第6話【小さな希望】

 見上げれば紺色の夜空に、真っ黒なウロコ雲が浮かんでいるのが薄ぼんやりと見える。まだ秋の空だが、北から気の早い冬風がやってきたらしい。昨日の祭りの熱気が嘘のようだ。祭り終いは冬始め。イークダッドに伝わるこの言葉も、あながち非科学的な経験則と笑うことは出来ないようだ。

 人間はドールに比べ温度変化に敏感だ。南国生まれのアーシャが言うには、もう冬が近いから寒くて仕方がないらしい。逆にイークダッド生まれのユウが言うには「こんなのはまだ序の口」だそうだ。

 最近はいつものように窓を開けて屋根の上に行くと、中のアーシャが「ちゃんと閉めないと寒いでしょ」と文句を言ってくる。隙間が残ってしまうことはままあるが、ライゼはきちんと閉めていく方だ。しかし相棒の101ワンゼロワンは靴下を脱ぎっぱなしにするかのごとく窓も開けっぱなし。そしてアーシャが上に向かって上げた怒声で気付かされる。

「また言われてるぜ?この間なんて窓に鍵かけられたんだからな」

「ごめんごめん」

「人間ってのは不便だな。気温が十度、二十度動いただけで大騒ぎする」

「私たちだって気温が下がると動きにくくなるよ。それが寒いってことなのかな?」

「さあ。俺に聞くなよ。まあでも、ここまで人間そっくりに作っておきながら、暑いとか寒いを感じないようにしたのは何でだろうな」

 そう言ってみた後で、ライゼは自分の中で結論を出せた。単純じゃないか。ドールは所詮兵器だ。痛覚は敵の攻撃を素早く察知するのに必要かもしれない。でも、暑い、寒い、それは戦場に必要のないものだ。むしろ、士気に影響が出るリスクの方が大きいだろう。

