第5話

 苔蒸した岩、巨人のような巨木、日の光を遮る木の葉――。

 目にするものすべてが神々しい――。改めてここが深淵の森だと思い知らされる。王都に森はない。しかし、ここが普通の森とは違うことは、宮廷からあまり外に出られなかった白麗でもわかる。

「足下、気をつけてね」

 少年の背後を追いかけるように歩く。見たこともない植物や生き物に目を奪われ、幾度となく転びそうになる。その度少年は立ち止まり、白麗を待ってくれた。

「物珍しいのはわかるけど、あんまり離れないでね」

 少年は慣れた足取りで進む。平坦な道は少なく、苔に覆われた岩道が続く。

「――本当に、ここは深淵の森なのね」

 岩にとまった青い鳥が首を傾げる。体より長い尾は、木漏れ日に当たると七色に光った。

「まあね。ここは最深部だから。入り口付近は普通の森みたいだけど、それでも巨大な獣が住み着く。火も恐れないし人語も理解できるものもいる。――それらは古獣と呼ばれ畏れられる」

「人に懐かない、野生の古獣、ね」

 白麗の脳裏によぎったのは、玖芽が従えていた巨大な蜘蛛だ。今思い出しても寒気がする。生きていることが、不思議でならない。

「古獣は人を襲うものがほとんどだけど、そうじゃないものもいる。この森を行き来するために、その力を借りる人間もいる。古獣は幻影の白霧の影響を受けないから」

 今の話を軍事強化派が聞いたら卒倒しそうな内容である。

 兄が即位した途端、現将軍である泰樂は、古者や古獣を取り入れた隊を作ろうといろいろ策を練ってた。――紅王が否定的な意見を述べても、だ。

 ――來国の歴史上、黄国に攻め込まれた記録はありませんが、それは記録にしかすぎません。すでに万全の準備をしておくが国の勤めでございます。

 堂々と玉間で発言するその声は、兄のそばに控えていた白麗の耳に今でも残っている。

 もし仮に、黄国が攻めてきた場合、古獣を使いこなせる彼らを前に、いくら地理の利があっても分が悪いのは明らかだった。

「……今から新たな古者が生まれる事ってあるのかしら」

「それは難しいだろうね」

 少年は首を振った。

「古獣にとってここは古来から変わらない唯一の場所だから。それを荒らされることを嫌がる。だから、人を襲う古獣も多いんだよ」

 巨大な岩を登り切った少年が、白麗に向かって手を伸ばす。白麗はその手をしっかり掴んだ。

「じゃあ、貴方はどうしてここに住んでいられるの?」

 人を寄せない深淵の森。少年は少し考えるそぶりをしたあと、答えた。

「さあ? ――僕も古獣みたいなものだからなのかな?」


 森を抜けた瞬間、あまりの眩しさに目を細めた。

 髪をなでるように吹く風は、白麗のよく知るものだ。

 なんだか、変な気分。

 夢を見ていたようにぼんやり立ち尽くす白麗を余所に、少年は大きな籠を背負って立つ少女の元まで駆け寄った。

 待ち合わせをしていた相手は、あの子だったのかな?

 何かを話す二人に近づいた。

「――これを三日間、日の出と日の入りときに欠かさず飲ませて。いいかい、決して一気に飲ませたり、ボクの言った時間以外に飲ませちゃダメだ。そうすると、薬の効果がなくなる」

 少年よりも少しだけ幼い少女は、こくりと大きくうなずくと走って行ってしまった。少年は特に気にする様子もなく、少女が置いていった籠を背負うと、戻るよと白麗に声をかけた。

 しかし、白麗の目線は、小さくなる少女へと向いていた。

「ねえ、あの子片耳が――」

 一つにまとめられた髪だが、右側だけ耳を隠すように流れている。顔にも深く抉られたような傷が数本あった。

「熊に襲われたんだ」

 少年は言う。

「あの子の親も州を追い出されたんだ。そのあとすぐに熊に襲われて父親が死んだ。あの傷はそのときのものだよ」

「――そんな。まだ子供なのに」

「まだ痛むようだけど、もう傷自体は完治している。おそらく、心理的なものなんだと思う」

「じゃあ、今渡した薬はその痛み止め?」

 白麗の言葉に少年は首を振った。

「あれはあの子の母親のもの。――流行病にかかってしまったらしい」

 父親を失い、今度は母親も失おうとしている少女が、どうしても自分と重なる。

「――助かる、の?」

 かすれる声で聞けば、少年は大きくうなずいた。

「簡単に手に入る薬だよ。ただ、ここは州じゃないから。医者はいない」

「それじゃあ、その流行病は州に戻れば治るの?」

「まあね。でも薬は高い。もし戻れても買うお金がないよ」

「流行病なら無償で対応する――王法で定められているわ。だから――」

「無理だよ」

 少年は間髪入れず言い切った。

「ここは來国のもっとも最西にある犂州(りしゅう)。もっとも過酷な場所」

「――何が、言いたいの?」

 少年は目を伏せると静かな声で言う。

「徴税が多く、外壁の外は死体が転がる――血色の犂州」

 王都を含め、九ある州のうち、国境付近に位置するのは四州。その四州のうち、もっとも軍事力が高く州として栄えているのが犂州だ。

 四州のうち他国と接しているのは、犂州だけというのも理由の一つだろう。いわば、來国の砦でもあるのだ。そのせいか、国軍将、仁泰樂(じんたいらく)はこの州を気にかけ、紅王によく直談判していた。白麗も目にしていたから知っている。

