第2話【少年の原風景】

 屋根の上から東の海を眺める。景色は静かだった。優しい風。いだ海。虫の声。銀色の半月。暗闇に浮かぶ灯台の光。

 あの日も、こんな静かな夜だったような気がする。ただ、そんなものに気持ちを揺さぶられるほどの余裕がなかった。

「こんなところにいた」

 今は一人で静かにしていたいのに、少女の声が聞こえた。

「お前か」

 よじ登ってきた少女に、少年は聞えよがしのため息をついた。

「危ないよ」

「危ないからいいんだよ。他人ひとが寄り付かない。……で?何しに来たんだ」

「一人で出て行ったのかと思って、心配したんだから」

「出来るもんならとっくにそうしてる」

 お前がドジを踏んでさえなければな、と少年は内心でイラついた。少女はお構いなしに少年の隣に座る。

「アイゼン」

 少女は一人考え込むようにぽつりと言った。

「ん?」

「マイズ、だったかな」

 そして今度は尋ねる顔。

 少年、ライゼは自分のことだと分かるまで少し時間がかかった。

「ライゼだよ」

 ライゼはそして照れ臭そうに、

「どう思う?」

 聞いてみた。

「どう思う、って?」

「名前だよ、名前」

 「ああ」と少女はうなずいて、少し目が泳ぐ。

「やっぱり、変」

「変だって!」

 ライゼはちょっと気が短い。少女はちょっと人の気が読めない。

「自分で自分に名前を付けるなんて、変だよ」

 少女はにっと笑った。

「違う、そうじゃない。俺はカッコいいかどうかを聞いたんだ」

 ライゼはやきもきするが、それを聞いた少女は声を上げて笑った。

「あっははは!男の子って、やっぱりそういうの気にしてるんだ!はははははっ」

 結局彼女は答えてくれない。ライゼは舌打ちすると「ああ、もういい!」とどっかり座ってねてしまった。


          ◇◆◇ 


 ユウの家から南へ辿り、小さな山を一つ越えると、彼の暮らす家に負けず劣らず質素なたたずまいの孤児院がある。

 安い土地を生かして建物は広いのだが、白塗りの壁は傷み、高く掲げた看板は薄汚れ、二階の窓ガラスは外側がちょっと欠けている。一見すると廃墟だが、今でもたくさんの子供たちの声が庭に響いている。

 裏には大きな畑があり、その半分では麦を、もう半分ではシロヤブイモを栽培している。若いシスターが仕事着を着て、時折は子供たちを引き連れて世話をしているのは農耕教育の一環にもなっている。

 鉄柵を開いてここに足を踏み入れたのは数か月ぶりになる。郵便受けに何か入っているならついでに持って行ってやろうと思ったが空っぽだった。扉の前まで来ると安堵あんどのため息が漏れた。長い坂道を越えた足が休ませろと文句を言っているようだ。

 可愛い羊をあしらったドアノッカーを握ると指にび粉が付いた。ズボンで払い落としてからノックを二回。待っていると、現れたのは一番若いシスター・ミラだった。

「お久しぶりです、シスター・ミラ」

 栗色のくるくる巻き髪に大きなフチなし眼鏡の若いシスター・ミラはユウを見るなり、ぱっと花開いたような笑顔を見せた。シスターと言っても、今は動きやすいチュニックとひざ丈のスカートに平底のブーツという身なり。ただの町娘にしか見えない格好だが、庭の泥仕事から炊事洗濯まで修道服でやるわけにはいかない。

「ユウじゃない!突然どうしたの!」

 化粧っ気がなく、目元のそばかすに構う余裕もないらしいが、その笑顔は人を癒す力があるように思う。

 四人いるシスターの中では一番若い、らしいが年齢を聞いたことはない。それでもユウより七つか八つは年上だろう。同い年のくせにお姉さんぶっている誰かより、よほど「お姉さん」としての風体ふうていがあった。

「あれ、言ってませんでしたっけ。虫干しの日にお手伝いに来るって」

「あら、そうだったのね。もう、たぶん院長が忘れてたんだわ。ささ、いらっしゃいよ」

 木の板張りの狭く薄暗い廊下は相変わらずだ。階段下の物置扉の前辺りでギリギリと軋むことも覚えている。

「シスター・ミラ、アーシャは来ませんでしたか?」

「アーシャ?だれなの?ユウのガールフレンド?」

 聖職者といえどいい年頃の女性。人の色恋沙汰いろこいざたにはキラキラと目を輝かせる。……でも違いますからね?