「ホントだ!なんでだろうね」

 びっくりした顔で101ワンゼロワンが言った。

 そうだ、コイツはこれぐらい単純な方が似合っている。嘘をつくのも下手くそで、純粋で、人を疑わない。出来るなら一生答えを知らなくていい。

「きっとさ、そんなもん無い方がいいんだよ」

「そう?」

「暑くて幸せ、寒くて幸せ、そんなこと言うヤツなんていないだろ」

「あっ。確かに」

 それでストンと腑に落ちた、と言いたげな笑顔だ。

「でも私は――」

 101ワンゼロワンは人差し指を唇の下に当てた。そして快活な笑顔を向けてくる。向けられたライゼの方はいつものぶすくれ顔だ。

「私は、暑いとか、寒いとか、感じてみたいな」

「無理だろ。物理的に」

「だって、人間が寒いときに、あ、今寒いんだなって、気が付いてあげられるでしょ。ガーディアンだからこそ、そういうのって大事だと思うの」

 そう言って笑った。話を聞いてない。

「測定はできるだろ。気温だろうが体温だろうが」

「違う、そういうのじゃない」

 何が違うのか知らないが、101ワンゼロワンは面白くなさそうな目をした。まだ本当に自分が人間になれると思っている。夢の見過ぎだ。


 雪国イークダッドの屋根は急傾斜だが、出窓の上の座り心地はなかなかのものだ。ライゼがごろんと硬い屋根瓦の上に寝転がる。

 せっかくリラックスしていたのに、静寂は一分ともたなかった。

「ねえ、恋って、どんな気持ちなのかな」

 また101ワンゼロワンが唐突に話を切り出した。何なんだ、さっきまでの話は前菜か。今日は豪華二本立てか。あまりの脈絡のなさにライゼはうんざりする。

「知るかよ」

「きっと、私たちのエンゲージって、恋と似ていると思うんだ」

「そうかい。そりゃまた何で」

 エンゲージ。自分にも無関係でない単語が出てきたものだから、ライゼも少しは興味がわく。

「誰か一人としか出来ないでしょ、エンゲージ。一生その人についていく。そんな気持ちになるんじゃないかなぁ」

「そりゃ恋じゃなくて結婚だ」

「じゃあ私たちの恋はどこにあるのかな?」

「知らねぇよ」

「うーん。難しいなぁ」

 101ワンゼロワンが考え込むので、ライゼはちょっと意地悪を言ってやる。

「じゃあ例えばだ。俺とユウがエンゲージしたらどうなるんだ?男同士で恋なんてしねえだろ」

「するもん!」

 101は火が付いたように声を上げた。

「いや何言ってんだお前」

「ええと、アレよ!……ぼ……!」

 「ぼ」ってなんだ。101ワンゼロワンはもうちょっとで出てくる言葉を必死に思い出そうとしている。

「ぼーいずらぶ!」

 よし決めた。アーシャの姉の部屋にある本を全部捨てよう。


「でもね、エンゲージをするのに、お互いが好きってこと大事だと思わない?」

「そりゃ当たり前だろ。お互いが嫌いでエンゲージなんてしないさ」

「ひょっとすると、それが恋かもしれないね」

 また相棒が変なことを言い出した。おまけに同意を求めてくる。返事を返せばこの話は長引きそうだ。そんな罠には引っかからないぞ、とライゼはだんまりを決め込んだ。

「ライゼってアーシャさんとエンゲージしたんでしょ」

 身に覚えがない、とライゼは眉をしかめる。

「してねえよ」

 ライゼのだんまりは十秒と続かなかった。

「したでしょ。だって昨日、「うちのマスター」って言った!」

 そういえば言った。その場のノリと勢いだけで。ライゼは答えに詰まる。

「はぁっ?い、言ってねえし!」

 無かったことにしたい。

「言ーいーまーしーたー。ねえライゼって、アーシャさんのこと好き?好きなの?」

 急にいたずらっ子の目になった。まるで子供みたいにはしゃぐ。……いや、実際子供だ。

「あのなぁ、じゃあ何で俺はお前のこと覚えてるんだ?」

 101ワンゼロワンが固まった。長い沈黙の後「あ、そっか」と小さな言葉を漏らす。

 そして「なぁ~んだ」と両足を投げ出してべったりと座った。

「じゃあなんでライゼ、「マスター」なんて言ったの?」

 懲りない。この問答は終わるのか?ライゼは途方に暮れた。

「言ってねえ」

 しばらく、この水掛け論が続いた。


          ◇◆◇


「アーシャ、お前が無事で本当に良かった」

 ドニュオスはアーシャを抱きしめた。

「うん、わかったから」

 実はこれで四回目だ。しかも三日連続になる。アーシャの目がすでに冷え切っていた。

 父ドニュオスはなかなかの子煩悩。とりわけ末っ子のアーシャに対する愛情は深かった。

「アイツらは二度と刑務所から出られないようにしてやるからな。安心してくれ。絶対に許さんぞ」

「うん、それも五回ぐらい聞いたわ」

「私の可愛いアーシャの腕にこんなケガをさせおってぇぇ」

 言いながら腕を擦ってくる父の手を振り払って「あー気持ち悪いなァもうっ!」とアーシャがしびれを切らす。しかもそんなに深い傷ではない。ちょっと血が出た程度だ。もうカサブタで固まっている。

 つい二日前、アーシャが誘拐されそうになり、ケガを負わされながらも犯人を返り討ちにして、辛うじて逃げ切った。その事件はまだ父の心に深い傷を負わせていたようだ。祭りの後の高揚感があっという間に吹き飛んで、今は報復に燃える父となっている。

 イークダッド州では、祭りの日に罪を犯すものは通常よりも重い量刑が科されることになっている。これは(かつての)国の祝祭を汚す逆賊であるから、という口実があるが、現実問題として、毎年祭りの日に治安が悪化することに対する抑止を狙った制度であった。

 ただし今回の場合、誘拐未遂と傷害罪でしかないので、ドニュオスが言うように刑務所から出てこられないわけではなさそうだ。

 この事件の陰でガーディアンドールのライゼとバンダナちゃんが、身を挺してアーシャを護ってくれたということは、彼も知るところであった。……というより、アーシャが積極的にその話を伝えていた。

