第3話
白麗が目を覚ましたとき、蝋燭の淡い光りが目に飛び込んできた。すでに日は暮れているようだ。それと同時に、何かを削るような音が響きわたる。起きあがろうとするが、両手両足を縛られているのか、体の自由が利かない。おまけに口には布を詰められ、声を出すことも叶わない。
「あら、もう目が覚めたの?」
背後から玖芽の声が聞こえた。どうにかして逃げ出せないかと身をよじるが、走るどころか立ち上がることさえできない。
そんな白麗を見てか、小さな笑い声が響く。
「ふふふ、とても愛らしいわ。芋虫みたいで」
白麗は、かろうじて視界に捉えた玖芽をきつく睨んだ。
「ああ、そんなに焦らないで。あとでちゃんと綺麗にしてあげるわ。だから、もう少し待っていてちょうだい」
玖芽が再び視界から消えると、また音が響きわたる。
この音、どこかで聞いたことのあるような――。
瞬間、音の正体に気づいた白麗は、さっと顔から血の気が落ちた。身をよじって拘束が解けないか試みる。しかし、隙間なく縛られているせいでよじればよじるほど、自分の手足首が焼けるように痛むだけだった。
それでも白麗は続ける。
「もう、そんなに焦らないでよ」
楽しそうに笑う玖芽の声が耳に届く。
玖芽が研いでいる物――おそらく包丁だ。
しかも、ただの包丁じゃない。
「ちょうど数日前に綺麗な髪が手に入ったの。そのあと手入れする暇がなくて放って置いたから、今、丁寧に研いでいるのよ。さすがにボロボロの刃だと苦労するし」
何が苦労するのか、考えるだけで気が狂いそうだ。
しかし、その間にも刃は研ぎ続けている。
「貴方たちと会った日、ちょうど髪を売ろうと思ってね。商人を探しに来てたの。でも、会ったのは、商人じゃなかった。でも、運命を感じたわ! 私の知る限り一番美しい髪と出会ってしまったんですもの! 天が私を導いてくれたと思ったわ。――だからかしら。気づけば、護身用に持ち歩いていた弓矢で矢を放っていた。――結局、男に邪魔されて失敗に終わったけど、貴方が休みたいって言い出したとき、内心歓喜の声をあげたのよ! やっぱり天は私の味方。美しい髪と共にあるべきだと神獣様もおっしゃっているんだわ」
それは絶対にあり得ないわ。
もし口の中に布が入っていなければ、迷うことなく断言するだろう。
神獣、麒麟は慈悲深い生き物。仁と徳を重んじ、殺生を嫌う。そんな神獣が、人殺しをしてまで髪を集める女に加護を与えるはずがない。
「さあ、準備ができたわ」
にっこり微笑む玖芽が視界に映る。その手には、肉切り包丁が握られていた。
「まずは四肢を切らせてもらうわ。最後に首を切って頭と胴体を離せば完成。――さて、貴方はどこまで耐えられるかしら?」
唇を歪め、近づく女は人間というより、人の皮をかぶった化物のようだった。
抵抗しようと身をよじるが、縄が解ける兆しはない。
いや、そもそもこれは縄なのか。壁に打ち付けられたようにびくともしない。だが、目を動かし背後を確認しようとした瞬間、白麗は声にならない叫びを上げた。巨大な蜘蛛が白麗の背後から姿を現したのだ。
「何勝手に出てきているのよ。――ああ、餌の気配を感じたのね」
悪寒が走る。手足の震えが止まらない。
「麗鈴、貴方私が古者だってすぐに気がついたでしょう? だったら、古獣だって見慣れているでしょうに。ああでも、一緒にいた男、あれは影狼の一族だからもしかして古獣は初めて?」
ふふっと玖芽は笑う。
「安心して。私が欲しいのは髪だけ。だけど、肉や血はそこの大蜘蛛が食べるわ。――それこそ骨までしゃぶり尽くすように」
あふれ出る涙が、目に映るものすべてをぼやかす。まばたきをすれば、目尻からこぼれた。
――ここまで、なの?
鼻をすすり、嗚咽を殺す。
ここで、死ぬの――?
