第3話【四人の秘密】

「人間じゃない……」


 ――いや、そんなはずはない。彼女はどう見ても人間だ。

 ――じゃあ、この子の身体の重さはなんだ?体の中が鉄で出来ているんじゃないのか?

 ――そんなものは僕の勘違いかもしれない。咄嗟とっさの事だったし、僕の感覚がマヒしてもおかしくはない。


 常識では考えられないことが目の前で始まっている。どうにか追いつこうとしているユウの思考が振り落とされそうだ。十四年生きてきた経験からくる常識観念と、目の前の事実がぶつかり、せめぎあう。

 ドール。つまり「人形」なのだろうか。本当に人間そっくりに作られた人ならざる者なら、その呼び名は言いみょう


 ――この子が人間じゃないのなら、アーシャの不自然な態度は全てつじつまが合うんじゃないか?

 ――人形が歩くか?人形が笑うか?人形がしゃべるか?人形がスープを飲むか?

 ――いや、今そんなことはどうだっていいはずだ。


 そう、どうだっていい。

 今ハッキリと分かることが一つだけある。目の前のこの子が人間だろうが、そのドールとやらだろうが、このまま放っておくという法はない事だ。ここに倒れているのが犬だろうが馬だろうが、きっと助けるだろう。それと同じだ。

「じゃあ、どうしたらいい?」

 ユウは呆然ぼうぜんとするアーシャを現実に引き戻すように尋ねた。

「君なら何か知ってるんじゃないか」

 しかしアーシャも頭を抱える。

「ごめん……こんな事初めてで、私にもどうしたらいいのか」

「ライゼは?あいつも、ドールじゃないのか?」

「そうね。アイツなら」

 ユウは一縷いちるの望みをそこに託した。アーシャもピンときたようだ。

「何か分かるかもしれないんだね」

 そうと決まればモタモタしてはいられない。

「あいつはどこにいるか分かるかい?僕が呼んでくるよ!」

 といさむユウを、アーシャが決意の表情で引き止めた。

「待ってユウ。アンタの足より、私の自転車の方が速いよ」

 彼女の顔からは「私がしっかりしていれば……」という自責の念と、それを自ら挽回しようという力強さが見て取れた。

「分かったよアーシャ」

「もしも他の人たちがここにやってきたら騒ぎになるかもしれない。だからユウ、上手く切り抜けてくれる?」

 なるほど、それは適役かもしれない。ユウはうなずき、アーシャは急いで飛び出していった。


 さて、彼女がライゼを連れてくるまで、どうやって切り抜ければいいだろうか、ユウは黙考もっこうする。アーシャの自転車がどんな立派なモノであれ、イークダッドの街中まで帰るなら往復で四十分というところか。対して、シスターや子供らがここまでやってくるまであと三十分足らず。その間十分以上。ここで倒れているバンダナちゃんを隠し続けなければならない。

 シスターの中で話が分かりそうな人に正直に打ち明けて味方につけるか?……彼女が人に無害な人形だとどうやって証明出来るというのだ。もちろん、急病で倒れたなどと嘘をつくのは論外。悪い結果を招くに違いない。

 建物の陰にかくまうか?……おそらく子供たちは途中で飽きて縦横無尽じゅうおうむじんに動き回るから、それに見つからないとも限らない。しかも彼女の身体はどうやら重い。そんなに長距離の移動はできない。

 彼女をどこかに隠しおおせたとして、ユウが一人であることを問われて上手い理由を見付けられるか?……それは動きながら考えるしか無さそうだ。時間がない。

 ユウは辺りを見渡してみた。

 窓にぴったり合うサイズの短いカーテン。高い所から本を取り出すための踏み台。四人掛けにはなりそうな木のテーブル。背もたれがくたくたになった二人掛けのソファ。床に転がったレガシィ。空になった本棚が三台と、半分だけ本を抜かれた本棚が一台。残り六台の本棚には本がぎっしりと詰まっている。入り口には書き物をするための小さな机と椅子、その上には小さな燭台しょくだい

 本棚の配置は、背合わせになった本棚が三列、つまり六台が真ん中の島にあり、右側を通路として開けている。その奥の壁際には四台が横に並び、合わせて十台。先ほどユウとアーシャが運び出そうとしたテーブルも奥の方にある。