 ようやくアーシャから腕を離したドニュオスが、隣のドール二人に目を向けた。

「出来ることなら、君たちドールを正式に我が家の養子にしたいくらいだ。本当にすまない」

「――でも、それとこれとは話が別だ、って言いたいんですね?」

 ライゼは鋭く言った。ドニュオスが相手だと、彼も上下関係を考えて少しはまともな口調になる。

「そうだ。こんな言い方をしては心苦しいんだが、君たちガーディアンドールは「人」というより「モノ」だ。だから、所有権がうんぬん、って話になってくるんだ」

「それは自覚してます」

「そしてその所有権は今、コルツォ社にある」

 バンダナちゃんはうつむいた。

「だから君たちを返さなくてはならないんだ」

 ライゼもその先は何も言葉に出来なかった。

「パパ!」

 アーシャが悲痛な声を上げても、どうにもできないことだった。

「アーシャ、すまない。話を続けさせてくれないか」

 ドニュオスは真剣な表情だ。彼も内心では申し訳ないと思っている。

 コルツォ社も罪なものを作ったものだ。ここまで人間に似た存在を、道具として扱うなどとは。

「一週間後、エンヴァラ行きの船が出る。それで送り届けよう」

 沈黙が流れた。二人とも頷くことは出来ない。そこでドニュオスが尋ねる。

「差し支えなければ教えてくれないか。君たちは何者で、なぜここに来たのか」

 ライゼは少し思案した。

「俺たちは契約した人間を護衛するための自立型兵器。……俺はその失敗作です」

「失敗作?いやいや、君たちは驚くほど精巧だ。私だって、今でも人間だと思っているぐらいだ。

 コルツォ社の人間には、君たちの耳の後ろにナンバーがあると言われたが、それが事実でなければこんな話は信じなかっただろう」

「そりゃどうも。ただ俺は……いや俺たちは、コイツを遠くへ逃したかった。エンヴァラから抜け出す先は、どこでもよかった」

 そう言ってライゼは隣のバンダナちゃんを見下ろした。

「バンダナちゃんを?」

 アーシャは不思議そうな顔をした。

「上手く言えねえんだけど……こいつにはここで終わってほしくなかったんだ」

「込み入った事情がありそうだね。いや、それまで話してくれとは言わないさ」

 ドニュオスは紳士的に深く頷くと嘆息たんそくを漏らした。

「しかし、兵器か。君たちのような子供には、もっとも縁遠い言葉でなければいけないはずだ……」

「人間ならそうかもしれませんね。でも俺たちは兵器そのもの。兵器である以上、俺たちは戦うことを義務付けられる」

 静かにうつむくライゼの手をアーシャが握った。

「でも嫌なんでしょ、アンタは。嫌だからこっちに来たんでしょ」

「……そうだな。嫌だから、失敗作なんだろうさ」

 すました顔で言ったライゼに、アーシャは寒気がした。人間そっくりに作られ、戦うことを拒めないのがガーディアンドールだというのか。


          ◇◆◇


 アーシャにはもう一つの気掛かりがあった。

 学校からの帰り道に横について歩くカイルが今日は特別ガチガチに緊張しているが、少なくともそちらではない。

「ねえカイル」

 カイルはびくんと体を跳ねさせた。怒っているわけじゃないんだから自然にしてほしい。

「な、なんだいアーシャ」

「アンタ、ユウとはよく遊ぶの?」

「え?う、うーん。よく遊ぶってほどじゃないけどな。学校じゃあまぁそこそこ。でもあいつの家に行くことがあったとしても半年に一度くらいだし。あいついつも忙しそうなんだよな」

 「そう」とつぶやくアーシャにカイルは寂しそうな顔をした。どうして俺じゃなくてユウなんだ。顔がそう言ってる。

「アーシャはどう?ユウのこと」

「どうって……」

「例えば、ほら――」

「尊敬してる」

 アーシャがさえぎるように言った。最近はアーシャだってカイルの気持ちに気付き始めていた。ここで「好き」とか「嫌い」なんて言葉を使っちゃいけないともわきまえている。

「尊敬?」

「あいつ、すごいじゃん。自分一人だけ大人になったみたいに。当たり前ですって顔をして大人と同じことをやってる。

 身体はひょろいけど、ああ見えて図太い。そういうところがさ、なんかすごいなって。私も負けてられないなーって、そう思う。以上。私の気持ち終わり」

 けれど気掛かりなのは、

「ユウ、たぶんお父さんのこと考えてたんだろうね。祭りの間も一人だけどっか冷めた顔しちゃってさ」

「……そっか、そうだったね。あいつの親父。今カイアン通りの病院にいるんだっけ。寝たきりなんだろ?」

 交差点で立ち止まって、アーシャはカイルを見た。素の顔だ。ユウの幼馴染なら、もっとユウのことを知ってほしい。少なくとも自分はユウと知り合ってまだ二年しか経っていないというのに。アーシャはつまらなさそうにため息をついた。

「あいつのお父さん、もうすぐ死ぬんだよ」

 一瞬の沈黙。カイルは息をのんだ。

「えっ!そんなの初耳だよ」

「三年前のちょうど今くらいの時期らしいね。ユウのお父さんは嵐の日に漁に出たバカを救助しようとして、相手の船とぶつかって、氷の海に投げ出されたんだって。それから意識が戻らなかった。今に至るまでずっとね」

 カイルは黙っていた。アーシャの方が同性の自分よりも事情通なことに、少し驚いているようだ。

「私も詳しくないけど、三年意識が戻らなかったら、死んだことになるんだって。事故はマスクパレードのあとだったっていうから、その三年の期限がもうすぐなんだよ」

 最近ユウがその現実を見ないようにしているのが分かる。三年前に父親は死んだものと決め込んで、仕事と学校のルーチンワークをこなしながら、余計なものを入れないようにしている。自分は大人だから、立ち止まっちゃいけない。そんな強がりに見える。だから見ていてつらくなる。

