第4話

 正直、こんなことになるとは思ってもみなかった。

 手配書が出された今、一刻も早く隣国、黄国へ行くことを決めた洸樹と白麗は、数日馬を走らせ続けた。

 王都を離れれば離れるほど、木々が増え、人の姿が少なくなる。

 野宿をする日もあったが、白麗は虫が出ただの、風呂に入りたいだのと駄々をこねなくなった。体調を心配されたが、むしろ白麗の方が健康だ。

 手配書が届いていないであろう州外の集落に立ち寄ることもあったが、小さな集落であればあるほど、余所者を排除しようとする傾向が強く、相手にしてもらえないことも増えた。

 黄国へ行く為に越えなければならない深淵の森は、人を寄せ付けない魔の森だ。人を食らう獣はもちろん、古獣も少なくない。

「姫さん」

 小さな炎が、疲れ切った白麗の顔を照らす。

 髪は土と埃まみれで、鳥の巣のようだし、絹糸のように白く皺のない肌は、焼けてしまった。手入れされていた爪もボロボロで、着ているものも商人の娘よりみすぼらしい。

 そして何より、笑顔が減った。

 何度か宮廷に戻るべきだと話をしたが、白麗は頭を左右に振るばかりで、頑なに拒み続けた。

 洸樹が宮廷に戻れば、王殺しの罪に加え、脱獄したことで極刑は免れない。

 しかし、白麗は違う。

 今、この來国に來の血を引くのは、白麗だけなのだ。いくら大罪人を脱獄させたからといって、殺されることはない。

 こんな生活の末、アンタがこわれてしまったら――。

 洸樹は常に思う。そうなってしまったら、彼らに向ける顔がない。護衛人として失格だと。

 小さな火に薪をくべる白麗を横目に、洸樹は立ち上がった。

 体が鉛のように重い。

「俺が見張りをやってるんで、姫さんは寝てください」

 白麗の目の下にある嵎は、日に日に濃くなっている。寝不足は体力を奪う。これから先、さらに険しい道が続く。体力がなければ黄国につくどころか、深淵の森を抜けることさえできない。