 入り口から見て一番手前の三台は全て空っぽになっている。固定はされていないから、これなら動かせそうだ。壁についた左側の本棚を抱えて引き出す。本棚一台分の空きスペースが出来た。

 続いて、真ん中の本棚をいっぱいに引き出した。そこから先ほど開いたスペースを見てみる。灰褐色はいかっしょくに色の焼けたホコリの塊、羽虫の死骸しがい、糸くず、いろんなものが溜まっている。それを見てふとユウはひらめいた。――これなら自然な理由が出来る。

 そのためにユウは汚れをホウキで掃いてき出す。もう何年もこんな掃除はしていないのだろう。あっという間に小さな山が出来た。

 そしていよいよバンダナちゃんを開いた本棚のスペースへ。彼女の身体を抱え上げようとするが全く持ち上がらない。本当に重い。男のユウ以上の体重はあるだろう。見た目は十歳程度の少女で、触れた肌の柔らかさも人間と変わらないのに、見た目の比重がおかしい。どうやら彼女は本当に別種の生き物らしい。

 彼女には可哀想だが、引きっていくしかない。ユウは息をあえがせながら一歩、二歩とバンダナちゃんの身体を引いてゆく。

 そんな時、ドアの向こう側から足音が聞こえた。思っていたよりも早い。

 足音は一人分。ヒールをカツカツと言わせながら近づいてくる。間隔は短く、一定で落ち着いている。子供たちや院長ではないようだ。

「くそっ」

 ユウは諦めて手を放す。

 ドアが開いた。現れたのは長身のシスター・ニーチ。

「どう?ユウ、はかどってるかしら」

 彼女はユウを認めると、少し微笑ほほえんでくれた。

「ええ、まあ」

 ユウはぎこちなく返事をした。

 咄嗟にソファをずらして、床に寝かせたバンダナちゃんを隠した。入り口からなら死角になってソファしか見えないはずだ。いや、せめてそう思いたい。六フィート弱というシスター・ニーチの身長から見る景色がどんなものか、ユウには想像がつかないから恐ろしい。

「息が上がってるわよ。少し休んでもいいんじゃない?」

 とシスター・ニーチは笑う。ギリギリだった。

 どうする……?バンダナちゃんが隠れるのは入り口から見た時だけだ。他の角度からなら一目でバレてしまう。息が上がっているのは、不安を感じているせいでもある。

 ――何か考えろ。この場を切り抜ける方法を。

「あら。もう二人来てるって聞いたけど?今は一人?」

 ――落ち着け。この質問は想定内だ。

「ええ。あいつら、忘れ物を取りに戻ったそうですよ」

「取りに戻った?二人で?」

 ――鋭い。さすがは先生だ。

 言われてみればそうだ。こんな遠い道のりで、忘れ物を二人で取りに戻る理由がどこにある。

「ハハ……変なやつらですよね」

 細かい所まではあずかり知らぬと、はぐらかすことしかできない。まだ大丈夫そうだが、このまま疑念を抱かれてはシスター・ニーチをごまかし切るのは難しい。こうなったら話題をそらすんだ。

「そうだ、シスター・ニーチ。外で本を干せる場所がもう無くなりそうです。礼拝堂に良いのがあったら教えてください」

「ふーん……。そうねぇ」

 シスター・ニーチはあごをもたげて考え込んだ。感触は良い。

「今の僕は、すっかり外の人間です。ちょっと礼拝堂には入り辛くて」

 シスター・ニーチをこの場から引き離すための方便だ。本当は特にそんなことを考えたこともない。

「遠慮すること無いわよ。ユウはここに縁があった。そして手伝いまでしてくれる。そのうえ正直者だ。神様は見ているのよ」

 なんだろう、胸が痛む。恩人であるシスターを騙しているのが心苦しい。そのうえユウは神様など信じてはいない。礼拝にも孤児院の行事だからと参加していただけだ。もっとも、そのおかげで背信の後ろめたさは全く感じないのだが。

 いくら神の世界を信じない彼でも、「正直に生きなさい」「友人を大切にしなさい」「困った人を助けなさい」「先人を敬いなさい」そんな風にここで教え込まれたことは一つ一つが彼の血肉になっている。だから、やはり苦しい。


          ◇◆◇


 アーシャの自転車が下り坂を駆ける。更に追い風を受け、身の危険を感じるほどのスピードになった。冷たくなった秋風がシャツのすそをバタバタとなびかせる。しかしギリギリまでブレーキは掛けない。一分一秒が惜しかった。