「違いますよ。キャップゲーツ海運の娘さんです」

「ああ~、トメルクさんの!そっかそっかぁ、娘さんはユウの同級生なんだよね。いや、来てないわよ」

「そうですか。今日はあいつが一緒に手伝ってくれるんです」

「へ~ぇ。そりゃあ楽ができるわね。ユウもあれから元気そうでなによりだわ」

 シスター・ミラは裏口まで歩いていくと、洗い場にごっちゃりと積んであったシーツを一枚一枚広げて、木の間に架けたロープに干してゆく。真ん中あたりに薄茶色いシミ汚れが残っているのも変わっていない。もう生地自体が古くなっているし、高価な化学洗剤の代わりにそこいらで拾ったムクロジの実を使っているのだから、どんなに洗っても落ちるものではない。

 ユウは言われるまでもなく、シスター・ミラに続いてシーツを広げて干してゆく。

 「もう、いいのに」とシスター・ミラはこそばゆい笑みを浮かべた。

 シーツを全て干してしまうと、今度は昼ご飯の支度に入る。

「お腹すいたでしょ。芋余ってるから、ユウの分も作ってあげるわよ」

「いえ、そんなお世話になるわけには……」

「手伝ってくれるんでしょう?お駄賃がわりよ」

 ユウは孤児院への恩返しのつもりだったのに、余計な手間をかけさせてしまったようで心苦しい。孤児院では昼の礼拝前に食べてはいけないというルールがあった。とりあえずは準備だけ済ませておくのだろう。と思いきや、

 「ユウにはもう関係ないもんね。私たちが向こう行ってる間、食べてていいわよ。一緒に食べるには椅子も余ってないし」

 と言われてしまう。なんだかちょっと寂しかった。

 子供たちはユウを見つけるや、廊下をドタドタと走ってきた。

「ユウ兄ちゃん!」

「おっ、元気にしてたか?」

 ユウは顔をほころばせてちびっ子を腰から抱え上げた。

「あ、いいな!僕も!」

 と別の子供が飛び乗ろうとしてくる。

「無理無理、二人いっぺんなんて無理だからさ」

 ユウは笑いながらなだめる。

「ユウ兄ちゃん、オレね、走るのすっごいつよくなったよ!もうユウ兄ちゃんにも勝てるし」

「へぇ~、そうかそうか」

 「走る」のが「つよい」とはどういうことだ、と心の中では苦笑しつつ、ユウは抱き上げたちびっ子を床に下した。

「試してみるか?オレが勝つからさ!」

 元気いっぱいというか、血気盛んというか、小さな男の子は勝負事にはすぐ熱くなるものだ、と自分が小さかったころのことを重ね合わせてみる。父さんにからかわれて、ムキになって、泳ぎも釣りも腕相撲もキノコ採りも勝てなくて。笑われて悔しくて、次は絶対勝ってやるって思ってたっけ。

「ごめんな、今日はお手伝いに来たんだ。遊べないんだよ」

「えぇーっ」

 でた芋をマッシャーでつぶしていたシスター・ミラは「あんたたち、廊下で走っちゃだめよ」と注意する。

 「うるっせーブス!ウマ女!」と悪態をついた子供に、今度はユウが「そんな事言うんじゃない!」とたしなめる。

 するとユウが味方をしてくれなかったのが悔しいのか、唇のとがった顔を見せて奥の部屋へと消えていった。おともの子供たちも「待ってよ!」と追いかける。年長者のユウがいなくなった今では、すっかりガキ大将社会が出来上がっているようだ。なるほど、ガキ大将はえらくて強くなければいけない。だからシスターにもヘコヘコしない所を見せたがっているようだ。……それってただの反抗期じゃないのか。

「はぁ~あ。困ったもんだわ」

 と言うが、シスター・ミラは言葉ほど困っている風もなく、鼻歌を絶やさない。子供の扱いはお手の物、といったところか。びくともしない。

 ブリキのミルク缶から木のボウルで牛乳をさぶさぶと豪快にすくい上げ、網でこしながら大鍋に移す。それならいっそミルク缶をひっくり返した方が早いんじゃないか、と思うほどの量だ。それだけここの孤児院はたくさんの子供たちを世話している。

 今彼女が作っているのは、この孤児院の定番メニュー、通称「どろどろスープ」らしい。ひどい名前の割に味は悪くない。ミルクベースのスープにつぶしたシロヤブイモを溶かし、後はその日の気分で適当な豆か野菜を少し入れて塩味を付ける。半溶けになった芋のどろどろが名前の由来で、その食感が結構おいしい。

「鶏肉は入れるんですか?」

 念のため、聞いてみた。

 本当に極まれに鶏肉が入ることもあり、そんな時は子供同士で小競り合いが始まったものだ。あいつの方が大きいだの、一個多いだのと言い合いになるや、シスター・ミラやシスター・ニーチに「ケンカするなら二度と入れません!」と注意され、みんな大人しくなり沈黙の停戦協定が結ばれる。というのがお決まりのパターンだった。

