第2話


 よくよく考えてみれば、この国のことを私はそんなに知らない。

 白麗は腕の中に頭を埋めて思った。

 集落から離れ、一人暮らす女は、自身で畑を耕し狩りをするのだという。どうして町中で暮らさないのかと問えば、税を納めることができないのだと恥ずかしそうに答えた。このとき、洸樹が眉間に皺を寄せたのを白麗は知らない。

 税とは何か洸樹に聞けば、集落で暮らすために払う金で宮廷を動かすために使われいると言う。つまり、私の生活はたくさんの人によって支えられていた、ということだ。

「税を納められない者は、街を追い出されます。外壁も兵もいない州の外は、人を襲う猛獣が住んでいますので、生きるのも必死なのです」

 以前は、税を納められない者は、罪人として奴隷へと身分を下げられたと言う。

「今は身分制ではないですから。これでも多少は自由のある国になったのだと思います」

「――本当に、そう思うの?」

 声が震える。

 白麗の言葉に不思議そうに首を傾げる女は、名を玖芽キュウメイと名乗った。

 玖芽は、洸樹と同い年くらいだ。それなのに、親兄弟もなく、一人でこんな場所に暮らしているなんて――。

 それじゃあ、死を与えられているようなものだわ――。

 白麗の考えを察したのか、玖芽はほほえむと、白麗の頭をなでた。

「大丈夫。州の外で暮らす人は私だけじゃないの。だから、みんなで協力して暮らしているわ。それに、追放された方が、奴隷にされたり髪を切られるよりずっといい」

 來国の守護獣である麒麟は、美しい鬣を持つと言われている。そのため、來国では美しい女の第一条件が髪にある。また、成人を越えると不思議と髪が伸びなくなる為、來国の女は髪を切ることがない。もはや女である証と言っても過言ではないだろう。

 そのため、女人の罪人には、断髪刑という処罰も存在する。短い髪の女は罪人として、集落に戻っても迫害され続け一生を終える。

「貴方、とてもきれいな髪をしているのね。まるで絹糸のように滑らかだわ」

「……それ以上、その人の髪を触らないでもらえますか」

「あら、ごめんなさい」

 白麗は、ちらりと不機嫌な護衛人を見た。別に減るものでもないのに。あんな低い声で威嚇すれば、誰でも怖じ気ついてしまう。しかし、常に生死をかけた生活をしているからだろうか、玖芽はそのくらいで怯えるような人ではなかった。

 たどり着いた小屋は、目を見張るほど粗末な小屋だった。腐った木の板を幾重にも重ねた壁、木の葉と藁でできた屋根、地面に藁を敷いただけの床の間。

 人の暮らす場所というより、家畜小屋のようだわ。

「みすぼらしい場所でしょ? 待ってて。今火を起こすわ」

 困ったように笑う玖芽を見て、白麗は小さく頭を振った。

 今は贅沢を言っている場合ではない。屋根があり雨がしのげて暖がとれるだけでもありがたい。

「ずいぶん濡れてるわね。小さな火しか起こせないけど暖まってちょうだい。私は離れで何か食べれるものを作ってくるわ」

「あ、ありがとう」

「困っているときはお互い様だもの」

 そう言って、玖芽が出て行った瞬間、今まで黙っていた洸樹がむくりと立ち上がり火のそばまで寄ってきた。そして、音を立て座るとそのまま瞼を閉じてしまった。すぐに規則正しい寝息が聞こえる。

 彼が無口なのは珍しい。こういう場合は、たいてい無理をしているときだ。

 そっと顔をのぞけば、案の定、額に大粒の冷や汗が浮かんでいる。

 白麗は着ていた上着を脱ぐと、よく絞り、洸樹の体にかけてやった。そして懐に入れていた首飾りを取り出すと、洸樹の首もとにかける。

 兄からもらった首飾りには、黒く丸い石がついている。日に当てれば七色に輝く宝石――ではない。ただの黒く丸い石。だが、不思議なことに、この石は人を安心させる温もりを持っていた。宝石なら冷たいし、道に落ちている石でもそんなことは起きない。

