第7話【初雪と、火の道】

 母シェーラとの再会は諦めていた。

 十歳にもなっていない頃のあいまいな記憶と、赤ん坊のころにエンヴァラで撮った写真だけでは、何千万もの人間がごった返すというエンヴァラで母一人を見つけられるはずがない。

 でもなぜだか、暗くて寒い船の中で母のコートに包まれていたことだけはぼんやりと覚えている。母について思い出せる中で一番古い記憶がそれだ。十年以上は前になるだろうか。記憶の中の母は張り詰めた表情をして、たった一人の我が子を守ろうとしていたように思う。どうしてそんなことをしたのだろうか。船の中にいるのなら、楽しい家族旅行か何かでは無かったのか。

 それは誰もが一つか二つは持っている、説明のつかない不思議な記憶としてユウの心に刻まれて、時々ユウの人生に疑問を投げかけていた。

 もしか母にもう一度出会える時が来たら、その時のことを改めて聞いてみたいと思う。それはひょっとすると、ユウの人生観を根底から覆すものかもしれない。自分はケブロン・ウィナとシェーラ・ウィナの間に生まれたユウという人間であることも、イークダッドで生まれ育ったエスタビア人だということも、ひょっとすると、自分が人間かどうかさえも……。

 ――いや、それは考えすぎかな。

 ユウはふっと笑った。


 隣のバンダナちゃんが面白いことを言った。ユウの写真を見て、母を知っているのだとか。

「この人は、今でもエンヴァラにいます」

「バンダナちゃんはエンヴァラにいたのか。そういえば、アーシャのトコの船に乗ってやってきたんだね」

 しかし似たような女性などどこにでもいる。

「けど他人の空似そらにさ。だってこの写真、十年以上も前のだよ」

「名前までは分かりませんが、本当によく似ています。「自分には息子がいる」とも言っていました。それってひょっとするとユウさんのことかもしれません」

 なるほど、一理ある。例えば息子と娘がどちらもいる母親なら「子供がいる」と言うだろう。「息子が」なんて限定的に言わないはずだ。

 本当に母ならどんなに嬉しいだろう。伝えたいことはたくさんある。だけど……と、ユウは心をセーブする。そんな希望、アテにはならない。こんな偶然があるはずがない。いらぬ期待をすれば、人違いだったと分かった時に悲しいだろう。そんな思いが邪魔をした。

「そうか、ありがとう。君とその人は、どういう関係だったんだい?」

 バンダナちゃんは少し考えて、

「エンヴァラで私のお世話をしてくれました。黙ってエンヴァラを出てきちゃったから、悲しんでいるかもしれないです」

 ユウは「そうなんだ」と頷いた。ちょっと見かけた程度だろうと思ったが、思っていたより深い付き合いがあるようだ。

「生まれたばかりのドールは何もできません。例えば言語のデータを組み込まないと喋ることもできません。他にもいろいろな試験や調整を受けて完成します。その人がそういう面倒を見てくれたんです。それに……」

 と言いかけてバンダナちゃんは口を止めた。

「あ、ごめんなさい、喋りすぎました」

 ユウの表情がにわかにくもったのを見たからだろう。こうして話しているとバンダナちゃんが人間だと錯覚してしまうから、彼女の話す言葉が時々違和感をまとう。「完成」とは何だろうか、と。いずれにせよ、その人物がドールに関わりのある仕事をしていたのはどうやら確からしい。

「エンヴァラの、どこだい?」

「コルツォ社の第五開発棟です。生まれ故郷と呼ぶには……複雑な気持ちです」

 コルツォ社か……と心の中で反芻して言葉を飲み込んだ。ドールという存在が何なのか分からないが、何かしら超越的な技術が関わっているのだろう。コルツォ社は計り知れない技術を持ちながら、黒い噂を引き摺っている超大企業だ。