 小高い丘のいただきから、イークダッドの見飽きた海が見えてくる頃、アーシャは体を倒してカーブを曲がった。

 街中で人や馬車とぶつからないように気を付けながら大通りを横切ると、海沿いに見える赤い屋根。その隣には長方形の無骨ぶこつな倉庫がある。倉庫自体は古ぼけてきているが、両サイドにペイントされた「キャップゲーツ海運」の文字は堂々としたものだった。

「おやアーシャ、さっき出かけて行ったばかりじゃないか?」

 運搬用のゲーテル車を動かす中年の作業員がいつもの細い目でにっこり笑う。「まあね」と適当に相槌あいづちを打ってアーシャは赤い屋根の自宅に駆けこんだ。

 事務所になっている一階と、そこにいる父には目もくれず階段を登る。兄と姉の部屋の前を大股で通り過ぎ、一番奥の自室のドアを勢いよく開ける。

 肩で息をしながらじっと見渡す。少女趣味だがきちんと片付けられ整頓せいとんされた広い部屋、おとといマットレスを替えたばかりの柔らかなセミダブルベッドにも違和感がない。しかし、そこにいたはずのライゼの姿はない。

「あいつぅ……」

 また勝手に出かけやがった、とアーシャは苛立つ。

057フィフティセブン!いるの!」

 “057フィフティセブン”、アーシャと初めて出会った時、彼はそう名乗った。「俺たちに名前はない」そんな話も最初は信じられなかった。今のユウと同じだ。その数字が何を意味するのか実はよく知らないが、確かに彼の右耳の下に小さなタトゥーで番号が書いてあったのだから信じざるを得ない。

 ふわり、とカーテンがふくらんで風が入り、窓が開いていることに気づいた。まさか……とアーシャは窓際に近づく。

057フィフティセブン!」

 すると窓の外、それも上の方から首がぬっと伸びてきた。

「ライゼだ、っつってんだろ」

「うわあああァー!!」

 アーシャは驚きで二、三歩のけぞり、心臓がバクバクと早鐘はやがねを打った。

「うるっせーな、お前が呼んだんだろ!」

 もとから逆立っている髪の毛が重力に引かれて余計に逆立つ。その頬はぷっくり膨らんでいた。

「そんなトコから顔出したら誰でもビビるわ!早く降りろ!」

「なんだ、急用か?」

「急も急よ」

 ライゼはため息をついた。「入ってやるから、ちょっと離れてろ」と失礼な態度で手を払う仕草を見せた。屋根のふちを鉄棒のように掴むと、ぐるりと回転して窓枠にかすることもなく正確にジャンプして着地。そして満足そうに手をパンパンとはたいてアーシャに小突かれる。