 前に、卵のようねと言えば、兄はそうだねと答えた。

「――兄様」

 白麗はうつむきながら問う。

「私はどうすればいいの?」


 簡単な山菜の雑煮を食べ終わったあと瞼が重くなってきた。こくりと何度も頭を揺らす白麗を見かねてか、もう寝ましょうという玖芽の言葉に従い、火が消される。

 着物も玖芽のものを借り、ゆっくり眠れそうだと思った矢先、白麗ははっと目を開けた。

 表情が強ばる。

「どうかしたの?」

 玖芽が声をかけてきたが、それに答えられる余裕などなかった。

 心臓が激しく胸を叩く。喉が乾き、呼吸をするたび流れ込む空気が、刺々しい。耳元で打つ鼓動よりはっきり聞こえた。

 名前を呼ぶ、優しい声――。

 もう一度聞きたいと願っても、叶うことのない願い。

「兄、様?」

 返事はない。幻聴でも聞こえたのだろうか。

 ――そのときだ。

 再び、瞼を閉じようとした白麗の前に紅貴が着ていた、黄色と黒の袖が視界の隅に写った。

「兄様!」

 後を追いかけようと飛び起きる白麗だが、立ち上がることはできなかった。

「どこにいくんですか」

「洸樹――」

 暗闇の中、はっきりと護衛人の視線を感じた。

 寝ていたんじゃないのと眉をしかめる白麗だが、今はそれどころじゃない。

「……厠よ」

 野暮なことは聞くなと棘を含め、再度立ち上がれば、今度は隣で布がすれる音が聞こえた。

「――まさか、ついてくる気なの?」

「まあ一応、そういう役目なんで」

「いいわよ、一人で」

 もう、護衛人も何も関係ないでしょうに。

 逃げるかのように飛び出せば、冷たい夜風が肌をなでた。

 素早く周囲を見回すが、紅貴の姿は見えない。

 ――どこに行ってしまったの?

「麗凛」

 洸樹が呼ぶが今はそれどころではなかった。

「麗凛!」

 しびれを切らしたのだろう。強く肩をつかまれれば、さすがの白麗も無視できなかった。

「……離しなさい」

「嫌です」

「離してったら」

 体をよじれば、洸樹も手を離した。拍子抜けするほどあっさり自由になった白麗は、明かりも持たず、暗い森へ駆け出そうとした。

「麗凛」

 もう一度、洸樹が呼ぶ。しかし、無視して行こうとした矢先だ。

「何を探しているんです?」

 自然と足が止まる。

「厠でしたらそっちじゃありませんよ。それとも他に何か理由があるんですか? 思わず駆け出したくなるような――」

「関係ないでしょ!」

 白麗は叫んだ。洸樹の言葉を遮るように。

 しかし、洸樹は何食わぬ顔ではっきり言った。

「関係あります」

 半月の月夜。淡い月光が降り注ぐ中、洸樹のまっすぐな瞳が白麗を映す。見慣れないその表情に思わず息をのんだ。

「俺は姫さんが兵士に追われるくらいなら、あのまま牢にいても構わなかったんです。それを無理矢理連れ出したのは、他でもない貴方です」

 当たり前だ。無実の罪で牢獄されている者に自由を与えて何が悪い?

 だが、まるで王殺しの罪をかぶる決意はできていたと言わんばかりの口振りに、白麗は眉をひそめた。

 たとえ、洸樹にそのつもりがあっても目を背け、見て見ぬ振りなどできない。

「責任を持つことは、それなりの覚悟があったということ。姫さん、俺を脱獄させといて、いざ王都から出たら、他人だからもう知らないとは言わせませんよ?」

 ガツガツと近づいてきて、息が当たりそうなほど近くに洸樹の顔がある。にっこり微笑みを浮かべているが、その目は笑っていなかった。

 たしかに、洸樹の言うことはもっともだ。

「……わかったわ」

 白麗は、黒で塗りつぶされた森の奥を一瞬だけ見た後、洸樹と共に小屋へと戻った。


 翌日。呼小鳥の鳴き声で目を覚ましたとき、すでに玖芽は小屋にはいなかった。外に出れば、目を細めるほどの朝焼けが森に降り注ぐ。

「あら、もう起きたの?」

 ぐっと延びをしていれば、瓷を持った玖芽とすれ違った。何でも白麗たちが乗ってきた馬に餌と水を与えていたのだという。

「今から朝餉を作るから。もう少し寝ていていいわよ」

 橙色の球体が暗い夜空に光りを指す様は、絶望の縁に差し込んだ希望のようだった。

 宮廷にいたときは、こんなに朝早くに起きることはなかった。そのせいか、もう一度眠る気にはなれなかった。

「目が覚めてしまったし。私も手伝うわ」

 早起く起きるのもいいものね、と徐々に明るくなる空を見て思った。


 洸樹はまだ眠っているようだ。

 扉から規則正しく動く肩を確認して、音を立てないようそっと閉じた。

 護衛人である洸樹より先に起きているのも変な気分だ。

 白麗は、頬のゆるみを隠しきれない。いつも自分がどれだけ早く起きているのかを語る洸樹より早く起きているのだ。

 今日は軽口をたたけないわね。

 ふふっと笑いを必死で押さえたときだ。

「麗凛」

 ひょいひょいと手招きする玖芽に、瓷を抱えた白麗が駆け寄る。近づけば食欲をそそられる匂いが鼻をくすぐる。

「ちょっと味見しない?」

「いいの?」

 秘密よ、と人差し指を立て悪戯気に笑う玖芽からお椀を受け取る。

 中には、茸と山菜の雑煮が湯気を立て入っていた。

 ふーっと息をかけ熱を冷ますと口に入れる。その瞬間、白麗は声を上げた。

「おいしい!」

「お腹が空いていれば何でもおいしく感じるものよ。こんな簡単なご飯でもね」

「でも、おいしいものはおいしいわ」

 もう一口と、匙を口に運ぶ。朝餉の時間がより一層楽しみになった。

「じゃあ、あまった薪を片づけてくるわ」

 もうそろそろ朝食も出来上がりそうだと思い、白麗は薪を抱き抱えると、置き場まで運んだ。

 ふうっと息を付く。宮廷では、薪や瓷を持つことはもちろん、朝餉の準備など絶対にやらせてもらえない。それが嬉しい反面、自分の未熟さを思い知らされる。薪や瓷を運ぶだけでも白麗にとっては一苦労だ。