 そしてそんな小競り合いに負けた子にこっそり譲っていたので、ユウは自分のスープに鶏肉が入っていたことは一度もない。ちびっ子たちはそんな「鶏肉戦争」で険悪になるかと思いきや、食事のあとはすっかり忘れてしまい、何事もなかったかのように一緒に遊んでいるのだから大したものだ。

「ないない」

 シスター・ミラは大鍋をおたまでかき混ぜながら苦笑する。

「人が増えたから、当分はそんな贅沢してらんないわ」

 「そうだろうな」とユウはつぶやいた。

 また廊下を歩いてくる音が聞こえた。

「ミラ、ニーチを見ませんでしたか?」

 おっとりした低く懐かしい声。暗闇からすっと現れた姿勢は今でもまっすぐで、ふっくらとした頬にたたえた優しいほほえみ。

 塞ぎこんで自暴自棄になっていた二年前のユウの負の感情を、全て受け止め愛してくれた彼女こそ「皆のおばあちゃん」であるドーネッタ院長であった。自分も率先して洗い物や掃除をするから指先ははガサガサで、手の甲にはしわがいくつも刻まれている。

 初めて出会った頃より、彼女の背は縮んでしまったのか、いや、自分の成長で目線が高くなったのだと思いたい。

「シスター・ニーチなら、買い出しに町に下りてますよ。もうじき帰ってくる頃だと思いますが」

 「あら、そうだったわね」と、お茶目に舌を出して見せる。そのしわ深い目がユウを認めた。

 ドーネッタが口を開くより早く、ユウは椅子から立ち上がった。

「お久しぶりです、院長先生」

「あらユウ君。本当にしばらくねえ」

「今日は、虫干しのお手伝いに」

「そうそう。そうだったわ。物忘れが早くて困るわねぇ」

 なんだかその言葉に不安になってしまった。院長にはもっと、長生きしてほしい。

「ビックリしましたよ。急にユウが来るんですもの」

 と首だけ振り向けてシスター・ミラは笑う。

 一つ屋根の下にみんながいる。この懐かしい温かさ。一人暮らしを始めたときに何か抜け落ちてしまったように感じたものは、これだったのだ。

 でもずっとここにいると、この居心地の良さから抜け出せなくなってしまいそうだ。独り立ちをしないといけない。ユウはぐっとこらえた。――しっかりしろ、来年は十五歳だぞ。大人じゃないか。

「今日は僕の友人も手伝ってくれることになっています」

「そう言ってくれるなら、甘えないといけないわね。以前やったところと同じだから分かると思うけど、礼拝堂の東側の書庫にある本よ」

「手順も同じでいいですね」

「そうそう。ユウ君は本当に優しい子ね。それに強く育ったわ」

 ドーネッタ院長は孤児院の誰もを我が子、我が孫のように可愛がっている。彼女にとってユウの健康、ユウの成長は我が子のそれと同じに嬉しい物なのだ。


 玄関のドアが開く音が聞こえた。ノックは聞こえなかったがアーシャだろうか。少し不作法ぶさほうじゃないか、と思っていると、

「戻りました」

 と強く涼やかな紺色のような声が聞こえた。

 黒く長いストレートの髪と、すらっとした長身のシスター・ニーチが、薄い紙袋に野菜や果物、粉物などを二袋ばかりパンパンに詰めて抱えていた。いつ破れてもおかしくない。

「あら、ユウが来ていたのね」

「お久しぶりです、シスター・ニーチ」

 シスター・ニーチはいつも冷静で、シスター・ミラのように甘く歓迎してくれるわけではない。挨拶もその一言で済ませ、紙袋を大テーブルに預ける。

「ニーチ。お疲れ様。あなたを探していたのよ」

「何かお困りごとですか、院長」

「勉強のことを質問されたのだけど、私じゃ答えられなかったわ。やっぱりあなたじゃないと」

 シスター・ニーチはクスッと笑うと「分かりました、お伺いしましょう」と快諾かいだくする。山道を往復してきたばかりなのに嫌な顔一つしない。

 彼女は元学校教師という経歴を活かして、この孤児院で勉学を教えている。さすがに彼女一人で学校と同レベルの教育を施すことなど出来ないが、学校に通えない子供たちに勉強を教えられるただ一人の頼みの綱なのだ。