「そうか。いよいよ本当に独りぼっちになるんだな。あいつ自分のこと何にも話してくれないんだよ」

「でしょ。だから強いのアイツは。おくびにも出さないで平気な顔してさ。お姉さん的には逆に心配になるんだわ。なまじ硬い枝の方が、ボキって折れちゃうもんでしょ」

「それなのに詳しいなぁ、アーシャは」

 カイルの声はどこか悔しさ、いや、寂しさのようなものが混じっていた。

 街路樹の落ち葉をサクサクと踏みながら、気後れからかカイルはアーシャの一歩後ろをついて歩いた。アーシャはまたため息をついて振り返る。

「ねえカイル、お願いがあるんだ」

「えっ、えっ?ああ、いいよ!何でも言って!」

「無理に励まさなくていい。自然な感じでいいからさ。ユウのこと、気に掛けてあげて。話し相手になるぐらいでいいんだよ。男友達じゃないと話せないことなんてたくさんあるでしょ」

 カイルはふっと緊張が解けたように笑顔になった。

「なんだ。そういうことなら任せてくれよ」

 そう言って胸をドンと叩いた。バカだけどこういうところは頼もしい。


 カイルはアーシャの家までついてくるつもりらしい。帰り着いてしまう前に何か言いたそうに「あ」とか「う」と口を開くものの、喉が詰まるのか言葉にできていないようだ。

「あんたの家、あっちでしょ」

 わざと言ってやった。今のこの気持ちも、なんだか甘酸っぱくて好きだ。アーシャは自分が小悪魔のようだと思いながら、知らぬ風を装ってもう少し楽しむことにした。

「や、やっぱりほら、この間誘拐されたばかりだし、一人で帰るのは危ないよアーシャ」

 そんな口実を付けてくるのが歯がゆい。しっかりしろよヘタレ。なぜだかアーシャは彼を応援していた。

 ついに二人は海岸まで来た。大きくそびえるキャップゲーツ海運の倉庫前。赤い屋根のアーシャの家はもうそこに見えている。

 もう一つ余計な気掛かりが出来る前に、この辺りではっきりさせておこう。

「ねえカイル。私に言いたいこと、あるんでしょ」

 アーシャは微笑んで言った。


          ◇◆◇


 マスクパレードが終わり、もうアーシャが工房へ来る用事もなくなって静かになるはずだった。……のだが、今でもバンダナちゃんはジェイと遊びにやってくるし、今日に至っては珍しくカイルが遊びに来た。火の番をしている間の退屈しのぎが出来るのは、ユウにとってもありがたいことだった。フレッズ工房は賑やかにはなったが、ただし商売には繋がっていないので、繁盛はんじょうしているとはいいがたい。

「ユウ、聞いてくれ」

 その日のカイルはとても嬉しそうだった。むふ、むふと気色悪い笑いをこらえきれないようだ。こんなに嬉しそうなカイルは見たことが無い。こちらが真面目に仕事をしている横でこの有様では、じっと見ていると腹が立つのでなるべく目は合わせない。

「なんだい」

「勇気を出して、俺、告白したんだよ」

 なるほど。ご機嫌な理由はそれか。すると答えは――

「やっぱり勇気を出してよかった。神様はいたんだよユウ!」

 もし断られていたら「この世界に神はいない!」とか言ってそうだ。でも一応続きを聞いてやる。

「OKって!OKって言ってくれたんだよついに!アーシャが!」

「へぇ。良かったじゃないか」

 なるほど、それはめでたい話に違いない。今日ぐらいは彼のノロケ話にも付き合ってやろう。ユウはくすっと笑った。

「でも、やっぱり事はそう簡単じゃないんだな。神は試練を与えたもうっていうやつだ」

 ここでカイルの表情がくもった。そこに起承転結は要らないんだけどな、とユウは苦笑い。

 話の途中で申し訳ないとは思ったが、火の番をしていると喉が渇く。部屋の熱気のせいもあり、神経をとがらせている緊張のせいもあるのだろう。グラスに入った水をちびちびと啜って口の中を潤す。冷たい水の入ったグラスが結露で汗をかいていた。

 しかし、こうしてカイルの恋愛話を聞きながら飲む水は、まるで砂糖でも入っているのかと思うほど甘く感じる。たまには悪くない。

「――ルナティアを見つけてプレゼントしてくれたら、っていう条件があるんだ」

 ユウはせっかく飲みかけていた水を盛大に吹き出してしまった。

「おいおい大丈夫かユウ」

「あ、ああ」

 あごを伝ってボタボタ落ちる水を手の甲でぬぐった。

 しかしカイルのやつはそれでいいのか。お前の方こそ大丈夫か。ユウは何と声をかけてあげればよいか分からずに硬直した。

「ルナティアってなんだろうな。知ってるか?ユウ」

 これで納得した。カイルは気づいていない。

 ルナティア。それはどんな宝石よりも希少、そして高価。嘘か誠か百年に一粒しか産出さんしゅつされないとも言われている。その一粒をめぐって人々を犯罪に駆り立てる魔性の石とも。