「どこで汚れ落としてんのよアホ」

いてぇーな」

「ねえ、101ワンゼロワンが倒れたの」

「何?襲われたのか!」

「いやいや、襲うやつがどこにいるのよ」

「違うのか?俺はてっきり……いや、まあいい。倒れたってなんだ?ケガか?」

「ううん、分からない。でも意識が無いわ。でもあの子の身体のことは私たちには分からない、だからアンタならと思って」

「原因や対処法が分かるかって言われると、多分分からねえと思う。でも、俺も行く。万が一があるかもしれねえ」

「万が一って?」

 ライゼこと057フィフティセブンはその質問に答えてくれなかった。


 彼はアーシャの自転車と同じスピードで、上り坂にあってはそれさえ引き離すスピードで走った。

「あんま無理すんなよ」

 坂を上り切ったライゼが振り返る。

「無理すんなよーじゃないわよ!……バケモノかよっ!」

 アーシャは必死に立ちこぎしながらぜぇぜぇと息を切らす。行きの追い風は、帰りの向かい風になった。固まりそうな足がひとりでに震え出していた。

 さんざん苦労して、ようやく孤児院の看板が見え始めた。


          ◇◆◇


「ユウ、おつかれ。少し休憩する?」

 今度はシスター・ミラと、更に母屋おもやでは見かけなかったシスター・エチェットが子供たちを引き連れて現れた。一気に人数が増えた。万事休すか。

 ――いや、負けるわけにはいかない。

「いえいえ、大丈夫です。本棚を三台空っぽにしましたが、ずらしてみると汚れがけっこう溜まってます。いい機会だからここの掃き掃除もしましょう」

 言いながらユウは足元につくったホコリの小山を見せつけた。

「あら、それはいいわね」

「僕はここの掃除を先にしておきますよ。シスター・ミラとシスター・ニーチは子供たちと一緒に礼拝堂から使えそうな机や椅子を庭に並べてもらえないでしょうか?」

「おぉっ、すっかりリーダー気取りじゃないの。大人ねぇ」

 シスター・ミラはいたずらっぽい笑みを浮かべる。

 シスター・ニーチは手を広げて子供たちを礼拝堂に誘導した。

「じゃあ皆さん、一緒に机や椅子を運び出しましょう」

 その先導に子供たちは「はーい!」と威勢のいい返事を返す。

「それからシスター・エチェット、拭き掃除はみんなでやりたいので、水の入ったバケツと、雑巾ぞうきんを何枚か用意していただけますか?」

「あーら、おばさんに気を使ってダイエットさせるつもりね?ユウ君が相変わらずきびきびしててこっちまで元気になっちゃうわ。任せてちょうだい」

 バケツや雑巾なら母屋にしかないらしく、シスター・エチェットは少しいらない肉のついた体を弾ませながら歩いて行った。

 ――よし、今がチャンスだ。

 ユウは開け放たれたドアの向こうに誰もいないのを念入りに確認すると、急いでバンダナちゃんの身体を引っ張った。

 確かに彼女の身体はすごく重いが、ここで力を出さないと何もかもぶち壊しになってしまう。その危機感が、普段以上の大きな力を発揮させたようだ。呼吸を止めて力をこめる。歯を食いしばりすぎて後ろ頭に頭痛がしてきたが、どうにか少しずつバンダナちゃんの身体を引っ張れている。

 この姿、きっとハタから見ると遺体を隠そうとする殺人者の様相ようそうだ。そんなことを考えると不気味だが、心を励まして最後まで彼女の身体を引き摺っていく。

 彼女の身長はせいぜい四フィート半とそんなに高くないから、本棚の影に上手く収まってくれた。しかしこれだけで彼女の存在を隠し通せるわけではない。

 ユウは頭の中で数秒シミュレートし、小さくうなずいて早速体を動かした。

 空っぽになった三台の本棚のうち、通路のために引っ張り出した真ん中の一台は左の本棚と並ぶ所まで押し戻す。そして右の一台を引っ張り、一番左にスライドさせる。すると左の方では、本棚の前に本棚がある、という奇妙な形になるが、空っぽだから気にすることはない。

 本を全て干した後の数時間はここを当たる必要がない。つまり、誰かが不意にこの本棚をずらしてしまうアクシデントはないはずだ。

 そして背中を向けている奥の一台を九十度回転させて横向きにして、バンダナちゃんを隠した空間にフタをして塞いでしまう。こちらの一台は半分だけ本を抜いてあったのでそんなに難しい作業ではなかった。

 これでどうにか、どの角度から見てもバンダナちゃんの存在を隠すことが出来た。あとは、アーシャたちが返ってくるまで自然体でいることだ。

「あれ、本棚ずらした?」

 シスター・ミラが尋ねる。気が動転していれば答えに詰まっただろうが、

「ええ。奥のテーブルを出すために通路を広げたんです」

 などと、もっともらしい嘘がスラスラと出てくる。嬉しくない才能かもしれない。

「なるほど。じゃあ、それも運んじゃいましょ。私が反対側持つわね」

「お願いします」

 ユウはごく自然に応対して、さっきはアーシャと一緒に運びかけていた奥のテーブルを、シスター・ミラと一緒に外に出す。まさか彼女も、こんな極めて近いところに人ならざる者が気を失って倒れているなど思いもしないだろう。


 ようやくアーシャがライゼを引き連れて戻ってきた。汗だくだ。

「ごめんユウ、大丈夫だった?」

 アーシャは小声で尋ねる。むしろそっちが大丈夫なのかと聞きたくなる顔だ。

「何とかね。本を全部干して、掃除を終えてしまったらみんな休憩に出るはずだから、それまで我慢だよ」

 外の庭にはずらりと空きテーブルが並んだ。これなら全部の本を干してしまえるだろう。

 背の高いシスター・ニーチやユウ、ライゼが率先して本を取り出し、まるで配給のように列をなす子供たちに一、二冊ずつ本を手渡していく。外のアーシャたちは子供たちから本を受け取るとテキパキと広げて干していき、軽快なスピードで本がさばけてゆく。