 ドールたちの言う「生まれ故郷」とは何なのか。もしそこにいるのが母なら、一体何をしているのか。ますます謎が深まってしまった。

「バンダナちゃんは、そこで生まれたの?」

「はい」

 バンダナちゃんは少しためらってから、一呼吸おいて重ねた。

「私たちは、その、人間のような見た目をしていますが、機械なんです」

「機械、か……」

「ひょっとすると、気味の悪いことかもしれません」

 バンダナちゃんは、どうか嫌わないでほしいと哀願するような目をしていた。

 ユウはそっと彼女の頭に手をのせた。

「大丈夫だよ。例え君が何であれ、僕らは友達じゃないか」

 バンダナちゃんはほっとしたような顔をした。それがとても可愛かった。


 ――もしかしたら。

 ユウは、ふつふつと葛藤が沸き起こるのを感じた。

 母はエンヴァラで何かの研究者をしていたと聞いたことがある。

 バンダナちゃんが言うその人が母かもしれない。違うかもしれない。だからと言って他にアテがあるか?何にせよ時間が無い。母にどうしても伝えたいことがある。

 ――父さんがもうすぐ死ぬ。その日まであと二十日はつか。伝えなければ。少しでも希望があるなら、賭けてみたい。期待が外れた時のガッカリがなんだ。

 胸が高鳴った。すぐに机の引き出しから便箋びんせんを一枚取り出した。バンダナちゃんはそれを不思議そうに眺める。

「手紙を書こうと思うんだ。その人が、本当に母さんなら」

 住所も何も分からない。普通の手段ではアクセスできない。けれど今度アーシャがエンヴァラへ行くと言っていた。エンヴァラならどこかからコルツォ社につながるのは容易なはずだ。アーシャに届けてもらえば、その人物に手紙が渡るに違いない。


 ――

 シェーラ・ウィナ様 お元気でしょうか。私はあなたの息子、ユウ・ウィナです。

 ――


 と書き始めて、一体何から伝えればいいか迷ってしまう。

 本当に母じゃなかったら失礼に当たるから、一筆言い訳を添えておくべきだろうか。突然手紙を出したことやその経緯は話すべきだろうか。よしんば母だとしても、父が事故に遭ったことさえも知らないかもしれない。

 伝えたいことがありすぎて、便箋一枚じゃ収まらないかもしれない。まだ余白だらけの紙が狭く思えて、そんな自分に苦笑した。まるで恋をしているかのようだ。

「手紙、ですかぁ」

 関心ありげにバンダナちゃんが覗き込む。急に照れ臭くなって、

「見ないでよ」

 とユウは手で隠した。

「いいじゃないですかぁ」

 バンダナちゃんは面白そうな顔でユウの両肩に手をのせくっついてくる。ドールと言えど女の子だ。こうも無邪気に接近されると焦ってしまう。

「そ、そうだ。バンダナちゃん、今のうちにお風呂に入ってきなよ」

「お風呂?」

 バンダナちゃんがきょとんとした。

「そっか、まだ案内してなかったね」

 ユウは書きかけの手紙を置いて部屋を出た。……よし、例の女中じょちゅうはいない。とユウは頷く。


 壁付けの燭台しょくだいがいくつかあるだけで廊下の照明は弱々しく、一番奥の方は暗くてよく見えない。魔物が潜んでいると言われても納得してしまいそうだ。

「お風呂は共同でね。他の人が使ってたら待たなきゃいけないんだ」

 歩くたびに軋む廊下をゆっくり行くと、真ん中に大きな引き戸がある。夜中には戸の隙間からオレンジの光が漏れている。

「ここだよ。今は誰も使ってないみたいだね」

 柱にピン止めされている予約表を指さす。

「ここに名前を書いて予約しておくんだ。この枠が一つで三十分になってる。二つ名前を書いておけば一時間使えるってことだからね。三つ書くと怒られるらしいよ」

「なるほど」

 とバンダナちゃんは頷き、思い切り手を伸ばしてどうにか届く予約表にヨレヨレの字で「バンダナ」と書く。

 バンダナが名前のような扱いになっていることがおかしくて、ユウはちょっと笑ってしまった。そう言えばこの子にはまだ名前が無いんだな、と改めて思い出す。

 この子はバンダナを付けているからバンダナちゃん。それでいいじゃないか。そう思うことにした。

「ここを開けると、脱衣所になってて――」

 さらに進んで、刷りガラスの引き戸を開ける。

「これがお風呂場ね」

 狭いながらも浴槽があり、夕方四時から夜の十時まで、二時間おきに一日四回沸かしてお湯を継ぎ足すので、浴槽は湯が常に温かく張っている。床は少し黒ずんだタイルで、同じく少し黒ずんだ木製の小さなスノコが一枚敷いてある。

「おぉー」

 とバンダナちゃんは先ほどユウの手紙に興味を持っていたことなどすっかり忘れて感嘆の声を漏らした。

 バンダナちゃんはそのままお風呂へ。ユウは小さくガッツポーズをして、今のうちに手紙を書いてしまうことにした。

 速足で部屋に戻り、もう一度便箋と向き合う。


 ――

 貴女と父が別れた後の話です。今から二年と十一ヶ月前、父は海難事故に遭いました。

 自分の身をかえりみず人を助けようとして意識を失い、今に至ります。

 私はそんな父を誇りに思っています。間違っていたとは思いません。

 ――


 そこまで書いて、椅子の背もたれに体重を預けてため息をつく。

 エンヴァラで、コルツォ社で、日がな一日数字か何かとにらめっこしながら何かの研究をしているのが母なら、一体どんな人物なのだろう。

 ドールのような機械よりも、もっと機械のような人なのだろうか。

 ――機械……?

