涙雨の一光

はるのそらと

序章

 あの夜のことは、あまり覚えていない。

覚えていることは3つ。

 横殴りに降る雨が、回廊に川を作り、中に入れろと言わんばかりに屋根を叩いていたこと。巨大な獣がうなるように幾度となく雷鳴が鳴り響いたこと。

 あとは、雷の音が怖くて、兄様の部屋に行こうと寝室を出たこと。

 毎日、王の妹として自覚を持てと耳にたこができるほど言われているが、私も言いたい。私だって一人になりたいときがある。だから、毎回部屋の外に出る度に、侍女を連れて歩くなんてできるわけがない。それに世話を焼かれるほど、もう小さな子供でもないのだ。

 官はともかく、兄様の心配性にも困ったものだ。

 大好きな兄様。父である前王と母様が突然天界に召されてしまい、四年前王座についた未熟な王。

 ――王とは不自由なものだな。

 まだ十代で突然王に奉られたのだ。父母を失った悲しみを癒す間もなく、式典が行われたあと、二人っきりになった玉間でのことは今でもはっきり覚えている。石で作られた王座に手をかけながら、ぽつりつぶやいた兄様の横顔。憂いをひめた視線の先にあるものが何なのかわからない。ただ、ひどく苦しそうなその表情は今でも頭から離れないでいた。

 優しくて強い、私の兄。

 そんな兄が今、目の前で事切れている。

 轟く雷鳴が、一瞬だけ兄の寝室である王室を照らせば、虚ろな瞳と目が合う。いつも私の名を優しい声で呼んでくれる口は、半開きで赤黒い何かが顎を伝って胸に落ちる。

 だが、それよりも目を引いたのは、胸に大きく広がる赤い円。そこから止めどなく血が流れ、赤い血だまりを作っていた。

 もはや、雷鳴など気にならない。鉄臭さが胸の奥まで入り込み、吐き気がこみ上げてきた。とっさに手で鼻と口をふさぐ。だが、血の臭いは収まらない。

 絶えきれず吐き出せば、少しだけ楽になった。でも、胸を強く叩く心臓だけは、収まるどころかどんどん強くなる。

「に、い、さま?」

 わずかに取り込んだ空気を使い、息を止めつつ声をかける。息苦しい。立つことさえやっとだ。

 返事がないことはわかっていた。

 それでも、これは悪夢で夢から覚めればまた兄様が優しく微笑んでくれる。――そう信じていたかった。

「兄、様」

 ふっと糸が切れるように、目の前が暗くなった。


   ◇


 來白麗らいはくれいは、この來国の王、來紅貴らいこうきの妹姫だ。

 王ではなく、その妹であるため、政治にはかかわらず祭典のみ姿を現す、來国王族の象徴の一つであった。

「決めた」

 あの日の朝、いつも通りの時間に侍女が起こしに来て朝餉を用意し、着替えをさせられ、髪を結わえられた。何の変哲もない、いつも通りの日常。自室に戻り、やっと一人になった白麗は、格子の外に広がる庭園を見て決心した。