「よし、それじゃあみんな、雑巾を絞って拭き掃除をしよう」

 ユウが先導して、子供たちは「はーい」と元気な返事をする。もちろん――

「本棚は倒れてくると危ないから、僕とアーシャとライゼの三人がやるよ。みんなは窓や床をやってね」

 と、保険を掛けるのを忘れない。万に一つとてバンダナちゃんに近づけてはいけない。

 それにしても、みんな雑巾の絞り方が下手だ。お団子のようにぎゅっと握って、べちゃべちゃのまま床をらしてしまう子もいる。見かねたライゼが唇をとがらせてバケツの前にどっかりと座った。

「しょーがねえなぁ。貸せよ」

 ライゼは子供から雑巾を受け取ると、逆手に握ってぎゅっと絞る。雑巾はドバドバと水を吐き出し、固く絞られたのを流れ作業で次々子供たちに渡していく。

「いいか、こうやって絞ってもダメだ。手を逆にして、こう。分かるか?」

 ライゼの講釈こうしゃくを子供たちはがんとした目で見つめていた。意外と面倒見がいい。

 部屋中をきれいにしてしまうと、シスター・エチェットの声掛けでみんな母屋へ帰ることになった。だが、こちらにそんな暇はない。

 このままだとシスター・ミラから「ごほうびのクッキーを焼いてあげるからいらっしゃいよ」とかなんとか言われて、孤児院では滅多にないお茶会に付き合わされるに違いない。

「シスター・ニーチ、気になる本があったので読んでてもいいですか?」

 ユウはあえてシスター・ニーチを選んで言った。きっと彼女なら――

「いいことね、ユウ」

 やはりそう言って微笑んでくれた。これで皆には知られずにバンダナちゃんを助けるための口実が出来た。

 そういえばシスター・ニーチは以前ユウに教えてくれた。

『学ぶっていうことは、怖いものを失くすことなのよ。人間は知らない物や見えない物を怖がるの。人の本心も、幽霊も、見えないから怖い。

 それに人は自分の知らない新しい物を怖がる。だけど、それが何で、どこから来て、どうするのが適切か。それを知れば、怖くなくなるのよ。

 見たことのない木の実は、たとえ美味しくて毒が入っていなくても、食べるのは怖いでしょう?だから学びなさいユウ。外の世界へ行っても』

 だから、ユウが古い本に興味を持つことを彼女はよろこんでくれたのだ。そんな言葉を今は悪用しているのだろうか。ちょっと申し訳ないな、と思ってしまう。


 ドアが閉まっていること、外に誰も聞き耳を立てていないことを十分に確認して、本棚を引き摺りだした。

 バンダナちゃんはまだ眠っていた。

「ライゼ、分かるかい?」

 言われ、ライゼはバンダナちゃんの前に屈んだ。髪の生え際やうなじを触ってみて、まぶたを開けてみて、「うーん」とうなる。はた目にはやっていることが人間の医者と同じだ。