 ユウはじっと天井を見つめた。そしてその目がカッと見開いた。

 ――大変だ!

 ユウは慌てて部屋を出た。


 こんな単純なことになぜ気付かなかったのだろうか。精密な機械は水に弱い。もしもこの間のようにバンダナちゃんが気を失ったらどうする。自分には助けられないじゃないか!まだ今なら間に合うはずだ。ユウは廊下をドカドカと走り、引き戸を思い切り開けた。

「バンダナちゃん!待つんだ!」

 バンダナちゃんは服を脱いで、それを丁寧にたたんでいる最中だった。いきなり引き戸を開けたユウにぎょっとしていた。

 硬直が一秒、二秒、そして

「びにゃあああーーッ!」

 バンダナちゃんが前衛的な悲鳴を上げた。

「わぁあああーーッ!」

 ユウも早まってしまったと叫んで戸を閉めた。

「ごめっ、ごめんよバンダナちゃん!あのっ、まだ脱衣所にいるとは思わなくて!」

 ユウは顔を真っ赤にして弁解するが、バンダナちゃんはまだ何も答えてくれない。

 さっき別れてから十分は経ったのにどうして彼女がまだ脱衣所にいたのか?答えは簡単だ。バンダナちゃんは興味を持つとまずいろんな角度から観察する。入ったことのない部屋や見たことのない物はとりあえずひたすら観察する。好奇心の塊なのだ。どうやら今回も散々見て回っていいだけ楽しんだ後に、さあ今からお風呂に入るぞという最悪のタイミングでユウが入ったらしい。

