第1話


「申し訳ございません」

 天井に張り巡らされた梁から壁、絨毯に至るまで朱色で覆われた部屋の中、深々と頭を下げる男を一瞥すると、格子越しから見える庭へと目線をそらした。

 手足はもちろん、首、腹、腿と拘束具に抜かりはなかったという。しかし、あの者には不十分だったのだろう。今の結果がその答えだ。

 まあ、逃げられたのなら仕方がない。しかし、まさか白麗まで連れて行くとは思わなかったが――。

「仕方あるまい」

 窓の外は依然と雨が降りしきる。それでも、昨夜よりはずいぶんおとなしい雨だ。

「国中に人相書をまけ。一刻も早くだ」

 そう言えば、男は短い返事をし、すぐさま部屋を出た。犬のようだと思う。男が出て行ったあと、入れ替わるようにして見知った顔の男が入ってきた。

 ひょろりとした若木のような見た目だが、侮ったら痛い目を見る。とにかく残忍な男だ。そんな男が近くにあった簡素な椅子に腰掛けるのを見て目を細めた。

「そんな怖い顔で睨まないで下さい。貴方がお困りのようでしたので気晴らしにおしゃべりでも、と思いまして」

 安っぽい笑みだと思う。この男とは協力関係にあるが、決して信用しているわけではない。この国の為に自らを犠牲にしてもいいと覚悟した私とは、雲泥の差がある。面倒臭い男だと大きなため息を吐いて見せた。

「まったく。所詮、建国神話などお伽噺であろうに。そこまで來の血を求めるとは、酔狂なお人だ」

「――騒動になっているのであろう? お主もさっさと戻れ」

 立場は私の方がずっと上だ。しかし、馴れ馴れしい男の態度に苛立ちが押さえきれない。

 私が協力するのは、単に己の為であり來国の為でもある。決して私欲や私情に振り回されているのではない。……この男のように。

 当初の計画が早くも頓挫しているのは弁解のしようもない事実だ。だが、考えようによって、これは好機だ。

 あの護衛人が白麗を殺すことなどないのだ。ましてや手元から離すはずもない。この王宮で育った姫だ。外の世界をほとんど知らない姫が、一人で生きていけるはずもないのだから。

「護衛人を捕らえれば、自ずと捕まりますよ」

 国を挙げて捜索すれば、武神と謳われる彼も袋の鼠だろうと、この男は思っているのだろう。

「すぐに見つかりますよ」

 にっこり笑ってみせる男に向かって、泰樂タイラクの口元が動く。

「そう簡単に行けばいいがな」

 どこか含みのある言葉を返せば、男から笑みが消えた。

「私がそんなに信用ありませんか」

「そういうわけではないさ」

 ほんのつかの間頭を悩ませた件が、今ではおもしろいほど都合のよいように転がっているようにしか思えない。

 世界のすべてが手中にあるような気がして、思わず口を出た言葉だ。

 泰樂タイラクは、鼻で笑った。


   ◇


 雨は一向に止まない。

 水浴びとは違い、どうして雨には体力はもちろん、気力も奪われてしまうのだろう。

 とうに髪はぐっしょり濡れ、正装と比べれば簡易な部屋着も絞れば水が落ちる。

 それでも不思議と寒くなかった。

 もしかしたら、必死に馬を走らせる洸樹コウジュが熱気を纏っていたせいかもしれない。

 洸樹の服装は、白麗ハクレイよりもずっとみすぼらしかった。とても王族護衛人の格好ではない。ぼろ切れ一枚のみを身に纏っているようだ。

 どうして姫専属の従者である洸樹が、このような仕打ちを受けなければならなかったのか。疑問は次々沸いてくるが、どうにも頭が働かない。

 洸樹は町中を走り抜け、門兵を振り払い王都を飛び出すと、そのまま田園を駆け抜けた。次第に道も細くなる。

 久々に王都の外に出て、気持ちは高まるかと思いきや、不安だけが強くなった。

 一心不乱に馬を走らせる洸樹の横顔を見上げ、白麗は声を張り上げる。

洸樹が目指す場所の察しがついたのだ。

「ねえ、別に黄国キコクに行かなくても――」

「ダメです。俺の見た目は嫌でも目立ちますからね」

 洸樹が目指す場所。それは、隣国の黄国だ。來国ライコクは、四方を森で覆われ、逆に黄国は海に囲まれている。囲まれていると言っても、黄国は北側のみ渓谷が広がる。そしてこの渓谷が、來国との国境でもあった。