「こいつが倒れたとき、どういう状況だったんだ?」

「えっと……僕とアーシャでテーブルを運び出そうとして、彼女にはレガシィを持っていくようにお願いしたんだ」

「レガシィ?」

 ユウは見た方が早いだろうとレガシィを抱えて持ってきた。

「これだよ」

「なんだこのボール」

「大昔に作られたゲームだよ。これが邪魔だったから、運んでもらおうと思ったんだ」

「ふーん。これを触ってすぐか?」

「そうだったね。一瞬ってわけじゃないけど、ほんの何秒かしか触っていなかったと思う。壊れてたのかもしれない。本棚ごしに強い光が見えて、悲鳴が聞こえた」

「ちょっといいか?」

 ライゼがゆっくり手を伸ばす。「ちょ、ちょっと気を付けてよ?」アーシャは不安そうだ。

 ライゼの手がレガシィをでるようにベタベタと触るが、特に不思議な現象は起きなかった。

「どこかおかしいようには見えないんだけどな」

 解決の糸口はなしか。とユウたちが嘆息たんそくをもらす。

「本人に聞ければ苦労はしねえんだよな」

 と、ライゼは神妙しんみょうな顔でバンダナちゃんを見下ろしたまま聞いた。

「おいアーシャ、俺たちのことはどこまで話した」

「えっと……ごめん、その」

「謝れって言ってんじゃねえ。どこまで話したかを聞いてるんだ」

 ユウはそこに割り込んだ。

「君は、ドール。人間とは違う生き物、そうだね?」

「他のやつらは?」

「誰も知らないと思うよ」

 ライゼは少し沈黙して、口を開いた。

「分かった。じゃ、やっぱ本人に聞くしかねえな」

 ライゼは面倒くさそうに言った。

「なんですって?」

 アーシャはきょとんとする。

「俺とこいつは、自分のキーを持ってるんだ。いつ死にかけてもいいようにな」

「キー?」

「鍵って意味だ。多少のエラーなら強制的に無かったことに出来る」

 ライゼは「確かこいつは」と言いながらバンダナちゃんのバンダナを取り払う。あらわになったツヤのある黒髪とバンダナの間に、小さなチップが入っていた。

「だろうと思った」

 ライゼは鼻息交じりに一人納得して、そのチップを指でつまむ。

「俺たちドールもそんなにヤワじゃねえから放っておけば目を覚ますだろうが、そんなの待ってられないだろ。こいつでたたき起こすぞ」

「それをどうするんだ?」

 ユウが聞くと、ライゼは「こうする」と言いながらバンダナちゃんのシャツのえりをぐっと引き下ろした。その途端、ユウの視界はやみおおわれた。

「うわあ!」

 ユウが驚く。目の前が真っ暗で妙に温かい。アーシャが両手でユウの目を塞いだらしいのがようやくわかった。

「アーシャ?」

「アンタにはまだ早い」

「何がだよ……?」

「うるさい未成年」

「アーシャもでしょ」

「うるっせえなギャラリー、終わったよ」

 ライゼの声が聞こえ、ようやくユウの視界が戻った。

「ぶぁー」

 変なうめき声が聞こえた。誰の声かと思っていると、どうやらバンダナちゃんらしいのが分かった。

「“ぶぁー”って初めて聞いたわよそんな声」

 アーシャもアーシャで変な声をしている。

「も~う~。その起こし方はやめてって言ってるじゃない~」

 ああ……、これは既視感きしかんがあるぞ。とユウは顔を引きつらせる。平日の父親のダルそうな朝の光景だ。

 起き方はひどいが、どうやら彼女は無事だったらしい。一同はほっと胸をなでおろした。

「バンダナちゃん、大丈夫かい」

 ユウが声をかける。

「あ、はい、すみません」

 バンダナちゃんは首をふるふると振って頭に違和感を感じたのかバンダナをむしり取って、寝ぼけたままの顔ですっぽりとかぶった。少しズレている。

 その横で「バンダナ……ちゃん……?」とライゼは唇に魚の骨が刺さったような顔をしたが誰も気づいていなかった。

「おい、101ワンゼロワン

「うん?」

「誰にやられた?」

 ライゼは物騒なことを言い出したが101ワンゼロワンことバンダナちゃんはそれを否定した。

「やられたって……違うわ。突然バリッてきて、ドーン」

 彼女はおっとりした顔で答えた。

「分かんねえよバカ」

 一同の意見が実はここで一致した。

「ところでお前、バンダナちゃんとか呼ばれてたが「エンゲージ」はしたのか?」

 若干青ざめた顔でライゼは尋ねる。

「エンゲージ?してないよ、誰とも」

「そうか……」

 それを聞いて安心したらしく、ライゼは本棚に寄りかかって座った。

 「101ワンゼロワンっていうんだ」ユウがぽつりと言った。「……何の数字?」

「……悪いが、それはまだ言えない。ただの名前みたいなもんだ」

 ライゼはまだユウのことも信頼してはいないみたいだ。

「そっか、ごめんな」