「私、全然ダメね」

 両手を見ながらつぶやく。傷一つない手は、真っ赤になっている。玖芽や洸樹が軽々持つものが、白麗には重すぎるのだ。

 自分の国なのに知らないことだらけ。おまけに自分には人を動かせるほどの力はない。変えたいと思っても、できないのだ。

 今はその力がなくて悔しい。もし、白麗が王なら洸樹を免罪とすることができたのだ。

 でも――。

「王になりたいとは思わないわ」

 まだ赤みが引かない両てのひらを眺めながら、ぽつりとつぶやいた。

「麗凛、ちょっと手伝って」

 玖芽の声が白麗を現実に引き戻した。

「今行くわ」

 こんなところでぼうっとしている暇はない。白麗はぱちんっと自分の頬を叩き、気を入れ直すと駆け出した。しかし、ほとんど走ったことのないせいか、足がもつれた。

「え、っちょ」

 派手に転んだ。

「ああもう。借りている服なのに」

 汚れを落とそうと叩いていると、視界の隅に何かが映る。

 何かしら?

 叩く手を止め、薪置き場の裏へ回り込む。雨など滅多に降らない国だが、年に数度小雨は降る。そのため、薪を保管するにも屋根のある場所でなければしける。玖芽の薪置き場も同様に、風通しの良い簡素な屋根のある置き場だった。その裏には生活を主にしている小屋よりもさらに小さく粗末な建物がある。

 入り口はどうやら薪置き場の反対側にあるようだ。そして、白麗が見かけた黒い球体も、どうやらそこから転がっている。

 小首を傾げ近づいた白麗は、その球体の正体を知り、両手で口を覆った。

 白麗が見た黒い球体――。それは、白骨化した女の頭部だった。

 わけがわからず、数歩下がった白麗は、何も見てないと自分に言い聞かせ、その場を後にしようとした。

 しかし――。

 どんっと衝撃が走り、後ろに突き飛ばされた。

「麗凛?」

 びくっと肩が震える。何食わぬ顔で立ち上がらなきゃと思うのに、足に力が入らない。おまけに両手も目に見えるほど震えている。

 せめて何でもない顔で返事をしなければ――。

 しかし、必死に考えを巡らす白麗の思考を断ち切るかのように、玖芽のため息がもれた。

「ああ。見ちゃったのね」

 別人のように変わった声音に、疑いは確信へと変わった。

「――あ、貴方、ひ、人を、こ、殺して」

「女の髪は高く売れる」

 髪は女の命。しかし、それを逆手に取る人間もいる。

 しかし、いくら髪が美しい女の象徴でも他者の髪を自分の髪にすることはできないはずだ。

 だが、今そんなことを考えている暇はない。

 早く洸樹と、逃げないと――。

 しかし、気持ちとは裏腹に体が動かない。しかもこんな状況だっていうのに、瞼が重くなってきた。

「身一つで州を追い出された者が生き残るには、ここを通る商人から物を買うか襲うかのニ択しかない。でも、商人を襲えば山賊となり、兵士に捕まる。だから、私にはお金が必要なのよ。――何が何でも、ね」

 だからと言って、人を殺してもいい理由にはならない。

 襲ってくる睡魔を振り払おうと頭を振れば、玖芽の笑い声が耳に届く。

「無駄よ。あの雑煮に即効性のある睡眠剤を入れたの。男の方は昨晩毒を入れたから、もう二度と起きてこないわ!」

 ああ、だからあの護衛人は起きてこなかったのか、とぼんやりする頭で思う。

 意識を手放さないよう、地面に爪を立て痛みを自身に与え続けた。しかし、体は怠く今すぐに瞼を閉じてしまいたい衝動が白麗を襲う。

 必死に睡魔と戦う白麗を前に、玖芽の笑い声が高らかと響きわたった。

「さっき確信したの。貴方の髪はずっと眺めていたいほど、とても美しい髪。私の髪より長く、艶のある――。だから、そんな髪を持つ女なんて、この世から消えてしまえばいいのよ!」

 嫉妬にまみれた玖芽の横顔は、白麗の知らない女だった。

 ――洸樹。

 薄れゆく意識の中、いつも軽口ばかりの護衛人の顔が浮かぶ。

 ――ごめんね。

 そうして、白麗は意識を手放した。

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