蝋燭の淡い光が照らす部屋の中で、玖芽の手に握られる包丁が鈍く光る。今からあれで四肢を叩ききられるのだと思うと、声にならない叫びがあがる。
私はまだ、死にたくない――。
「あら、まだ抵抗するの? 往生際が悪いのね」
腹を思いっきり蹴られ、白麗は呻いた。
「確かに薬で眠らせている間にやっちゃうのが一番楽よ。抵抗しないし。でも、ね。それだと苦痛に呻き、必死で生を乞う無様な姿が見れないじゃない?」
そう言って高らかに笑う玖芽を白麗は眉間に皺を寄せて見た。
狂ってる――。
「あら?」
玖芽はわざとらしく首を傾げた。
「私がみたい顔はそういう顔じゃないの。――まあいいわ。死にたくなるような苦痛を与えれば、みんな素敵に表情を歪ませるからっ」
左足めがけて振り落とされる肉切り包丁から、目をそらすように強く目を閉じた。
――洸樹。
その瞬間。
何かが落ちる音が耳に飛び込んできた。意を決して目を開いてみると、地面に落ちた包丁と片手をかばうようにうずくまる玖芽の姿が飛び込んできた。
呆けた顔でその様子を見つめていた白麗だったが、突然、体を拘束していた糸がゆるんだせいで崩れ落ちそうになった。しかし、白麗が地面に倒れることはなかった。白麗を支える、大きな手――。口元を隠すように布を巻き、頭を守る兜をかぶった男の目は、どこか安心したような感情があった。
「早く、ここから逃げないと!」
白麗は言う。
「巨大な蜘蛛が――」
「あれのことですか?」
男の指差す方を見れば、槍を受けた巨大蜘蛛が壁に張り付いたまま、何本もある足を動かしていた。
とっさに目をそらしたが、その光景は頭に焼き付いて離れない。深々と腹に刺さった槍から新緑のように鮮やかな血が止めどなくあふれ出ていた。
それは、白麗にあの嵐の晩の出来事を思い出させる。
どうにかして振り払おうと、両手で顔を覆っていたときだ。
「そこまでだ」
叩き壊す勢いで開かれた扉から、声と共に人が飛び込んできた。
「なっ」
突然の出来事に玖芽も動きが止まる。その瞬間に距離を詰めた男が、玖芽を拘束した。あとからやってきた二人の男も、白麗のそばに控える男と同様、兜をかぶり花の紋章の入った外套を纏っていた。
白麗の窮地を救ってくれた人間、それは警備兵だ。おそらく近くの州の兵だろう。
それを見て、玖芽の表情が変わった。わなわなと震える口でやっと言葉を紡ぐ。
「どうして――なんで――?」
州を追い出された身としては、罪人として捕まることなく平穏に暮らせる方法をとってきたつもりなのだろう。
たしかに、玖芽の行為は露見しにくいものだ。
「匿名の情報が入ったのさ」
驚愕の表情を浮かべる玖芽の様子を白麗はじっと見ていた。
痛む足首を押さえていれば、一番に乗り込んできた警備兵が、冷水で濡らした布を巻いてくれた。
「ありが――」
ふと白麗は思う。兵であれば式典に警備として出席する可能性がある。気づいていないか、とおそるおそる顔を上げれば、兵が首を傾げるだけだった。
「匿名……情報――?」
間を置き、震える声で尋ねる玖芽に、もはやさっきまでの勢いはない。
「お前は知らないかもしれないが、ここ数年で行方不明者が多数出ているのはこの州だけなんだよ。しかも女ばかり。それも美しい髪と評判の女だけ。だからこの辺じゃ山姥の仕業だともっぱらの噂だ」
有名人だったんだぞ? と兵の一人が茶化す。しかし、目はまったく笑っていなかった。
「だが、山姥の正体は女蜘蛛だったとはな」
「――何が悪い」
カッと目を見開き睨む様は、穏やかな顔で微笑む玖芽とは別人だった。
「古者だからと州でものけ者扱いで居場所なんかない。おまけに古者だからという理由で税を上げられ、追い出されるようにしてここまで逃げてきた私の気持ちがわかるか! 古者だから奴隷のような扱いを受けるのか! 髪色の違いがそうさせるのか!」
両手を拘束されながらも、今にも襲ってきそうな気迫で凄む玖芽に白麗は愕然とした。
彼女の変貌にではない。警備兵が彼女を見る目――。それは、古者という者に対する人々の目だ。家畜を見るような感情のかけらもない、底冷えするような目だった。
「この国にもう古者も古獣も不要なのだ」