「洸樹、貴方ここのところずっと見張りをしているわ。今日は私がやるから、貴方は寝てちょうだい」

「いえいえ、心配には及びませんよ。俺は護衛人です。姫さんと違って休めるときにしっかり休んでますから」

 そう言って、手のひらをひらひら返せば、半分閉じかかっていた白麗の瞼が完全に閉じた。

「……自分が一番眠いくせに、強がっちゃって」

 ふっと息を吐くと、洸樹は空を見上げた。

 星の輝きが、一段と眩しく見えた。


 朝。鳥がさえずり、朝日がこぼれ落ちる森の中。

 草木をかき分け、道なき道を一心不乱に駆け抜ける洸樹と白麗がいた。

「こっちだ、壱と伍隊は回れ。弐と参隊はこのまま直進しろ」

 背後から迫る、国軍の声に生きた心地がしない。

 深淵の森へ続く入り口に入った翌日のことだ。

 まだ、このあたりまでやってくるのに時間はあると踏んでいた洸樹は、眉間に深い皺を刻み走る。

 そのときだ。

 あっという小さな声がして振り向けば、白麗が地に手をついていた。肩は大きく上下し、荒い呼吸が耳を打つ。洸樹は、白麗のもとまで戻ると、さっと抱え持ち上げた。

「ちょっ、洸樹――」

「つべこべ言っている場合じゃないでしょ。まあ、捕まりたいのなら別ですが」

 兵はすぐそこまで来ている。囲まれたら終わりだ。

 洸樹は、必死で向こうの動きを予測しながら、走る。

 しかし、思った以上に早く息が上がり、体は重くなった。

「姫さん、太りました?」

「な、貴方ね! 時と場合を考えて発言しなさい!」

 次から配慮しますと答えながら足を動かす。白麗をからかっている間は、少しだけ気が紛れる。でも、もう限界だ。

 蝋燭の火が吹き消されるように、ふっと意識を失った。


   ◇


「洸樹、しっかりして!」

 突然倒れた護衛人を強く揺らす。しかし、目を開けることはなかった。息はしているが、呼吸は荒く、体はやけどするのではないかと思うほど熱い。

「洸樹!」

 何度も名を呼ぶが、微動だにしなかった。

「こっちだ!」

 取り乱し何度も叫んだせいで、兵に居場所が知られたようだ。

 白麗では、洸樹を抱え逃げることなど不可能だ。 

 どうする――。

 懐から首飾りを取り出すと、強く握り、今は亡き兄、そして來国の守護獣である麒麟に願う。

 こんな形で洸樹と離れてしまうのは、嫌だ、と。

 しかし、願っても助けはこない。

「いたぞ!」

 岩肌だらけの崖の上で、洸樹と白麗は見つかってしまった。

「来ないで!」

 短刀を取り出し、刃を向ける。しかし、兵たちが怯むことはなかった。

「……ねえ、洸樹」

 震える声でそっと尋ねる。

「――私たち、ここまでなの?」

 涙が一粒、落ちたときだ。

「――そんなこと、ありませんよ」

 耳たぶを打つ声に白麗は目を見開いた。

「洸樹!」

 さっきまで人形のように意識を失っていたとは思えないほど、俊敏な動きで起き上がると、あっという間に腰に差した刀で数人を倒した。しかし、兵はまだいる。

「……姫さん」

 大きく肩で息をする洸樹が背中越しに言う。

「――すみません」

 そう言って大きく体が傾く。その先は、谷底だ。

 手を伸ばした白麗が、次の瞬間見えたのは、小さくなる青空だった。


 水の流れる音が耳元で聞こえる。

 宮廷の庭に流れる小川が目の前に現れた。朱色の橋がある庭は、父、白貴の趣味で造られた造園だ。国中の木々を集め、庭を小さな來国に見立てたというのだから、そのこだわりも一際だ。

 しかし、そんな立派な庭も白麗と紅貴には遊び場だった。

 よく小さな魚を見てたっけ。

 幼い自分の姿が見えそうだと思ったときだ。

 雨も降っていないのに、小川の水かさがいきなり増した。あっと気づいたときには、腰まで水に浸かっていた。

 いや、助けて――。

 周囲を見回すが、つかめるものは何もない。

 助けを求めるように、天に手を伸ばすが掴む者もいない。

 そうしている間にも水は増え、足も付かなくなった。

 助けて――。

 白麗は願う。

 まだ、死にたくない。――いや、死ねない、と。

 そのときだ。

「まったく、世話の焼ける妹だよ」

 のばしていた手が強く引っ張られる。水から逃れることができた白麗は、呼吸を繰り返しながらもほっと胸をなで下ろしていた。

「私がいなかったら死んでいたところだぞ?」

 そう言ってしゃがみ、白麗の顔をのぞき見たのは洸樹ではない。

「……に、兄様」

 にっこり微笑む兄が目の前にいた。

「どうして兄様が!?」

「ここは夢だからねえ」

「夢?」

 こんな夢があっていいものだろうか。

 白麗は立ち上がると、兄をまっすぐ見上げた。

 にこにこと笑みをたたえ、栗色の長髪を結わえまとめ上げている。――たしかに兄、紅貴である。

「白麗、よーく聞いておくれ」

 まっすぐに向けられる瞳は真剣そのものだった。

「私はお前を×××」

 しかし、次第に大きくなる水の音が紅貴の言葉をかき消してしまった。

「兄様、聞こえないわ。もう一度――」

 だが、白麗が言い終わる前に夢は覚めた。


 あれ、私は一体――。

 起き上がった白麗は、ぼんやりする頭で自分自身がずぶ濡れだと気がついた。

 おそらく、原因は目の前を流れる川だろう。ここは谷底らしく、日は当たらない。

 空を見上げていた白麗は、藍色に染まる空を見て思う。

 私たち、あそこから落ちた。――なのにどうして何ともないのかしら。

 瞬間、白麗は眉をしかめた。

 私たち?