 しかしここで「お前、体よく断られたんだよ」と教えてあげることが果たして優しさなのだろうか。アーシャがどんなニュアンスで言った言葉か知らないが、少なくともカイルは冗談だとは思っていない。アーシャめ、何てことをしてくれたんだ。

「まあ、聞いたことぐらいは」

 ユウが引きつった顔で答えると、例によってカイルは食い気味に詰め寄ってきた。両肩をがっちりつかんでゆさゆさと揺らしてくる。

「教えてくれユウ!ルナティアってなんだ!」

「いや、それを僕が教えてしまうとほら、自分で探したことにならないんじゃないかな」

 ユウは及び腰な言い方で逃げ道を探った。

「せめて!せめてヒントだけでも頼む!ルナティアってのは海にあるのか!それとも山にあるのか!」

 もちろん実物なんて見たことが無いが、宝石だからたぶん、

「どっちかと言えば山、じゃないかな」

 ユウが力なく答えるなり、

 「よし!山だな!」とカイルは上り調子で握りこぶしを高く揚げた。本当に暑っ苦しいやつだ。

「ユウ!俺は山に登るぞ!世界中の山という山に登る覚悟だ!」

 恋のエネルギーとは恐ろしい物だ。いっそそのまま遭難して頭を冷やしてくれ。

 カイルがどこまで本気か分からないが、工房にはようやく静けさが戻った。



 挨拶をして、親方の「気をつけて帰れよ」といういつも通りの言葉を背に受ける。下宿の宿まで一マイルと離れていないのだから、気を付けるも何もないだろう。いて言えば大通りの馬車が時折切羽詰まるような勢いで飛ばしていることだろうか。

 交通の便はあまりよくないが、静かで落ち着いた安宿のモイル・クロモンテ。一年近く住み着いているユウの下宿先だ。二階建てで部屋は八つ。木造の築三十年。建物は老朽化しつつある。

「ただいま」

 女将おかみさんに声をかけると、思いがけずアーシャとばったり出会った。

「よっ、ユウ」

 アーシャはさもそこにいるのが当然とばかりに軽快にウインク交じりで挨拶してみせた。

「アーシャ。またお前カイルに――」

 ユウは嫌味の一つでも言ってやろうと思っていたが、どうやら彼女は女将さんと話し込んでいる様子だ。

 どうしたことかと思っていると、「本当にいいのかい?」と女将さんの声がする。

「ええ、その方が後腐れがなくていいわ」

 アーシャはさらりと答えた。

 ああ、そう言えば前に学校でこんな話をしたな。と思い出す。確か三週間、ドール二人をこの宿に住まわせようという話だ。しかし前金と合わせれば五百ペールにはなるはずだ。ユウにとっては一ヶ月の稼ぎの半分弱にもあたる大金である。金持ちのやることは理解に苦しむが――

「はぁ~あ。嬢ちゃんみたいな気前のいいお客さんなんて滅多にいないよ。それじゃあ端数はすうは負けとこう。三千と四百ペールでいいからね」

 ここで水を飲んでいなくてよかった。吹き出していたに違いない。上等な馬が二頭は買える額だ。

 「へへっ、どうも」と人懐っこい笑顔を見せた後で、皮袋に入ったペール金貨十七枚をドカンと豪快に差し出す。ユウはこのやり取りにめまいを覚えた。例えばあの金貨が四枚あれば、ユウは一ヶ月の家賃と学費をまとめて払っても、ささやかなお釣りがもらえる。

「一体全体、どうしたっていうのアーシャ。三週間でその家賃はないだろう」

「ああ。予定変更ね。半年分の前払いよ」

 なんてうらやましい話だ。ユウは頭を抱えた。

「それでどうするんだい?もし急ぎでなければ、部屋をきれいにするのに三日待ってもらえると助かるんだけどさ」

 女将さんが羽ペンで書類を書きながら言うと

「ええ、そのつもりですから」

 アーシャはにっと笑った。

 女将さんはユウの方を向くなり「アンタのお友達ってば凄いわねぇ」とケラケラ笑っている。

「まあでもね、部屋主はアンタってことになってるから、出入りは自由よ。あの一番奥の部屋さ。こんど合鍵渡すから、声をかけて頂戴」

 ユウは「はい」と頷くが、話についていけていない。

「アーシャ、半年も留守にするのかい?」

「そうじゃないわ。いろいろ事情があるの」

 そうあっさりと話を流してしまった。


 それにしてももう日も落ちてしまった。少女一人では危険な帰り道になるだろう。

「アーシャ、帰りが危ないだろ。家まで送っていくよ」

 何せこの社長令嬢は、ひったくられたバッグを取り返そうとして誘拐された前例がある。それもつい最近に。

 ユウは急いで自分の手荷物を部屋にしまおうと階段に足をかけるが、

「その必要はねえよ」

 物陰から突然少年の声が聞こえた。ユウがびっくりして振り向くと、ライゼが静かに腕組みをして壁に寄りかかっていた、気付かなかった。アーシャも得意げに「そうそう」と頷く。