「何をです?」

 ひやっと肝が冷えたのは言うまでもない。

「いつの間にそこにいたの?」

 平静を装い振り向けば、長身黒髪の男があくびをしていた。その腰には、白麗の片手ほどある長刀が下げられている。彼の愛刀だ。

 ここは白麗の個室だというのに、一人っきりになれるのは寝るときだけなのだろうか。不満を顔に出せば、ため息を吐かれた。

「一応護衛人なのでね。嫌でもいなくちゃいけないんですよ」

 男は面倒臭そうに、頭をかきながら応えた。

「護衛なら、あくびなどしないけどね」

 嫌味の一つでも口にすれば、男はわざと驚いた表情を浮かべ、心外だと言わんばかりに眉をひそめた。

「おや? それが一晩中宮廷を見回った者に対する態度ですか? 姫さんが楽しい夢を見ている間、俺は宮廷の安全を守っていたんですよ? それこそ、寝る間も惜しんで」

「だったら、もう休んでいいわよ」

 しっしと手を振れば、護衛人、清洸樹せいこうじゅは肩を落として首を振った。

「姫さん、そうしたら俺がさぼっているようじゃないですか」

 いつもさぼっているようなものじゃない、と言おうとして口を閉じた。

 そんなことを言えば、何倍にも膨れあがって返って来るのは目に見えている。

 一国の姫君である白麗を敬うことなく接してくるのは、今では兄とこの護衛人だけだ。

「で、姫さん。話を戻しますけど」

 ごくり、と白麗は生唾を飲み込んだ。

「何を決めたんですか?」

 ふっと小さくため息を吐いた。

 どうやら一番厄介な人間に聞かれてしまったようだ。


 來国は四方を険しい山々に囲まれた国だ。そのせいか、唯一の隣国である黄国きこくとの外交もほぼなく、建国以来、自らの力のみで繁栄を築いている。幸運だったのは、善王ばかりが來国を率いてくれたからかもしれない。もちろん、歴史には語られなかっただけで悪王もいたかもしれないが。

 他にも要因はある。來国は、雨の少ない土地であるが、地下水が豊富にあったことと気候の変化が比較的安定しているため、作物の不作がほとんどないことだ。これも国が存続できた大きな一因だろう。

「まったく、何で今日に限ってついてないんだろう」

「まあ、俺に聞かれたのが運の尽きです。そのあとのことは、全般的に姫さんが原因ですけど」

「しっー! 姫って呼ばない!」

 わざと困らせようとしていることくらい、態度を見ていれば察しがつく。そもそも口角が上がっている時点で黒だ。

「それにしても、お転婆具合は健全ですね。紅貴様に見つかっても知りませんよ?」

「兄様は怒らないわ。優しいもの。でも、賢老師けんろうし倶尊ぐそんはかなり怒るでしょうね。一週間くらいお仕置きです、って部屋に閉じこめられるかも」

「ほう。……そうなれば、護衛の必要もないから楽になる、か」

「もう! 私専属の護衛人ならもっとちゃんとしてよ」

 むっと睨めば、洸樹は楽しそうに笑った。


 今、白麗たちがいるのは王都、黒麒京こっききょう。宮廷の外は王都に暮らす人々で溢れかえっている。滅多に宮廷の外に出してもらえない白麗は、人目を盗み時折街へ出かけていた。

 しかし、一度見つかれば二度と抜け出すことは叶わないだろう。だから、抜け出すときは細心の注意を払って秘密の通り道を行くのだが、今日に限っては、本当についてなかった。

「服もほつれるし、履き物も片方なくしてしまったし」

「そうですね。心なしか今日は兵の数が多い。見つからなかっただけまだマシだと思いましょう」

 洸樹の言う通りだ。兵の数がこんなに多くなければ、服も靴も無事だっただろう。けど、宮廷で着る服より幾分素朴な物だとしても、お気に入りの一品だったのだ。落ち込むなと言う方が難しい。

「仕方ないですね。ここで待っていてください」

 そういうや否や、洸樹は白麗に背を向けその場から離れた。洸樹の去っていった方を眺めながら、白麗はふと思う。

 洸樹は來族ではないのだ。わざわざ白麗につきあわなくても、街には自由に行き来できる。役目だからわざわざ白麗に合わせて人目を避けているのだろう。そう思うと自分の身勝手さを思い知らされる。