 黄国との国交は絶たれて久しい。

 そのせいか、紅貴コウキが王になってから今まで少数派だった軍事強化派が、口を大きくして主張し始めたような気がする。

 黄国は、來国と違い土地が狭い。また、海は荒れやすく食料も安定しないため、來国に侵略しようとしている。そのためにも今以上に軍事に力を入れるべきだ――という軍事強化派の意見。確かに、古獣コジュウを操るのに手慣れ、先読みを得意とする人間も多いという。仮に戦になった場合、今の來国に勝機はないと言っても過言ではないだろう。それに対し、來国の守護神でもある神獣、麒麟は殺生を嫌うため、武力を強化する必要はないという神獣信者派が存在する。來族でも王によって考えは異なった。父である白貴、そして兄、紅貴は神獣信者派であった。黄国が攻めてくるという根拠もないのに、軍事に資金を割くくらいなら国内に使った方がいいと言っていた記憶がある。

「姫さん、もしかして後悔してますか? ……俺を牢から出したこと」

「ないわ」

 間髪入れず白麗は言う。雨音で遮られないよう、できるだけ声を張り上げながら。

「あのまま貴方を見殺しにするなんて、あり得ないわ」

「そう、ですか」

 馬の手綱を引く洸樹の顔はよく見えない。けれど、覇気のない声音に白麗は眉をひそめた。

 だが、彼の濡れた黒髪を見て思い直す。脱獄をした以上、白麗の擁護があっても捕らえられたら最後、死しかない。

 來国民は、一般的に栗色の髪に赤茶の瞳だ。しかし、その容姿から外れるものが、少数いる。

 国が二つに分かれる前からこの地に住む古の獣、古獣を手懐けた一族だ。古獣は他の獣とは違い、人並みの知力を持つ。そのため、中には人語を操る古獣もおり、人間にとって脅威的存在だ。そんな古獣だが、高い知力があるため、協力関係はもちろん、友情などを築くことが希にある。それが、後に古獣と共に生きる一族を生み出した。そのような一族は、古族コゾクと呼ばれた。

 昔は來国にも古者は数多くいたらしい。

 しかし、今では町中で見かけられると囁かれるほど珍しい存在になった。小さな部族同士でいざこざの多かった時代ならともかく、平和な世の中で古者コシャは危険視される対象になったのだ。その後、民を四つの身分に分ける四部身分制が執行されたことにより、反逆の意志はないことを潔白するため、自ら奴隷へとなる一族と王政に疑念を抱きつつもひっそりと身を潜め暮らす一族に分かれた。

 時代と共に勢いを無くし、息を潜めるように暮らし始めた古者だったが、民はそれを快く思わなかった。結果、奴隷と化した古者と山奥にひっそりと暮らす古者の殺戮が始まった。奴隷になった古者は、主の命令に逆らうことができない。共食いと称された争いのせいで、來国の古者は存在だけで目立つようになったのだ。

 そして洸樹は、古者である。しかし、すでに彼の一族は、彼だけを残し滅んだ。この來国で身を潜められる場所などないのだ。

 それに、この状況では宮廷で育った白麗でも国境越えは無理だとわかる。

 なにせ、二人は防寒着どころか食料さえ持っていないのだ。これでは数日かかる国境越えに耐えられるはずもない。

「ねえ、やっぱり考えなおさな――」

 そのときだ。手綱を握っていた洸樹の体が大きく傾いた。からかっているのかと思ったが、真っ青な顔で意識を失っている姿を見て慌ててその体に手を伸ばした。しかし、揺れる馬の上で支えられるはずもなく洸樹もろとも落馬した。馬が異変を察知したのか、駆ける足を遅めていたこともあって、特に怪我はない。