「何てったって、あたしにはガーディアンがいるんだからね」

「ガーディアン?」

 事情をよく知らないユウを置いてけぼりにしている。

「あ、そうだ。アンタ帰ってくるとは思わなかったから、女中じょちゅうの子に書置き渡したわ。読んどいてね」

「え、うん」

 アーシャはふんふんと鼻歌を歌いながら宿を後にした。帰ってきたんだからここで言えばいいじゃないか。ユウはため息を交えて肩を落とした。


 とぼとぼと階段を上る。ユウはここの女中が苦手だ。正直夜中には出会いたくないとさえ思っている。どうせ出会うのなら、せめて薄暗い廊下で鉢合わせになりたくない。部屋をノックしてから入ってきてほしい。

 抜き足差し足で気取られないように部屋を目指す。あと十歩だ。

「ユウさん」

「うわあああああああッ!」

 ユウは叫んで飛びのいた。何でこの子は暗がりの中から毎度毎度目の前に現れるんだ。本当にいつどこから忍び寄ってきてるんだ。そしてなぜいつも目の前に来るまで声をかけないんだ。オマケに人形か幽霊のように無表情なのも怖いからやめてほしい。ユウはバクバクと鳴る心臓を押さえつけながら息を整える。

 女中の名前は知らない。歳もユウより一つか二つは下に見えるが、詳しいことは分からない。掠れそうな灰色の声で必要最低限のことしか喋らない彼女の振る舞いはどこか物悲しいものを感じさせる。とにかくミステリアスな子だ。女将さんが言うには「拾ってきて雇った」そうだが、拾ってきたとはなんだ。猫か。

「そんなに大声で怖がらないでください」

 無茶を言うな。とユウは心の中で文句を言う。

「な、なんだい……?」

 用向きは分かっているが、ここでワンクッション置いておきたい。ユウは目を引きつらせながら尋ねた。

「アーシャ・トメルク様より書置きを預かっています。お受け取りください」

 そう言って彼女はお盆に乗せた四つ折りの紙を差し出した。

「あ、ああ。ありがとう」

 用を済ませた彼女は静かにひたひたと廊下を歩いて行った。ひょっとするとこの宿の家賃を滞納すると彼女に呪い殺されるんじゃなかろうか。そんな突拍子とっぴょうしもない不安を感じた。

 アーシャが書置きだなんて、よほど言いづらいことでもあったのだろう。ユウは何が書いてあっても驚かないという覚悟で、固く折られた紙を開いた。

『明日アンタの部屋に行くから片付けといてね』

 ただ一文が紙の中央に鎮座ちんざし、たっぷりと余白を残していた。

 ユウは一度息を全て吐き出した。そして細く長く、とにかく長く、肺の限界まで息を吸った。そして万感ばんかんの思いを込めて、手の中の紙をぐしゃりと強く握りつぶした。

「その場で言えよッ!」



 その翌日、またアーシャが学校帰りにユウの下宿、モイル・クロモンテを訪れた。今度はバンダナちゃんとライゼ、二人のドールを伴っている。

 ユウは仕事を少しだけ早く切り上げて、言われたとおりに部屋を片付けていた。特段、足の踏み場が無いほど散らかっていたわけではないが、確かにこういう機会でもないと本腰を入れて片付けたりはしない。せめて女子に見られて恥ずかしくない部屋にはしておきたかったのに、

「わあ、ホントに狭い」

 アーシャはドアを開けるなり面白がるように言った。

「一人暮らしにはこれくらいで十分なんだよ。住めば都さ」

 ユウは強がった。

 部屋は二つ。大物はシングルベッドが一つに、小さな書き物用の机が一つ、それからゴミ捨て場から拾ってきたのではと疑われるほどにクタクタぺっちゃんこのソファが一つ。

 後は棚と、調理台と、小さなテーブル、そして片付けのために昨日積み上げた箱が三つ。机の上に置かれたのは学校で使っているテキスト。まさに典型的な苦学生の部屋であった。