「いや、その、ね?君ってほら、機械、でしょ……。お風呂なんかに入ったら大変なことになるんじゃないかと……悪気はなかったんだよ」

「うぅ……」

 小さな呻きが聞こえた。

「せきにん、とってくださいね」

 バンダナちゃんはさりげなく恐ろしいことを言った。不注意とはいえ何てことをしてしまったんだとユウは落胆する。ただ謝るしかない。ところが、

「せきにんとってけっこんしてくださいね……」

 ……なぜ結婚?恋愛小説にそんな台詞があったのだろうか。

「ね、ねえ……バンダナちゃんは、お風呂とか、平気なの?」

「え?はい、大丈夫です」

「なんだ……そうなのか」

 背中で引き戸にもたれかかっていたユウは、安堵のため息とともにずるずると腰を落とした。

「アーシャさんとよく一緒に入ってます」

 ……ちょっと想像してしまった。だが、こんな事考えちゃいけないと首をぶんぶん振ってごまかす。

「僕の早とちりだったよ。ごめん……」

「あの、ユウさんなら、話しても大丈夫かなって思います」

「何だい?」

「私たち、本当は「ガーディアンドール」っていいます」

「ガーディアン……」

 そう言えば昨日アーシャが「私にはガーディアンがいる」とか言っていたが、そういうことだったのかと納得した。

「人を護って、助けるのがガーディアンドールです」

 そう言ってバンダナちゃんはくすっと笑った。

「そんなガーディアンが、水が苦手だったら、おぼれている人を助けられないじゃないですか」

「なるほど、そりゃあそうだ」

 ちょっと安心した。

「その、さっきは本当にごめんね。うん。ゆっくりお風呂に入ってていいからね」

 ユウは苦笑いで逃げるように立ち去った。いや、立ち去ろうとしたその時だ。

「ユウさん」

「だああああああッ!」

 暗がりの中で目の前に顔が現れた。また例の女中だ。何で本当にいきなり目の前に現れるんだ。

「そんなに大声で怖がらないでください」

 無茶を言うな、とユウは心臓を押さえる。

「覗きなんて最低ですね」

 ゴミを見るような目で女中に蔑まれた。

「違う!誤解だから!」

「百歩譲って誤解だとしましょう」

「百歩譲らなくても誤解だって!」

「夜中に大声を出されては他の方にご迷惑が掛かりますので、夜の廊下ではお静かに願います」

 確かに正論だ。正論なのだが、大声を出した原因の一つは君だ、と言ってやりたい。女中は言いたいだけ言った後ひたひたと廊下を歩いて行った。

 今日は厄日やくびだ。部屋で静かにしていよう。ユウはみたび机に向かって手紙を書き始めた。


 ――

 父は今でも目を覚ましませんが、生きています。

 すっかり見る影もなく痩せてしまいましたが、それは生きている証です。

 しかし、法律の上では父がもうすぐ死ぬことになります。

 悔しいですが、とむらわなければなりません。

 どうかその前にイークダッドへ来て――


 そこまで書いたところで立ち上がった。バンダナちゃんが湯冷めしないようにスープを作ってあげるのもいいだろう。

 小さな鍋に水を汲んだ。よく磨いた炎晶石えんしょうせきをコンロに五つ並べ、マッチで火をつける。コンソメの粉をスプーンでざっと入れて、調理台で玉ねぎをみじん切りに刻んで入れる。

 また机に戻って、鍋が噴きこぼれないようにちらちらと目を配りながら、手紙の文面を考えた。

 スープがいいだけ温まったころ、バンダナちゃんがドアを開けて戻ってきた。

「やあ、お湯はどうだった?」

「ええ、とってもよかったですよ」

 ユウは急いで炎晶石の火を消した。バンダナちゃんは炎晶石で頭痛が起きる珍しい体質らしいから、それに気を配ったのだ。

「どう?スープを作ったんだけど、バン――」

 ユウは言いかけて、とても大変なことに気が付いた。

「スープですか?」

 彼女は顔をほころばせた。しかし――

「――ちゃん」

 ユウはどう呼んでいいか分からない。お風呂上がりの彼女はバンダナをつけていない。水分を含んでつやつやの黒髪は何も身に着けていない。すなわち、バンダナちゃんとは呼べないのだ!

「ちゃん?」

 彼女はきょとんとして首を傾げた。

 ――なんてことだ。バンダナちゃんからバンダナをとったら「ちゃん」以外に何も残らないじゃないか!

「スープ、……飲む?」

 呼べない。呼ぶわけにはいかない!バンダナを付けているからバンダナちゃんなら、バンダナを付けていないのに「バンダナちゃん」とは呼べないのだ!ああなんということだ!

「あ、でも、その前にほら、ね。バンダナを」

 しかし――ちゃんは

「髪が乾いてからじゃないと……」

 眉根が寄って困った表情をした。ごもっともだ。濡れたままの髪にバンダナを巻いたりしたらぐずぐずになってしまうに違いない。

「ええい、こうなったら!」

 ユウは最後の切り札とばかりに乾いたタオルを一枚素早く取り出した。早く彼女にバンダナを付けてもらわないと困る!

 ユウは――ちゃんの後ろに回り込むと両手に持ったタオルで――ちゃんの頭を後ろからつかむ。ガシガシとすごい勢いで拭きあげていく。

「わああああ……」

 ――ちゃんが変な声を上げるが気にしてはいけない。一刻も早く彼女にバンダナを付けてもらわなければならないのだ!

「髪が~ぐしゃぐしゃにぃぃ~」

 ……などとくだらないやり取りをやっているとスープが冷めてしまう。ユウは炎晶石を黒布に包んで戸棚にしまった。

 マグカップにスープを注いで、テーブルで向かい合うようにカップを置いて座った。

「よし、と」

 バンダナちゃんは小さな鏡を見ながら髪の後ろで黄色のバンダナをきゅっと結んだ。ようやく「バンダナちゃん」が戻ってきた。ユウはほっとため息をつく。


「ユウさん、私もお手紙書きたいです。紙をもらってもいいですか?」

「ん?いいよ。誰に送るんだい?」

「知りたいですかぁ?」

 バンダナちゃんは楽しそうに聞いた。

「うん、知りたいな」

「へへぇっ、内緒でーす。ユウさんだってお手紙見せてくれないもん」

 そう小憎たらしいイントネーションで言って、無邪気な笑顔でスープを飲む。

「ま、いいよ。この紙と、ペンはこれを使ってね」

「二枚ほしい!」

 贅沢なことを言うなぁ、と思いつつ、「分かったよ」とユウは二枚目の便箋を差し出した。


 こんなに遅くまで誰かと話をしていたのなんていつ以来だろう、孤児院にいた頃は寝付けない夜も多く、シスター・ミラがよく話し相手になってくれた。誰かと暮らすのもきっと悪くない。お風呂でそんなことを考えていた。