「味気もくそもねえ名前だけど、バンダナちゃんよりはいくらかマシだろ」

 「確かにそうだ」とユウは笑う。

「“ライゼ”って」

「ん?」

「これは偽名なんだろ」

 ユウに図星をられたのか、ライゼは「ああ」と小さくうなずいた。

「アーシャの不自然な返事を聞いてて何となく気が付いたんだ。でも、僕はカッコいいと思うよ」

「ホントか!」

 ライゼは覆いかぶさらんばかりの勢いでユウに迫った。

「う、うん。あの時僕に聞かれて咄嗟に考えたのかもしれないけど、センスあるなぁ、って」

「だろ?だろ?短くまとめてるのに最後を「ゼ」で締めくくってるところとかさぁ」

 そんな様子をアーシャはため息交じりに見つめていた。「バカらし……」

「でもさ、なんでわざわざ偽名なんて?」

「俺たちドールにとっては、名前ってのは特別な意味を持つんだ。かと言って何も呼び名が無いのは不便だろ」

「そっか。人間もそうだよ。名前って、親が子供に願いを込めてつけるものだから。

 僕は、僕の名前にどんな意味があるのか知らないけど、アーシャは美しさで伝説になった人魚の名前が由来だって聞いたことがあるね」

「えっ、そうなんだ」

 アーシャは自分でも知らなかったことを今知ったらしい。

「前にトメルクさんが話してたのを聞いたんだよ」

 ユウは笑った。

「へ、へぇ~……」

 アーシャは美しい人魚が由来だと聞いて照れたのか、ちょっともじもじしている。

「でも「バンダナちゃん」はねえよな」

「ホントだよ、ひどいよ」

 その後に続く二人の連携攻撃に心をグサグサとえぐられていたようだが。

 「名前か……」と、バンダナちゃんは胸もとをぎゅっと押さえた。「私もほしいな」

「やめとけ、やめとけ」

「なんで。ライゼだけずるい」

「エンゲージのことだ。よく考えろ。あのなぁ、お前は軽く考えてるかもしれないけど――」

 ライゼの説教が始まった。ユウもアーシャも、二人の間でよくわからない単語が飛び交っているのを聞き流しているが、どうやら軽々しく名前を付けるのはよくないことらしいのは分かった。

 ユウは改まった調子でライゼに向き直った。

「僕たちは人間で、君たちはドール。お互いのことは何も知らないと思う。

 でも、僕の先生が言っていたんだ。そのものを知ることは、怖さを克服することだって。知らない物は怖いけど、相手を知ることが出来れば、きっとそれは助けになると思うんだ」

「なるほど、確かにそうだ。その先生の言ってることは正しい。だけど、教えることが怖い、ってこともあるんだ。分かってほしい」

「そうか……じゃあ、無理にとは言わないよ。僕らのことを信じられるようになったらでいい」

「ねえユウ、それにライゼ、バンダナちゃん。この事は、私たち四人の秘密にしようよ」

 アーシャの提案にみんなは言葉なくうなずいて、ここに一つの結束が生まれた。


 しばらくして沈黙が訪れた。ユウは庭に出かけて、雑草まばらな地面の上に大の字になって寝転んだ。緊張から解放され、全身の筋肉がようやくほぐれた。

「あー、今日はもう本当に疲れた……二度とやりたくないよこんな冒険」

 アーシャもそれに続いた。

「あたしも」

「でもひどいなぁアーシャ。最初っから言ってくれれば、僕は協力したのに」

「ごめんね、なるべくこの事を広めたくなかったんだ」

 アーシャはすうっと深呼吸した。深い秋の空気を、空に向かって押し返すように。

 隣に座ったバンダナちゃんはにっこり微笑んだ。

「でもアーシャさんは、私たちのことをとても考えてくれた」

「……」

「だから、駅前であんな演奏会を開いたんですよね」

「いやまぁ、アレは……」

「どういうこと?」

 ユウが尋ねると、言葉少なになるアーシャの意をんで、ライゼが引き継いだ。

「ドールでも、人間らしく生きたい……そう言ったのはこいつで、そんなのは無理だって言ったのが俺だ」

「だからアーシャさんは、誰が見ても私たちが人間にしか見えないってことを証明しようとしてくれたの。大勢の前で」

「……へへっ」

 ユウは上半身で起き上がって笑った。

「ちょっ、何よ笑わないでよ!」

「そうやって一人でずんずん進んじゃうなんて、ますますダメだよアーシャ。僕に相談してくれなきゃ」

 ユウはまだ笑っていた。

「よし、母屋に行こうよ。きっとシスター・ミラがクッキーを焼いてくれてると思うから。アーシャも疲れたでしょ」


          ◇◆◇


 ――そう。この日の出来事に、重大なヒントは隠されていたんだ。なぜ僕は、もっと深く思い出さなかったのだろう。

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