 殺風景の中に唯一いろどりを添えていたのが、東の小窓際に置いたサボテンの鉢植えだけ。南向きにあるギシギシと硬い窓を開ければ、狭っ苦しいベランダに出られて、二つの部屋はベランダでつながっている。

「まあ、料金と突き合わせて考えても、こんなもんかなぁ」

 アーシャは特に嫌がる風でもないらしい。それに本人が住むわけではないのだから何にこだわることもないのだろう。「アンタたち、どう?」とドール二人に目配せする。

 どう?と聞いてどうするつもりか。もうお金も払ったし、契約したじゃないか。ユウは目をそらした。

 ライゼは興味無さそうに、あるいは諦観しているようにじっとしている。バンダナちゃんはどんなに面白くない部屋でも面白く見えるらしい。テーブルの下に潜り込んで腹這いでずりずりと海底ごっこをやっている。子供の遊びへの発想力は侮れない。

「別に何でもいいだろ」

「いいと思う!」

 二秒と待たずに返ってきたドールたちの返事も雑だ。

 しかし四人もいるとこの部屋は窮屈だ。そのくせアーシャたちはもう一時間も居座っている。ライゼはじっとしていて無害なのだが、問題はあとの女の子二人組だ。あちこち物色しては感想を漏らす。ちょっと下品だ。

「あー、疲れた」

 とアーシャは足を投げ出してソファに座る。何に疲れたというのだろうか。

 ユウがベッドの上に横になっていると、さっきまでベッドの下に潜り込んでいたバンダナちゃんが、平べったい姿勢のまま這い上がってきた。まるで蛇だ。

「ねえねえ、ユウさん」

 突然バンダナちゃんが耳打ちしてくるものだから驚いた。

「今日、ユウさんのおうちにお泊りしてもいいですか?」

 ユウはびっくりして飛び上がる。

「いや、ダメだよそんなの!」

「おねがいします!」

「ダメ。僕の部屋に女の子を泊めるだなんて」

「私、ドールですよ」

「そういう問題じゃないよ!」

 ユウが顔を真っ赤にして、慌ててなだめるが、ここでバンダナちゃんはいっそう声を落として囁いた。

「ライゼとアーシャさんを二人っきりにしてあげたいんです!」

 と真剣な顔をして。

「……はぁ」

「ライゼって、きっとアーシャさんのこと好きなんですよ。協力してください」

 何を言ってるのか分からない。……いや、そう言えば最近アーシャから愚痴を聞かされていたな、と思い出す。いわく、バンダナちゃんは恋愛小説の読みすぎで、近頃は恋に恋する乙女になっているとか。

 バンダナちゃんはガバッと顔を上げて

「アーシャさん!今日、ここに泊まってもいい?」

 と元気よく聞いた。頼むアーシャ、この子を止めてくれ。そんなユウのささやかな願いは

「おっ、いいんじゃない?」

 あっさりと踏みつぶされた。

「おいアーシャっ!」

「何よ。何か問題ある?」

 ダメだ、アーシャには常識が通じない。

「だ、だってほら、ベッドだって一つしかないし!」

「うーん」

 アーシャは考え込んで、足元のソファに目を落とした。

「バンダナちゃん、ここで寝れるでしょ」

「はい」

 この二人、聞く耳を持っていないぞ。ユウは気が遠くなった。

「あー、俺はやめとくわ」

 ライゼはすました顔で言った。むしろそれが普通だ。ライゼが常識人で助かった。でも出来るならこの二人の暴走を止めてほしい。そして連れて帰ってほしい。



 結局、ユウとバンダナちゃんがそこに取り残された。

 バンダナちゃんとは普段工房でよく喋っている仲だが、こうまでプライベート空間に入り込まれると出方を警戒してしまう。

「バンダナちゃん、お腹すかない?」

 当たり障りのないことを聞いてコミュニケーションを図ってみる。

「朝、ちゃんと食べてきたから大丈夫です!」

 元気よく答えてくれた。しかしもう日も落ちた頃なのに何言ってるんだこの子は。やはり何かが人間とズレているようだ。

 狭い部屋にずっといても面白くないだろうからと、ユウは近所を案内してあげることにした。宿の周辺の「安全圏」はよく分かっているから、そこを出ない範囲での散歩ならもう少し遅い時間まで大丈夫なはずだ。