「……本当、バカ姫様ですよね」

 浅い呼吸を繰り返す洸樹が、耳元で大きなため息と共にささやいた。

 気づけば、洸樹がかばったのか、下は地面ではなく彼の胸元だった。

「ちょっ、バカ。何やってるのよ」

 急ぎ退けば、洸樹はゆっくりと体を起こし面倒臭そうに頭をかいた。

「何って。俺、一応護衛人なんで。姫さんをかばうのは当然でしょう?」

 確かにその通りだ。だけど、腑に落ちない。さっきまで気を失っていたくせに。

 何か言ってやろうと口を開いたが、結局何も言えなかった。

 彼の傷口から見える、赤。――昨夜のことが脳裏をよぎる。

 本来なら、今も宮廷で過ごしていたはずなのだ。硬貨が裏返ったかのような容易さで、日常は遠く離れてしまった。

 今も夢ではないかと疑う。もしかしたら、父様の短刀で己の心臓を刺せば、痛みで夢から覚めるのではないのか。そんな淡い期待を抱いてしまう。

 しかし、やはりこれは夢ではなく現実だ、と耳元でもう一人の自分がささやく。夢にしてはあまりにも現実味がありすぎる。

 洸樹の纏う熱気もそれだ。

 ふと、距離を置いても感じる熱気の異常さに、眉間が寄る。

 やはり、いつもと様子が――。

「何、変な顔してるんですか」

 いきなり両頬に痛みが走ったかと思うと、熱いばかりの洸樹の手が両頬をつねっていた。

「痛いわよ」

「まあ、痛いようにつねってますからね」

「離して」

「イヤです」

 こんなときでも彼は変わらない。でも、様子がおかしいことは嫌でも気づく。

「貴方、具合が悪いのでしょう?」

 おそらく熱が出ているはずだ。何事もないように振る舞っているものの、さすがに体の異変をごまかすことまではできない。

「なに、平気ですよ。姫さんが気にかける必要もないことです」

 虫を払うように手を振れば、洸樹は立ち上がった。

「それよりも、早く深淵の森に行かないと。このあたりは山姥が出るって噂ですからね」

「山姥!」

 書物で読んだことがある。山に住み人を食べる老婆。麒麟と同じ伝説だと思っていたけど――。

「……姫さん、まさか御伽噺の山姥を想像してます?」

「え、違うの?」

 そう言えば、洸樹は肩を落とした。

「今の言葉を聞いて、先行きに強い不安を感じました」

 もう! 一体私が何をしたのよ。

 近くまで寄ってきた馬の背に手を乗せ、もう一度その背に跨がろうとしたときだ。

「白麗!」

 血相を変えた洸樹がいきなり飛びかかってきた。思わぬ行動にただ驚くだけの白麗は、地に刺さった矢を見て顔色を変えた。

 もう追っ手がきたのか――それとも別の何かか。それすら定かではないが、この矢は明らかに來国の姫である白麗を狙っていた。

 一体誰が……?

 近くにある洸樹の体からは、湯のように熱い熱気があるというのに、自身の手足は冷たく冷え、震えが収まらない。

「誰だ」

 低い声で矢の飛んできた方を睨む洸樹は、白麗の知らない顔をしていた。

「出てこないのなら、切り捨てる」

 鯉口を切ったその刀は、白麗の部屋にあったものだ。どうやら、部屋主の了承もなしに緊急事態に備え、勝手に隠していたらしい。

 洸樹は、兄様の許可は得たと言っていたがそれすら今は疑わしい。――だって、兄様はもういないのだ。

 洸樹の気迫に飲まれたのか、茂みの中から若い女が現れた。女の手には狩猟用の弓が握られている。

「申し訳ございません!」

 女はひざまずき、頭を濡れた地面に押しつけた。地面に流れる髪は、赤黒い色をしていた。――古者だ。

「山賊かと思い、威嚇に矢を放ちました。殺す気はなかったのです。どうか、命だけは!」

 地を打つ雨の音と洸樹の荒い呼吸が、耳に届く。洸樹もひざまずく女も一向に動く気配がない。彼が相当頭に来ているのは、その態度をみればわかった。彼は腹が立つと寡黙になるのだ。兄様がそう教えてくれた。

「わかったわ。命は助けてあげる。その代わり、少しだけあなたの家で休ませてちょうだい」

 一斉に視線が集まる。女は喜びを、洸樹は驚きをその目に宿しながら白麗を見た。

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