「洸樹!?」

 見渡せば、すぐそばにいた。しかし、気を失ったままだ。それに、さっきまで熱かった体温が、今は氷のように冷たい。

 このままじゃダメだわ。

 白麗は、例の首飾りを取り出すと洸樹に持たせた。これで少しは暖まることができるはず。

 しかし、いくら待っても珠は熱を持たなかった。

「どうしてよ!」

 白麗は、叫ぶ。地に爪を立てると、爪が割れ血がにじんだ。

 痛みはない。

 このままでは、洸樹は体温を奪われ死に至るだろう。

「……どうすればいいのよ」

 力なくつぶやいたときだ。

 茂みが揺れた。

 脳裏をよぎるのは、国兵の姿。

 ――もうここまで追ってきたというの。

 白麗はぐっと奥歯をかみしめた。

 もし、そうだとしたら――そのときは。

 ゆっくりと懐から短刀を取り出した。威嚇程度には使えるはずだ。

 音のする方から、白麗は目を離さない。

 そのとき、こちらに向かってきていたものが姿を現した。

 漆のように真っ黒な髪――。

「え、子供?」

 思わず口にしてしまう。

 しかし、警戒は解かない。

 国兵の中には、見習いとして子供もいる。武装もしていないようだが、陽動役という可能性もある。ましてや古者だ。気を抜くにはまだ早いだろう。

 少年は、表情ひとつ変えることなく、こちらに近づいてきた。

「こないで!」

 まだ十にもならない少年だ。いくらなんでも、他人から刃物を向けられれば怯むと思っていた白麗は、己の認識の甘さを呪った。

「止まりなさい!」

 少年は、立ち止まることなく近づいてきた。

「止まりなさい! 刺すわよ!」

 柄を持つ手が震える。鞘は抜きたくない。もう片方の手で震える手を押さえつけるが、震えは収まるどころか大きくなった。

「怪我、してるね」

 はっと顔を上げれば、いつの間にか少年が目の前に立っている。

 遠くからだとわからなかったが、この少年、みたこともない黒い瞳をしていた。

「ボクは敵じゃないよ。お願いだから、君たちの手当をさせて」

 見上げる少年の瞳から目が離せない。

 まるで黒珠のような綺麗な瞳――。

「おねえさん?」

「え、あ、はい」

「ボクの家こっちだから、おにいさんを一緒に運んで」

 さっきまでの恐怖心が嘘のように消え、不思議と安心感がわく。

 洸樹が起きていたら、少年を警戒し続けるだろう。しかし、今洸樹は気を失っている。

 白麗は、少年と共に洸樹を運んだ。


   ◇


「ここ、本当に家?」

 目の前の光景が信じられない。

 小屋と呼ぶにはあまりにも粗末だ。扉は外れ、屋根は半壊し、見上げれば谷底の空が見える。台所にある竈は、半壊していて火は使えない。そもそも、鍋底がないものもある。やっと見つけた器の底には、蜘蛛の巣が張っていた。

 台所だけではない。

 小屋の中は、草と埃まみれだった。

「――本当に住んでいるの?」

 これではまるで廃屋だ。少年に確認をとれば、まあねと表情を変えず返事がきた。

「単に寝るだけの場所だから」

 ――寝るだけの、場所?

 こんな雨も風も防げないところで?

 ふと、少年の言葉に疑問を持った白麗は思い切って尋ねた。

「ねえ、お父さんやお母さんは?」

「いないよ」

 洸樹の寝床を造る少年は、白麗が言葉を失ったのに気づいたのか、おもむろに振り返ると、まっすぐ見つめてきた。

 少年の瞳は、何でも見据えているように静かで美しい。

「別に珍しいことじゃないよ」

 少年の言葉に、白麗は何も言えなかった。

「ここ数年――紅王が即位されてから貧困の差は大きくなったし、税が払えない者は州を追い出された。――州の中では、人口が半分まで減ったところもある。親のいない子供や州の外で暮らす人も多い。――だから、虎や狼に襲われる人も少なくない」

 背筋が凍る。少年が淡々と語るのもあるだろう。

 知らなかったことではない。宮廷の中で過ごす白麗でも、官たちが至る所でささやきあうので、嫌でも耳に入ってくる。でも、兄様が何とかしてくれると信じていた。

 ――けど、その兄様は。

「大きな声で言わないけど、みんな思っている。前王、貴王の時代はよかったって」

「そんなこと! ――紅王だって懸命にやってたわ。ただ、結果がついてこなかっただけ」

「王はそれでいいかもしれないけど、民は生活がかかっている。結果で片づけられるほど、簡単なものじゃない。――人は家畜じゃないんだ」

 少年の言葉に、呼吸をすることさえ忘れそうになった。

 人は家畜じゃない――。

 ふっと蘇る声に、思わず涙がたまる。

「おねえさん、ここにお兄さんを寝かられる?」

「……ええ」

 手の甲で涙をふき取ると、洸樹を引きずる。少年も手伝ってくれ、ようやくほっと一息つけた。ここに来るまでに、これ以上体温を失わないよう、乾いた衣服を身につけさせたのだが、それが幸をなしたらしい。相変わらず、目は覚まさないが呼吸は先ほどより落ち着いているようだ。