 ユウがお風呂から帰ってくると、バンダナちゃんはソファに寝転がったままたどたどしく手紙を書いていた。遠くから見る分には何を書いているか分からないが、文字のバランスが取れていない所がいかにも子供らしくて微笑ましい。覗き込むなんて野暮だな、とユウは机の椅子に腰かけた。

 アーシャはバンダナちゃんにぺっちゃんこのソファで寝なさいと言ったものの、ユウはそれが可哀想でできなかった。布団やシーツは時々女中さんが変えてくれるものの、ソファは汚いままだ。そんなところに女の子を寝かせるわけにはいかない。

「ベッドで寝なよ、バンダナちゃん」

 とユウはソファで横になった。

 まだ手紙を書き終えてはいないが、眠くなってきた。

「バンダナちゃん、そろそろ寝ようよ」

「まだ、もうちょっと」

 バンダナちゃんは便箋に向かって頑張っている。手の動きが途切れない所を見ると書きたいことはたくさんあるのだろう。果たして彼女が手紙を出したい相手とはだれなのか。ユウは想像で楽しむことにした。

 クッションを枕に、コートを布団代わりにしていると、いつの間にか眠ってしまった。


          ◇◆◇


 ある夜、いつもの赤い尖った屋根の上で、いじわるなライゼが言った。

「あのなぁ、エンゲージってのは恋とか結婚とかそんな甘いもんじゃねえんだよ」

 バンダナちゃんはライゼをじろっとにらむ。

「私はそう思うもん」

「お前は人間になりたいのか、それともエンゲージがしたいのか、どっちなんだ」

 いじわるなライゼが聞いた。

「え?そんなの、ど――」

「どっちもってのはナシだからな」

 そう言うと思ったぜ、みたいな顔をしながらいじわるなライゼはため息をついた。

「なんで」

「一ついいこと教えといてやるよ」

 いじわるなライゼは「いいこと」を一つしか教えてくれない。

「エンゲージをすると、お前は絶対に人間になれない」

 しかも「いいこと」じゃなかった。

「なんで」

 エンゲージをしたことないくせに、何でそんなこと言えるの。とバンダナちゃんはむっとした。

「エンゲージってのはな、一生そいつについてくってことだろ」

「そうだよ」

「そいつの命令には絶対に従う。自分の身を捨ててもそいつのことを守る」

「そうだよ」

「例えそいつがどんなクズ野郎でもだ。自分に選ぶ権利はない。これが人間か?」

「……」

「それは人間の道具になるってことなんだよ」

 バンダナちゃんは遠くを見た。ライゼの言うこともそうかもしれない。でもなんだか返事をすると負けみたいな気がするのだ。

「だからな、101」

 ライゼは相変わらず、「バンダナちゃん」とは呼んでくれない。

「お前は一生、誰ともエンゲージをするな。俺みたいに、自分で自分に名前を付けて生きれば少しは人間らしくなれる」

 ライゼはいじわるだけど、いろんなことを心配してくれる。妹を心配する兄のような眼差しだ。その心配りが分かるから、かえってつらい。バンダナちゃんは101番目のドールで、ライゼが57番目のドールだから、ライゼは自分の方がお兄さんだと思っているのかもしれない。

 バンダナちゃんは長い沈黙を置いて、「決めないでよ、私のこと」小さくつぶやいた。


          ◇◆◇


 翌朝の寒さは鋭く強烈だった。カーペットも敷いていない木の床が足の皮膚を刺すかのようだ。呻きながら起き上がって窓の外を眺めると、「なるほど」と頷けた。

 外が真っ白に染まっていた。夜の間に降り始めた雪が、今なお止んでいない。暦の上では今はまだ秋。しかし、イークダッドの雪の降り始めは早い。

「ほわー!」

 遅れて目を覚ましたバンダナちゃんは不思議な声を上げた。

「雪!雪ですね!初めて見ました!」

 朝からテンションがぐんぐん上がっていくバンダナちゃん。

 炎晶石に火をつけようかとも思ったが、隣にバンダナちゃんがいるので思いとどまった。今まで布団代わりにしていた外出用のコートを羽織って縮こまり、太ももを擦って暖を取る。