警備兵の淡々とした言葉に、白麗は身を切られる思いがした。
「古獣はここで始末する。深手を負っているからな。おとなしく死んでくれるだろう。そしてお前も――」
男が腰に下げていた剣を抜くと、剣先を迷うことなく玖芽の喉元へと向けた。ひいっと声にならない悲鳴が上がる。
「ここで罰を受けてもらう」
一気に力が抜けたのか、玖芽はその場に崩れ落ちた。
玖芽が再び拘束されるのを部屋の端で見届けていた白麗は、どこかほっとした心持ちだった。もちろん、生きていることもあるだろうが、玖芽が殺されなかったこともひとつのようだ。
「……変なの」
「いやいや、姫さんも相当変ですよ」
驚きのあまりむせた。
まだ、星が明るく光る時間だ。白麗は小屋の外に出ると、もたれ掛かるようにして、星を眺めていたのだが、静かな夜は一変する。
「洸樹!」
顔を上げれば、警備兵の格好をした洸樹がいた。
「何ですか。そんなに大きな声を出さなくても聞こえてますって。姫さんと違って若いですから」
「もう! 貴方の方が年上じゃない」
「おや、そうでしたか?」
普段なら苛立ちしかわかない、このやりとりも、さっきまでもうできないと思っていた。
そう思ったら、ツンっと鼻の奥が痛む。同時に、涙が溢れてきた。手の甲でいくら拭っても止まらない。
何か言われるかと思ったが、何も言ってこなかった。
「死んじゃったかと思ったじゃない。……ばかやろう」
両膝に顔を埋めて、叫ぶように言ってやった。
「あー、えっとその……すみませんでした」
素直に頭を下げる洸樹に、逆に白麗が驚いた。少しは反省しなさい――そんな気持ちも多少あったのだが、こうも素直だと何か企んでいるような気がしてならない。
そう言えば、やっぱり姫さんはバカですねといつもの洸樹に戻った。
どうしていつもバカにされないといけないのか、それだけが腑に落ちない。
「姫さんは知らないかも知れませんが、王族の護衛官を務めるには、ある程度、毒に耐性を持っていなければならないんで、あの女が盛った毒程度じゃ死ねないんですよね。それに、あの女も言っていましたが俺は古獣のいない古者です。身体能力と治癒能力が高いのは、影狼一族の特徴らしいですがもしかしたら、毒にも強いのかもしれませんね。――まあ俺以外の影狼の古者はいないのでよくわかりませんが」
――知らなかった。
「まあ、おかげであの女の隙をついて、警備兵を呼ぶことができました。でも、まさか姫さんから山姥の家に行くと言い出すなんて思ってもいませんでしたよ。本当、何考えてるんだ、このバカはって本気で思いましたから」
「――山姥なんて、知らない」
白麗は宮廷の外を知らない。だから、今、州でどんなことが起きているのか、耳にしないのだ。
しかし、それは言い訳にしかならない。
国を治める一族として、知らないでは通らないこともある。
「――私は本当に無知ね」
あまりの情けなさに嫌気がさす。はあ、とため息を吐こうとしたときだ。
いきなり地面から浮いた。
正確には、洸樹が抱き抱えたのだ。
「ちょ、いきなり何して――」
「すみません、姫さん。ちょいっと場所を移しますよ。……どうやら中の連中も外に出てくるみたいですので」
「それなら自分で歩くわよ!」
「いえいえ。大蜘蛛の糸は身動きをさせなくなる毒があるんです。それにかなり抵抗したみたいで毒の回りも早い。――まあ、数刻たてば消えるので心配はいりません」
そう言うや否や、洸樹は茂みの中に身を隠した。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「内容によります」
相変わらずの減らず口に、軽く頬をつねった。
「暴力反対」
「それなら、言葉の暴力を受け続け、ボロボロの私はどうなるのよ」
まったく。まあいい。こんなことをしてたら、日が昇ってしまう。
「警備兵は三人。そのうち一人は洸樹。だけど、さっき糸を解いたのは貴方よね?」
今は顔を見ただけで洸樹だとわかるが、さっきはわからなかった。
確かに薄暗い室内であったとはいえ、幼いときからずっと一緒にいたのだ。まったくわからないはずなどない。
しかし、洸樹はあーっと声を上げると、面倒くさそうに頭をかいた。そして――。