 たしか、犂州の州主は五十前の短髪の男だ。切れ長の目が特徴的で、見られるとまさに射られる思いがしたものだ。

 名はたしか、張朸浪(ちょうろくろう)。張一族の次男だ。家督を次ぐはずだった長男は、雉狩りをしていたとき、野生の獣に襲われ死んだと聞いている。

「私、州主を知っているわ! 彼に直接訴えれば!」

「だから、無理なんだって」

 少年の漆黒の瞳が白麗を映す。

「法外な徴税をし、払えない者は塵のように危険な州外へ追い出す。そう指示を出しているのは、州主なんだ」

 白麗は言葉が出なかった。


 再び深淵の森を歩き、半壊した小屋に戻るまで、白麗は何も言わなかった。

 少年が食事の準備をしている間もずっと顔を埋め座っている。

「ごはんにしよう」

 少女から受け取った籠の中には、森の中では手に入らない食材や食品などが入っていた。それらを使い作られた食事は、匂いはもちろん見た目も食欲をそそる。

 白麗はゆっくり立ち上がると、眠っている洸樹の隣に座る少年の元まで寄った。


「結局、私には何もできないわ」

 食後に渡された林檎を膝の上に置いた白麗は、張りつめた声で言う。

 王でなく、その妹――。政治的関与はなかったから、国の情勢には疎いし、生きる上での知識も知恵もない。

 所詮、ただの象徴。力があると勝手にうぬぼれていたのは、私自身。

 奥歯を噛みしめたときだ。

 握りしめた手に気持ち良い温もりを感じた。見ると、少年が白麗の手をそっと包み込んでいる。視線を上げれば、目があった。

「何もできないと言い切ってしまうことは簡単。でも、何かをしたいと思った人は、人生をかけてやっている」

 少年の言葉にはっとしたのは、紅貴の言葉とかぶったせいかもしれない。

「今は何もできなくても、信じて続けているうちに、できるようになっているかもよ?」

 相変わらず、少年は表情に乏しく言葉も淡々としたものだったが、白麗には確かに少年の優しさを感じ取れた。

「……貴方の言うとおりね」

 少年の頭を撫でながら、白麗は微笑んだ。

「ありがとう」


 翌日。未だ眠ったままの洸樹の世話をしながら、白麗は少年の手伝いをして一日を過ごした。時折、空を見上げ物思いにふけっていたり、火の番をしながら、どこか遠くを見ていた白麗は、その日の晩、胸に秘めた決意を口に出した。

「私、犂州に行ってみようと思うの」


   ◇


 猛反対する少年を説得した白麗は、三日後、少年と共に犂州の外壁まで来ていた。国中の商いは自由だ。犂州は、軍事を強化しているため、人の出入りが激しく、物流も盛んだ。そのせいか、他州から人が押し寄せるため、犂州は宿町としても栄えていた。

 州民との区別は簡単だ。

 犂州の紋様が彫られた銀札、犂札りふだを持っているかいないか、それが犂州民の証となる。犂札を持っていれば、立ち入り禁止となっている場所にいくことができるのだ。

 これは、どこの州でも行われている制度だ。宮廷でも同じ様な制度がある。

 外壁から犂州に入るには、まず門番の許可を得なければならない。

 ここは、手配書に書かれた人相でなければ、難なく通れる――はずだった。

「お嬢ちゃん、この州には買い物できたのかい? 初めての州でどこになにがあるのかわからないだろう。大丈夫、大丈夫。案内してあげるから待ってなさい」

 職務放棄よ、これは。

「大丈夫ですので」

 ここで來白麗だとバレるわけにはいかないのだ。逃げるようにその場を後にするが、その後も何人か男性に声をかけられた。

 私は木天蓼で彼らは猫なのではないかと真剣に考えた頃、一人でいることが急に心細くなってきた。

 本当なら、州の中まで少年についてきてもらいたかったのだが、そこまで頼むことができなかった。そもそも、少年は州に近づくことさえ嫌がったのだ。それを無理矢理お願いして、さらについてきてもらうよう頼むほど、白麗は図々しくなれない。

 人から逃れるように路地裏に入った白麗は、息を整えながら思う。

 ――それに、これは私が勝手にしていることだもの。

 最西端にある活気ある州、犂州。しかし、真反対の姿を語られた今、白麗にできるのは、その実体をこの目で見極めることだと考えた。

 しかし、見極めるには表向きの場所のみではダメだ。やはり、犂札が必要になる。犂札は、州民の手続きさえしてしまえば、簡単に手に入るが、置かれている立場を考えるとそれはできない。あとは、札を盗むしかないがさすがに悪事に手を染める度胸はない。

「――どうしよう」

「悩んでますね、お嬢ちゃん」

 返ってきた言葉に、心臓が止まるかと思った。

「ほほう――見た目は可憐な少女。けど揺るぎない信念をお持ちのようだ」

 一人だけだと思った路地裏には、先客がいたようだ。

 顔を隠すように白い布をかぶった男は、あぐらをかき地面に巻かれた石を転がし始めた。コンっと軽い音が響く。

 布から見える両手の爪は、黒く染められていた。

 男が石を転がし、口の中で何かつぶやくのをじっと見ていれば、男が唸る。

「まず、今君が抱えている問題だけど」

 男は顔も上げずに言う。

「解決できるよ。ちなみに、君はもう持ってる」

 犂札のことかしら、と思い所持品を確認するが、もちろんあるわけがない。

「あともう一つ。僕からの忠告」

 白麗はさっさとその場から去ろうと、男に背を向けた。

 男は構わず言う。

「逃げちゃダメだよ」

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