「特に寒いねぇ今日は」

「寒い、ですか」

 バンダナちゃんがきょとんとした声を出す。

「今、寒いんですね」

 ちょっと寂しそうだった。

「そうだね、雪は寒い日にだけ降るんだ。これからどんどん寒くなっていく。来月になると港だって凍ると思う」

 バンダナちゃんの表情は思わしくなかった。

「ごめんなさい。せっかく立派なコートを買ってもらったのに、その……」

「……ドールは、寒さを感じないんだね」

 ユウは優しく言った。

「でも気にすること無いよ。うらやましいな」

 ユウは苦笑いした。バンダナちゃんは複雑な顔だ。

 ユウは窓際に立って、右から左まで舐めるように視線を滑らせて、

「今日はミシェルだ」

 ぽつりと言った。

「ミシェル?」

「初雪のことをイークダッドではミシェルって言うんだ。昔から、ミシェルは幸運が形になって天から降ってきたもの、とか、ミシェルの日には良いことがあるって言われてるんだ」

「へぇぇ~」

 バンダナちゃんは愉快そうな目をして、雪を降らせ続けている空を見上げた。

 手紙の続きを書こうかと思ったが、手がかじかむし、インクの出も悪い。ペンを引くたびに掠れる線を見てだんだんイライラしてきた。せっかくの休日なのに何も捗らないじゃないか。とユウはぶすくれる。

 バンダナちゃんはと言えば窓からずっと外を眺めている。もう一時間もだ。時々、外に野生のチポリが見えた、ミシェルのおかげだとか言ってはしゃいでいる。

 今度は外で宿の女将さんが雪かきしているのを見てアレは何をやってるのかと聞いてきたり、雪を食べたらどんな味がするのか。これだけ積もった雪は最後にどうなるのか。とにかくいろんなことを聞いてくる。

 バンダナちゃんがうずうずしているのが分かるから、ユウは観念して外に彼女を連れだしてみた。二インチほど、つまり足首ぐらいの高さまで雪が積もっている。乾いたサラサラの雪は踏みしめるたびにサクサクと音を立てた。

 囲いの柵が無ければ、道路がどこにあったかさえ分からなくなるほど真っ白だ。

「ほひょーっ!うぉー!」

 バンダナちゃんは奇抜な声を上げながら雪を丸めて楽しんでいた。飽きることなく一人でずっと遊んでいられるところが、子供ってすごいなぁ、と感心せずにはいられない。

 じっと見ているだけでは面白くないな。とユウも一緒になって雪玉を作り始めた。ふわふわした雪が羽毛のように軽い。

「いくよ、バンダナちゃん」

 声をかけて、雪玉を軽く投げる。

 バンダナちゃんは「ほっ!」と掛け声を上げて俊敏な動きでかわして見せた。ガーディアンドールおそるべし。

「じゃあ、私も行きますよぉー……」

 反撃とばかりにバンダナちゃんは力を溜めに溜めて、

「でいッ!」

 ものすごい勢いで雪玉をブン投げる。……が、勢いが強すぎて雪玉は空中分解してぱらぱらと飛び散ってしまった。

「ははは、甘いねバンダナちゃん。まず雪玉づくりをしっかりしておかないとダメなんだ」

「むー」

 バンダナちゃんはくやしそうに雪玉をぎゅうぎゅうと握る。おまけにパンパンと叩いて一所懸命に固めている。そんなに執念深くやらなくてもいいじゃないかとユウは焦る。

 しかもそれを、思い切り振りかぶって投げようとしている。また力を溜めに溜めて……としている間にユウが投げた雪玉がバンダナちゃんの顔に当たった。

「はぶ!」

「はっはっは、ざんねん、隙だらけだったね」

 ユウは意地悪く笑う。

「むー!」

 バンダナちゃんは後れを取るまいと「質より量」の作戦に切り替えて雪玉をたくさん作り始めた。

 そんな遊びで一時間は過ごしただろうか。バンダナちゃんはもっと雪合戦を続けたそうだったが、ユウの方が飽きてしまった。

「そうそう、毎年ミシェルの日は近くのパン屋が大安売りをやってくれるんだ。ハッピーミシェル・デイって言ってね」

「あっ、いいですね!」


 まだ朝ご飯も食べていない二人が通りへ向かうとパン屋は長蛇ちょうだの列。角を曲がった先まで続いていた。みんな考えることは同じだ。化粧の厚い婦人や、農業か林業をやっているような体格のいい男もいる。それらがとにかくみんな、分厚いコートや毛糸の帽子で寒さ対策をしっかりしているから、誰もかれもがっしりして見える。