 ただ、兄様の贈り物を選びたかっただけなのに。

 そろそろ兄、紅貴の誕生祭だ。いつも侍女に頼んでいくつか品を持ってきてもらうのだが、今年は自分で選んだものを渡したかった。

 ――兄様、ここ最近元気がないから。

 政務室から出てこない日も多くなった。

「……王は、生半可な覚悟ではなれないものね」

「なに一人でぶつぶつ言っているんですか」

 びくっと肩を振るわせ、おそるおそる顔を上げれば、洸樹が眉間に皺を寄せこちらを見ていた。

「べ、別に何でもないわ」

 彼に弱気なところは見せられない。見せてしまえば、それはそれで一生からかわれる。

 洸樹は、ふーんと疑いの目を向けながらもそれ以上追求することはなかった。

「はい、どうぞ」

 突然しゃがみ込んだ護衛人に驚き、視線を下げれば、朱色の靴が置かれていた。

「さすがに裸足で歩かせるわけにもいきませんからね」

「……ありがとう」

 洸樹の思わぬ行動に、放心したまま礼を述べた。

「さ、姫さん。紅貴様への贈り物を見に行きましょう」

「え、ちょ、ちょっとまって!」

 数歩先を行く洸樹は、振り返ると首を傾げた。いきなりなんですか、と言いたげな表情だが、それは白麗の台詞だ。

「貴方、私の心の声が聞こえるの?」

 兄様への贈り物を自分の手で選びたいということは、誰にも話していないはず。なのに、何故?

「姫さん」

 ごくりと喉が鳴る。この国を陰から支える神獣は、人に化けて生活しているのだと誰かが言っていたけど、ただのお伽噺だと思っていた。

 もしかして、洸樹は――。

「相変わらずの大バカのようで安心しました」

 前言撤回。やはり、あの護衛人はいつも私をバカにする。


 東門通りは、日ノ出通りと呼ばれ東西南北に延びる道の中で一番賑わう通りだ。

 通り沿いにある店は、数百を越え、生まれたばかりの赤子が天寿をまっとうするその日までに必要なものはすべてそろっているとさえ言われている。

 天を突くようにそびえる朱色の門は、大通り同様に東西南北それぞれに構える大門だ。門より先にそびえる宮廷が、來国王とその官、従者が住む麟紫宮りんしきゅう。そして麟紫宮と城下町を隔てる大門。そこには必ず麒麟の彫刻が施されている。

 來国と隣国の黄国は、もとは一つの国だった。そこには、雨風を司る神獣、応龍と慈悲と仁徳の化身、麒麟が住んでいたという。しかし、一国に双子が誕生したのを機に、国は二つに分かれ、來国に麒麟、黄国に応龍が守護神として居座るようになったという。

 そのため、來国王には二つの条件が求められる。そのうちの一つが、麒麟が宿るといわれる宝玉、黒珠を持つことだ。式典のみに使われる宝玉ではあるが、この來国とともに歩んできたものだ。今は王である兄様だけがその在処を知っている。

「それにしても、バレないものですね」

 人通りの多い、日ノ出通りを歩いていると、洸樹が感心したように言ってきた。

「当たり前でしょ」

 式典以外、民衆に姿を見せることなどほとんどない。頭から日除けの布をかぶれば、誰も來国の姫君がいるとは思わない。

「いやいや、普通覇気というか神々しさというかそういうものがあってもいいと思うんですけどね。まあ、人を惹きつける魅力がない、と言われてしまえば、俺も否定はできません」

