘をつかなくて済むのなら――始めからそうしている」

 喉まででかかったため息をぐっと飲み込んだ。

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