 長い長い待ち時間も二人で話をしているとあっという間だった。とくに話題が思いつかなくても、バンダナちゃんがあれこれ質問してくるものだから会話は尽きない。

 暖かい店内に入ると、思った通り「ハッピーミシェル・デイ」と書かれた看板が天井からぶらさがっている。これが毎年の使い回しなのも知っている。日持ちのする大きなバゲットを四本、それから今食べる分として肉や葉野菜を挟んだパンを二つ買った。それでほぼ半額の七ペール。驚きの安さだ。貧困苦学生としてはやはりこの日は見逃せない。

 通りでパンをかじりながら歩いて、ほかに楽しいことはないだろうかと考える。

 「あ」と思わず声が漏れて立ち止まる。ユウはふと思い出した。

「そうだ、こんな日は……」

 バンダナちゃんもパンをくわえたままユウを見上げた。

「寒さを感じない君でも、それがどういうものか分かるオススメの場所があるんだ」

「え?それってどんな所なんですか?」

 思った通り、バンダナちゃんは興味津々だ。


 イークダッドにはずっと南の方へ行くと、不名誉な観光名所と呼ばれる場所がある。それがマイネルマース鉱山跡。ユウはバンダナちゃんにそれを見せてあげようと思ったのだ。

 百年以上前から、石炭も魔晶石も、そして少量の銀やイオウも採れる夢のような鉱山として、近くに集落まで作られるほどに賑わった。かつてのイークダッド王国の造幣ぞうへいや軍備を底堅く支えた鉱山だった。

 だが、今から五十年ほど前に事故による出火があり、坑内火災が起きた。どうやっても鎮火することは出来ずに鉱山はやむなく放棄され、その火は五十年経った今でも中で燃え続けているという。

 内部で火が燃え続けていることは、その上だけ草も生えず、雪も積もらず、地面がほのかに温かいことからも分かる。雪の日は内部の鉱山の道筋に沿ってくっきりと雪の積もらない道が出来ることから、地元では「火の道」と呼ばれている。

 マイネルマース鉱山の内部は危険なため立ち入り禁止とされているが、「火の道」は今や外国にも知られるほど有名だ。逞しいイークダッド人は、鉱物資源が採れないのなら観光資源にしてしまえ、と言わんばかりに看板まで立ててしまって、観光客用の宿を構える人まで出ている。

 もう少し冬らしい天気が続くと人がやってくるだろうが、今日はたまたま降った初雪ミシェルだから観光客もそんなにいないはずだ。

 西イークダッド駅からわずか二ペールの切符。マイネルマース行の汽車に揺られること一時間と三十分。バンダナちゃんは汽車の窓を流れていく景色を存分に楽しんでいた。何を見ても楽しそうに笑っているところがとてもうらやましい。途中でほとんど雪の降っていない地域もあったから心配はしていたが、鉱山周辺ではまた少し雪が積もっていたようなので安心した。

「今からずーっと大昔に二つの山がぶつかって、この鉱山が出来たんだって。だからいろんな種類の鉱物が見つかるんだそうだよ」

「へぇー」

 バンダナちゃんは難しい話は右から左だ、と言わんばかりに窓の外に夢中で、革張りのシートに両膝を突いて、つま先をぶらぶらさせていた。


 駅を降りると何人か先客を見かけた。風体ふうていからどうやら地元の人らしいのが分かる。こんな場所は外国からの観光客なら物珍しさで見たくもなるだろうが、地元の人間が訪れるのはせいぜい初雪の日ぐらいのもので、ああ今年もミシェルが来て、冬が訪れたんだな、と実感だけして終わる。あまりにも身近すぎて、観光気分も失せるのだ。

 少し山道を登ると、遠くの方でかすかに白いもや煙が立ち上っているのが見えた。一見すると温泉の湯気のようでもあるが、空気より重いためか、窪地くぼちになっている辺りでは長くとどまって地面にかすみをかける。これは地面の脆い隙間からどこからともなく染み出す鉱山の煙だ。

「そうそう、この先だね」

 立て看板を見ながらユウが言った。結局地元の人間もそうそう訪れる場所ではないから、看板が無ければ人を案内できないほど、道に詳しくはなかったりするものだ。

 この鉱山の火事を鎮火しようとすれば、坑道全体を水びたしにしなければならないそうだが、そこまでの水を使うには莫大なコストがかかる上、付近が土砂災害に見舞われるのは確実だという。