 もう三年は使っているコートを羽織はおって、バンダナちゃんを連れ立って外に出ると

「ユウさん」

 例の無表情の女中がいきなり目の前に現れた。

「うわああああああ!!」

「はびーっ!」

 バンダナちゃんも斬新ざんしんな悲鳴をあげる。

「そんなに大声で驚かないでください」

 無茶を言うな、とユウは心の中で文句を言った。

 まだ驚きでドキドキと鳴る心臓を抑えるユウ。本当に勘弁してほしい。

「ご結婚されたんですか」

 女中はバンダナちゃんとユウを交互に眺めて言った。

「いや、そんな風に見える?」

「冗談です」

 この女中、無表情のままで冗談を……?ユウは顔をひきつらせた。

「二人以上の入居は、週家賃が一人につき二十ペール増しになることはご存じでしょうか」

「えぇ……、この子は一日泊まるだけだよ。いいだろ?」

「そうですか。それくらいなら問題ありません」

 用を済ませた彼女は静かにひたひたと廊下を歩いて行った。ひょっとするとこの宿の家賃を滞納すると彼女にスープの具にされてしまうんだろうか。そんな突拍子もない不安を感じた。


 外はいよいよ暗く、空気も冷え込んできた。路面も凍り始めるころだから、馬車の横転に気を付けないといけない。

 ユウが真っ先に向かったのは衣料品店。隣のバンダナちゃんは薄いシャツしか着ていない。こんなで立ちで北国イークダッドを生きていけるわけがない。そこでユウは彼女にコートを買ってあげることにした。

 かたくなに「寒くないから大丈夫です」というバンダナちゃんが不憫ふびんでならなかった。しかし自分だけがコートを着て、隣でこんな子を薄着一枚で居させたら、周りがどんな目で見てくるだろう。ユウはどうにか彼女を説得した。

 明るい暖色の店内で色とりどりの服を眺めながら、バンダナちゃんの目はキラキラと輝いていた。試着してみては感想を言っている。結局バンダナちゃんも買い物を楽しんでいる様子だった。子供用のコートに、厚手の手袋。あっという間に百ペールが財布から消えたが、今月は辛抱して慎ましく暮らせばどうにか乗り切れそうだ。


 海岸に近い道を歩きながら、隣のバンダナちゃんに声をかけた。

「この道、覚えてるかい?」

 バンダナちゃんはきょろきょろと見回して不思議そうな顔をした。

「ハハ、あの時とは雰囲気が全然違うからね。パレードで通った道さ。ちょうどここでトメルクさんがやってきて、僕が君を抱え上げたんだよ」

 バンダナちゃんは「ああ!」と嬉しそうな顔をした。

「普段はこんなに静かな道なんですね」

「そう。さ、ここから先は危ないから、夜は行っちゃだめだからね。戻ろう」


 モイル・クロモンテに戻ってエントランスの炎晶石えんしょうせきの暖炉で暖を取っていると、女将さんが「夜中のデートは楽しかったかい」と茶化ちゃかした。バンダナちゃんは「はい、楽しかったです!」とご機嫌だ。

「バンダナちゃんも温まりなよ」

 ユウが暖炉の前に誘うと、バンダナちゃんは苦笑いしながら首を振った。

「ごめんなさい、なんだか苦手なんです」

「苦手?」

 ユウが尋ねるとバンダナちゃんは不思議そうに言う。

「アーシャさんの家の暖炉は平気なんですけど、なぜか頭が痛くなるので」

「ふうん」

 女将さんが頷いた。

「たまぁ~にいるよねそういう子。体質的に炎晶石……っていうか、魔法の力全般が良くないんだってさ。こんなに便利なのにねぇ」

 ドールでもそんなことがあるのだろうか。奇妙な話だと思いながらもユウは納得した。

 だったら自分だけ温まっているのも申し訳ないな、と部屋に戻ることにした。きしむ階段を上る。……例の女中はいない。今の内だ。ユウは周囲を警戒しながらドアを開けた。

 明日は休日だしゆっくりできる。少し遅い時間までバンダナちゃんとの会話を楽しむことにした。一応机に向かってテキストを開いているものの、会話をしながらだと勉強がまったくはかどらない。けれど、今日ぐらいはそれでもいいや、とユウは諦めていた。

 机の引き出しを開けていると、バンダナちゃんが手を伸ばしてきた。

「これ、写真フォートですか?」

「ああそれ?この辺じゃ写真フォートなんて珍しいでしょ。僕の宝物さ」

 ユウは照れながら言った。イークダッドには一般人も持てる写真フォートというものが今でもほとんど無い。ユウが持っているのは、父と、母と、まだ赤ん坊だったころの自分が写ったものだった。

「エンヴァラで撮ったものらしいよ。僕は行った時の記憶なんて全然ないんだけどね」

 ユウが笑うと、バンダナちゃんはその写真フォートを食い入るように見つめていた。

「バンダナちゃん?」

「この女の人は?」

 長いストレートの金髪、赤い口紅、透き通った眼をした女性。ユウを大事そうに抱いているその人は、

「僕の母さんだよ。シェーラ・ウィナっていうんだ」

 バンダナちゃんは息をのむような顔をした。

「私……この人、知ってます」

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