「寝不足と栄養失調、あと傷が膿んでる。しかも一つだけじゃない」

 状態を確認した少年は、眉間に皺を寄せていた。

「おねえさんは異変に気づかなかったの?」

 さりげない一言が、胸に刺さる。ここに来るまでの間、洸樹はいつも見張り役をかって出たし、食事も自分は済ませてきたからと白麗に譲ることが多かった。

「体がこれじゃ、立つことも相当辛かっただろうに」

 少年は、水に浸した布を絞ると洸樹の体を丁寧に拭く。拭き終わると、近くにあった小さな壷を手元に寄せ、中から取り出した液体を塗る。

 つんっと鼻にくる臭いからして薬草を擦りつぶし、塗り薬にした物のようだ。

「あとは休息が薬だ」

 そう言って少年は火に薪をくべる。白麗はただ立って見守ることしかできなかった。

「もう日も暮れる。申し訳ないんだけど、食べる物がないんだ。空腹かもしれないけど、我慢して」

「ええ、構わないわ」

 むしろ、今は空腹を感じていなかった。

「水はあるから。好きなときに飲んで」

 そう言って少年は横になった。

 バチバチと木の燃える音が響く。

 白麗は炎の近くに寄ると、顔を埋め、暖かな温もりを感じながら楽しかったあの頃を夢見た。

 ふっと目が覚めたとき、火は消え、星の輝きが半壊した小屋に降り注いでいた。

「……綺麗」

 思わず手を伸ばす。宮廷でも星は見えたが、ここまで多くの数は初めて見た。

 漆黒の夜空に輝く、無数のちっぽけな光。手に入れたくても入らないその美しさは、儚いからこそ――愛おしい。

 ――あれはどんなお金持ちでも偉い人でも手に入れられないんだよ。

 池に映る満月が欲しいと言ったのは、まだ記憶もおぼろげな幼い頃。

 駄々をこねる白麗に、紅貴は微笑みを浮かべると、まっすぐ目を見て言った。

 ――世の中には、簡単に手に入れられないものがたくさんある。白麗がどうしても月が欲しいって言うんなら、白麗の人生をかけて追いかけてごらん。そうしたら、手に入るかも知れない。

 人生をかける、その言葉の意味がわからず問いかけると、父様や母様、僕や洸樹とさよならしても、月を追いかけることかなと言われ、それならいらないと言い切った覚えがある。

 あの頃は、父様や母様はもちろん、兄様、洸樹と離れることなど考えられなかった。

 しかし、あっけなく父も母も白麗の元から去り、そして今度は兄様も――。

「ねえ、兄様」

 白麗は半壊した天井から見える夜空に向かって言う。

「人生をかけても手に入れられないものがあるの。――そういうときは、どうすればいいの?」

 返事の代わりに、虫の音と水流音が白麗の耳に届いた。


「おねえさん、ちょっとついてきて」

 翌朝。日も昇りきった頃、少年が透き通る声で言う。

 昨日の今日だ。まだこのあたりを兵が探し回っている可能性は高い。ここに洸樹を一人っきりにするのに抵抗があった。

 渋る白麗を見て、少年は肩を落とした。

「大丈夫。ここ、人に見つからない場所だから」

「どうして?」

「ここは深淵の森。迷いの森で死の森。……幻影の白霧って知っている?」

 首を振れば、少年は川のほうを指さした。

「黄国との国境はあの川。向こう側はもう隣国だけど、あの渓谷を流れる水が作る霧は、幻を見せる。それが幻影の白霧。だから、來国と黄国は交流がない。――霧の見せる幻のせいで行き来できないんだ」

 知らなかった。

 確かに。険しい道のりや獣がいるというだけで、ここまで互いに干渉しないというのも変な話だ。

 元は一つの国だった來国と黄国の王族が、二国に分かれた後交流をしたという記録は残っていない。それも、この白霧が関係しているのだろうか。

「早く行かないと。相手を待たせてしまう」

 少年が急かす。白麗はあの日洸樹に渡した、黒曜石の守石に祈りを込め小さくつぶやいた。

「ちょっと行ってくるね」

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