 もっとも、付近一帯はガラガラのゴーストタウンと化しているから、土砂でつぶれてしまったとしても差し支えはないのだが、この鉱山から外までは延焼することはないと分かってから、州政府は全くそんな動きを見せなくなった。自然発生的に観光名所になってしまったのだから、放っておくほうが得だと判断したのだろう。期せずして、むべき火災の歴史が恵みの火に変わってしまったわけだ。


「あ、ユウ」

 ……そこで問題が一つある。どうしてこう行く先々でアーシャと出会うのだろう。思考パターンが似ているのだろうか。ユウは頭を抱えた。

「あんたもミシェルだから来たの?まあここじゃ金もかからないしいい見物みものになるからね」

 考えることはみんな同じね、とでも言いたげな顔でアーシャが笑う。少し悔しい。

「まあね。ドールは寒さが分からないって言うじゃないか。だから、これを見せてあげたかったんだ」

「あぁ、そゆこと」

「おーっ……おおおーっ!」

 バンダナちゃんは「おお」だけで喜びを表現しだした。

 一面が白い雪道の中に、くっきりと山肌が見える「火の道」が浮かび上がっていた。

「この鉱山の中は昔火事になったんだ。それから五十年間、火が消えずにずうっと燃え続けている。ほら見てごらん。あそこは雪が積もってないでしょ。下に火があるからあそこだけ暖かくなってて、雪がすぐ溶けるから積もらないのさ」

 本当なら立ち入り禁止になっている山頂付近まで行くと、地面と坑道の幅が大きくなるためか、火の道は途中で途切れて見えなくなる。

「上まで行ってみようか、バンダナちゃん。実はこの火の道は反対側に行くとまた見えるようになるんだよ。すごいよ」

「あっ、行きます行きます!」

 二人は山道をずんずんと登っていく。それを見たアーシャはくすっと笑った。

「ふーむ、作戦成功ね」

「何がだ」

 ライゼが小さく尋ねた。

「バンダナちゃん、あんなに仲良くなってるじゃない」

「アイツは警戒心は強いが、大体誰とでも仲良くなれる。……ほら、いいからさっさと飲んじまえよその紅茶。冷めるぞ」

「ユウもいい気晴らしになったみたいで良かったわ」

「俺は心配なんだよな。アイツが勝手にエンゲージしてしまいそうで」

「その心配ならないわよ、特にユウはね」

「何でそう思う?」

「ド貧乏でしょ、ユウ。自分が食ってくのに必死なアイツがバンダナちゃんを養う余裕なんて無いんだから、軽はずみなことはしないでしょ」

「……なるほど、そりゃ論理的だ」

「じゃあ私たちも上行ってみようか」

「めんどくさい」

「アァ?」

「……なんでもねえよ」


 アーシャたちがゆっくりとユウを追い始めた時だった。

 突然ライゼが声をあげた。

「アーシャ!しゃがめ!」

「え?」

「何でもいいから近くの木をつかんでろ!」

「何なのよ急に!」

 それと同時、バンダナちゃんもユウに言った。

「ユウさん!大きな地震が来ます!」

「地震?」

 そんなわけないだろう、とユウは苦笑する。イークダッドは地震が滅多に起こらない。

 だがそれから五秒、六秒と経ったところで、下から突き上げるような衝撃を受け、続いて立っているのが難しくなるほど大きな横揺れを足元から感じた。ユウにとってはいまだかつて経験したこと無いほどの大地震だ。

「うおっ、わっ!」

 バランスを崩して転びそうになるユウの腕をバンダナちゃんが支えた。

「ユウさん!」

 十秒以上続く長い揺れがようやく収まって、ユウはため息をついた。

「あ、ありが――」

 ユウはお礼を言おうとした途端、視界が低くなるのを感じた。

 雪で隠れていた坑道の長い通気口が地震で崩れた。薄い板でしかなかった通気口の蓋が割れたらしく、ユウの身体が飲み込まれた。一瞬足に地面の感触を感じて、舌を噛みそうになりながら踏ん張ってみた。

「うおっ!」

 だがそれは通気口のために長く斜めに切り欠いた筒形の壁だった。蹴飛ばそうにも足がずるりと滑る。ユウの手首をつかんだままのバンダナちゃんも一緒に、引きずり込まれるように穴を滑り落ちていった。

「ユウ……?」

 地上のアーシャは何が起こったのか分からず、呆然とした。

「地割れか?」

 ライゼも急いで坂道を駆けあがった。

 そこには二人を飲み込んだ大きな穴があるだけだった。

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