 相変わらず、軽口だけは立派な護衛人だ。何か言い返したいが、言うだけ無駄だと理解している。理解しているけど――。

「もう! うるさい。母様みたいに美しくなくて悪かったわね!」

「別に貴方が美しい娘ではないとは一言も言ってませんよ?」

「言葉にしなくても、言っているのと同じでしょ! もう」

 それに引き替え、兄様はもちろん、洸樹も見目麗しいのだ。そこがひどく腑に落ちない。

「姫さんは、もう少し俺の言葉に耳を傾けるべきだと思いますがね」

「貴方の言葉を一から真面目に聞いていたら、頭から煙が立ちそうだわ。それと、呼び名」

「ああ、はいはい。麗凛れいりん

 わかればよろしい。

 麗凛とは、昔兄様と洸樹とお忍びで街に来たときの偽名だ。まさか、また使う時が来るとは思いもしなかったが。 

 結局、日が傾き始める頃まで悩み、やっと納得できる一品を見つけだした。

「喜んでくれるかしら」 

 白麗が選んだのは、一本の硝子筆。細かな細工が施されたそれは、光りに照らすと七色に輝く。

「喜んでくれますよ。なにせ、麗凛の選んだものですから」

「そうだといいけどね」

 にっこり笑う白麗の横顔を見て、洸樹も自然と口角があがる。

「あ、そうだわ」

 そう言って小さな包み紙を取り出すと、洸樹に差し出した。

「これは?」

「今日のお礼。つき合ってくれたでしょ?」

「別に、護衛人として当たり前のことをしたまで。お礼なんて――」

「いいから。貴方がいなかったら、兵に見つかってたし。――まあ、服と靴の代償は大きかったけど」

 隠れろ、と頭を押さえつけられた拍子に転び、木の枝に腕をひっかかれ、靴を落とし服がほつれたのだ。

 呆然と手のひらに乗った包み紙を見る洸樹。いつもからかってくる男もこんな顔をするのだなと思ってくすりと笑った。

「ほら、早く。受け取って」

 促せば、洸樹はおそるおそるその包みを受け取った。

「毒なんて仕込んでませんよね?」

「失礼ね」

 そもそも、包みの中身は食べ物ではない。

「気に入らなければ捨ててちょうだい」

 包みの中身。それは、麒麟の彫刻がしてあるお守りであった。

「これ」

「特に深い意味合いはないわ。ただ、護衛をしている以上、危険はつきものでしょ?」

 自分勝手な思いだが、近くにいる者たちだけでも幸福な人生を送って欲しい。

 だが、些細な願いもその日の晩、あっけなく遠いものになってしまった。


   ◇


 目が覚め、飛び起きた白麗はまっさきに自分の両手を見た。

 そして、周囲を見渡す。

 複雑な文様の絨毯に木製の机と椅子。來国紋の入った天蓋に母様から譲り受けた鏡台。間違いなく自分の部屋だ。

 あれは、夢だったのかしら――。

 しかし、廊下が騒がしい。聞き耳を立てれば、兵がこんなところまでやってきているではないか。

 ここは仮にも王の住まう場所。兵は外の警備のみのはず。

「それにしても、まさか、な」

 何がまさかなのか。目を細める白麗の思いが通じたのか、兵がしゃべる。

「そうだよな。専属護衛官が王殺しだろう? 恨みでもあったんだろうな」

 専属護衛官――王殺し――?

 脳裏をよぎるのは、いつもからかってくる黒髪の護衛人――。

 ――洸樹?

 いや、そんなはずはない。

 けど、王殺しって――。

「……夢、だったらよかったのに」

 白麗は、必要最低限のものを懐に入れると、部屋を飛び出した。

 専属護衛官は、王の住まいの中でも何かあったときのためにそばに控える護衛人だ。

 人によって護衛官の数は違う。白麗は、ずっと専属の護衛官をつけなかった。あのときは、他人の存在が怖かった。

 だけど、まだ七つのとき、兵になりたての洸樹を紅貴が白麗専属護衛官にしたのだ。

 確かに、洸樹なら気後れしなくて済む。

 だって、よく共に宮廷を抜け出す仲間だったから。

 ――これで、洸樹がどこか遠くに配属されることもないし、白麗にも腕っ節の護衛官ができて一石二鳥でしょ?

 そう言って笑う兄様の顔が浮かぶ。

 白麗が人目を盗み、向かった先は離れにある牢獄。厳重な警備しかれているが、抜け道を知っている白麗にしてみれば何の問題もない。

 石を投げ、物音を立てればそちらにむかってしまう、兵の無能さに今は感謝しながら、牢の中へ入り込む。もちろん、監視している兵もいるが、もうここはいいだろう。

「表で貴方を呼んでいる人がいたわ」

 偶然通りかかったふうに装い、牢の中にいた兵を外に出す。

 こんなふうに、姫という立場を私欲に使う日がくるとは、昨日まで夢にも思ってなかった。

 白麗は牢の鍵を取り、奥へと進む。地下にあるため、湿っぽく黴臭い。衛生的に良くない場所だ。ここは、牢獄であるが、一時の身柄を押さえる場所でしかない。寝食をしている近くに罪人を拘置する場所など作りたくもない。しかし、即席用の牢獄は必要だということで、何世代前からか簡易の牢獄があるのだ。