「まあ、何でもいいじゃないですか」
何でも良くないから聞いているのに、それ以上、口を開かなかった。
しばらくして、警備兵二人に連れられ出てきた玖芽は、抵抗することはなかった。
どこか遠くでフクロウが鳴いた。
「さて、お前を連行する前に一つやるべき事がある。――罪の重さを思い知るんだな」
途端、もう一人が玖芽の両肩をつかみ、強制的にひざまづかせた。
そして、残る一人が懐から刃物を出し、玖芽の髪を掴んだ途端、それまでおとなしかった態度が急変し、暴れ始めた。
女の罪人は、共通して髪が短い――。それは、髪に美を見いだす來国民にとって、一番初めに与えられる罰。
「いや! 髪は、切らないで!」
どんなに抵抗しても、逃れられない。そもそも罪人として捕まった時点でわかっていたはずだ。
しかし、わかっていても認めたくないことはある。
髪に魅せられ取り付かれた女は、叫ぶ。だが、抵抗も空しく、断末魔に似た叫び声と共に、玖芽は髪を切られた。
途端、糸が切れた人形のように静かになると、ただ骸のように憔悴しきった女がいるだけだった。
「そういえば、あの少女は?」
白麗のことだとすぐにわかった。ここにいる、と声をあげようとした瞬間、口をふさがれた。
「姫さん、少し黙っていてください」
どうして、と聞きたくても口は洸樹の手にふさがれ聞けない。
そうしているうちに、警備兵は玖芽を連れ去っていった。完全にいなくなった頃、洸樹は茂みから立ち上がる。
「行きましょう」
差し伸べられた手を掴みながら、白麗は口を曲げる。
「どうして口をふさいだのよ」
おかげで息がしづらくて酸欠を起こすところだった。
すると、洸樹はどこか言いづらそうに目線を泳がす。それを見逃す白麗ではない。嫌な予感がした。
「さっき、州に行ったとき、見てしまったんですよ」
見てしまった?
白麗は首を傾げ、はっと表情を強ばらせた。
もしかして、幽霊――。
「俺の人相書き」
――じゃないのね。
ほっと胸をなでおろすのと同時に、口にしなくて良かったと心底思った。言葉にしていたら、それこそ洸樹のいいおもちゃにされる。
「つまり、手配書です。――王殺しとは書いてありませんでしたが、大罪人とありましたね」
どうやら宮廷は、紅貴の死を公にしていないようだ。しかし、その場しのぎにしかならないだろう。
「おそらく、あの感じからすると国中にばらまいているでしょうね。だから、こんな変装までして彼らを呼んだんですよ」
両腕を広げて見せる。警備兵は、青い麻絹の上衣を身につけ、背中に桔梗の花の刺繍が入っている。
どこで手に入れたのか、聞こうとしてやめた。一文無しで宮廷を出たのだ。答えなど聞かなくてもわかる。
だが、白麗には一つだけ腑に落ちないことがあった。
「ねえ、洸樹」
彼は、答えてくれるだろうか。
來国では珍しい、黒に近い瞳を見据えて言う。
「何故、警備兵を呼んだの?」
確かに、玖芽は罪人だ。しかし、洸樹の武術の腕前があれば、兵を呼ばなくても玖芽を捕らえることはできたはずだ。
そうすれば、洸樹も毒を飲まなくて済んだ。
しかし、洸樹は首を振って否定した。
「俺は古者ですから。たとえ、まだ州に手配書が回ってなかったとしても、あの女が殺人鬼だという証拠を持って警備兵に渡すことはできなかったでしょうね。いやでも俺の身元も調べられますから」
「それじゃあ、貴方は私が死んでもよかったってわけ?」
結果的に助かったとはいえ、一歩違えば死んでいたのだ。さすがに、護衛人としてどうかと思う。
しかし、洸樹は鼻で笑うとこう言った。
「姫さん、俺が貴方を見殺しにするわけないでしょう」
あくまで確保できる算段がついたからこそ、実行したのだと洸樹は言う。
「――それに、姫さんが山姥の話を知ったら、絶対に放っておけないとか言い出しそうですし。それこそ俺の方が手を焼かされる」
白麗は視線をずらした。反論の余地もない。
「さて、厄介なことになってきましたね」
ぐっと延びをしながら洸樹は言う。
「姫さん、事態は想像以上に最悪な方へ転がっているようですよ」
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