 だから、兵が廊下で話していたことが本当なら、ここに捕らわれているはずで、捕らわれている人物も一人だけなのだ。

 ――あれが、夢でないとしたら。

 目を閉じれば嫌でも思い出す、兄様の死顔。

 胸がえぐられるように痛む。

 ――恨みによる復讐は、途絶えることを知らない。

 白麗に勉学を教える老師の言葉がよみがえる。

 兄様を殺されたことは憎い。白麗にとって唯一の肉親でかけがえのない存在なのだ。でも、兄様は絶対復讐など望まない。それだけは断言できた。

 そもそも、こんな回りくどいことをしなくても、侍女を通せば直接罪人と話す機会は得られる。だけど、人払いをして直接話をすることは不可能だ。だからこそ、白麗は自らの足で動き真実を見極めようとしている。

 そのとき、かすかに鎖の音が鳴った。

「誰だ」

 しわがれた声を聞き、心臓がはねた。

 おそるおそる、手に持つ明かりを上げる。

 薄暗い牢をゆっくり照らし出し、両手足を鎖につながれた人物を見た。

 ああ、と納得する自分と驚く自分がいる。

 力が抜けた手から、手持ち灯籠がこぼれる。派手に音を鳴らし、転がる灯籠には目もくれず、白麗はただ目の前の人物から目が離せないでいた。

「どうもこうも、ないですよ」

 口の端が切れ、片目が大きく腫れているがわからないはずがない。鞭を打たれたのか、体中に生傷がある。かすかに臭う血の臭いが、昨日のこと思い出させる。こみ上げる吐き気を押さえるように、両手を顔にあてた。

 首元で揺れる黒曜石のお守りは、つい昨日白麗が渡したものだ。

「どうして!」

 いても立ってもいられなくなり、白麗は鉄格子を掴んだ。ガンっと絶望の音が暗い牢獄に響きわたる。

 牢獄の中の人物は、静かに白麗を見据えていた。

「どうして貴方なのよ――洸樹」

 泣き崩れる白麗を前に、洸樹は何も言わなかった。

 しばらくして、落ち着きを取り戻した白麗は、手に持つ鍵を使い牢の扉を開けようとし始めた。

「ちょ、何やってるんですか」

 これにはさすがの洸樹も目を剥く。両手両足を鎖につながれた洸樹は、白麗の行動を止めることはできない。

「囚人を逃がすのは、いくら姫さんでも悪戯じゃ済まされませんよ」

「いいのよ。――だって、絶対に洸樹じゃないもの」

 小さな明かりで、数ある鍵を一つ一つ鍵穴に指しながら白麗は言う。

「姫さん――」

 そんな白麗を見ることしかできない洸樹は、ひっそりと眉をしかめた。

「だったら、そんな野蛮なことをしなくても、直接、監事官に訴えればいいでしょう」

 姫の訴えであれば、聞く耳を持つはずだと洸樹は言う。けど、白麗は頭を左右に振った。

「所詮王の妹でしかなかった私に、王殺しの囚人を解放するだけの力はないわ。放免を訴えれば、確実に監視の目が付き、この牢に近づけさせないでしょうね。それに、知らないかも知れないけど、貴方、それなりに妬まれているのよ? 何の苦労もなしに王族の専属護衛になって、おまけに女人からの人気もあって。まあ、実力があるのも事実なんだろうけど」

 だから、機会は今。――たった一回きり。迷っている暇などない。

 カチャリ、と錠の外れる音が鳴り響く。

「さあ、逃げるわよ」

 そう言って手を差し伸べれば、洸樹はその手を掴むことをためらった。

 仕方がない。

「清洸樹」

 名を呼べば、はっと顔を上げた。手足や体中の傷はもちろん、顔の傷も生々しい。

 眉をしかめたが、それは後でいい。

 今はとにかく――。

「主命です。共に逃げるわよ」

「――主の命のままに」

 これは、あまり使いたくなかった手段。

 専属護衛官は、主と従者の主従関係で結ばれている。そのため、主の命には絶対に逆らえない。それは、護衛官の自由を縛ることでもあった。

 でも、今はつべこべ言っている場合ではない。

 命を受けた洸樹は、白麗の手を掴むと明かりなしで暗闇の中を走った。

 まるで、この先待ち受ける未来のようだと思い、そっと目を閉じた。

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