 彼女の教え方は厳しいとまでは言えないが、シスター・ミラのようにベタベタと甘やかすことがない。そのため子供たちからは一定の距離間を保たれている。

 一方で、実はシスター・ミラと同じぐらいの近視でありながら、これ以上気の強い印象を与えないためにメガネを付けることを我慢している。結構気にしているのだ。

 ちなみにシスター・ミラは「メガネを付けないから、逆にこう、目がぐーっとなって睨んでるように見えるんじゃないかしら」とユウにぼそりと言ったことがあり、ユウもこっそり納得した。

 買い物袋の後始末をシスター・ミラに任せると、彼女と院長は別室へ向かった。本当にこの孤児院のシスターたちは大変そうだ。

 シスター・ミラが料理にひと段落を付け振り返ると、その紙袋は二つのうち一つが空になっていた。何か後ろの方でもぞもぞ音がするな、と気づいてはいたが、ユウが一人でそれを片付けていたのだ。

「ニンニクはどこでしたか?」

 ユウがそっけなく尋ね、シスター・ミラは「あ、それはここね」と小物入れになっている引き出しを開ける。

「悪いわね、いろいろと」

 またユウは「年長者だから当然のことですよ」という顔をしている。あの頃から変わっていない。


 ちょうどシスターたちが礼拝へ行く時刻に、ドアのノックが二回響いた。着替え途中だったシスター・ミラに代わってユウが玄関へ行くと、そこにはアーシャが、そして昨日見かけたバンダナの少女が立っていた。

「あら、ユウ」

「やあ、いらっしゃい」

 アーシャは「いらっしゃいって」と笑う。「アンタの家じゃないんだからさ」

「おや、君まで来てくれるとは思わなかったよ」

 とユウはバンダナの少女に目を向ける。

「よろしくお願いします」

 と、その少女はぺこりとお辞儀した。

「ええっと……君のことは何て呼べばいいかな」

 と尋ねると、アーシャが割り込んできた。

「そうねぇ、バンダナちゃんでいいんじゃない?」

「バンダナちゃん……」

 ユウは喉に魚の骨が引っかかったような顔をした。

「バンダナちゃん……」

 バンダナちゃんは歯に魚の骨が挟まったような顔をした。

「ライゼは一緒じゃないんだね」

「ライゼ?」

 アーシャはきょとんとする。

「昨日一緒にいたじゃないか」

「あ……ああ。いや、アイツは来てないわよ」

 なんだかやっぱりぎこちない。

「そっか。まあでも、ありがとう」

 そこに、ようやく着替え終わったシスター・ミラが来客に挨拶した。

「いらっしゃい。私、ここの孤児院のシスターで、ミラ・エナ・フゥエットといいます。あなたがユウのお友達のアーシャさんね」

 白いウィンプルと紺のベール、紺のワンピースを着て、タリスマンを首にかけたシスター・ミラは、先ほどまでとがらりと印象が変わる。物腰は柔らかく、どこから見ても清潔せいけつ清廉せいれん敬虔けいけんな修道女そのものだ。よく見ろアーシャ。「お姉さん」っていうのはこういう人を言うんだぞ。

「あ、どうも、よろしくお願いします」

 とアーシャは気圧けおされることはないが、ややかしこまった態度で返す。

「そちらの方も、お手伝いさん?」

 バンダナちゃんは窒息でもしそうな顔でガバッと大ぶりなお辞儀をした。チャームポイントのバンダナがすっぽ抜けてしまいそうで心配だ。

「そう、ありがとうね。見て面白い物なんて何もないけど、スープでも召し上がってください。せっかくいらしてくださったのに不躾ですが、私たちはこれから昼の礼拝がありますので失礼させていただきます」

 と、シスター・ミラはカツカツと急ぎ足で礼拝堂へと向かっていった。


 まだ温かい「どろどろスープ」を木皿に注いで、ユウがふるまった。具材はみじん切りのニンジンだけで寂しいが、乳白色のスープから香ばしい匂いがする。乾燥パセリをくしゃっとつぶして真ん中にぱらぱらと散らせば、これでも立派な料理に見える。

「食べれるの、あなた」

 アーシャはいぶかしむような顔でバンダナちゃんに尋ねる。当のバンダナちゃんと言えば

「はい、大丈夫ですよ」

 とにっこり笑って返す。

「アレルギーでもあるのかい?」

「うん、まぁ、体の弱い子だから」

「そっか。大変だね」

 アーシャは考え事でもするように少し頭を抱えていた。

「食べないの?食べたらすぐ始めるよ」

「ああ、ごめん」

 どこか心配そうに見つめるアーシャをよそに、バンダナちゃんはスプーンで掬ったスープを飲んでとろけそうな笑顔になる。

「んっふー」

「“んっふー”って……そんなコメント初めて聞いたわ」

「すっごく美味しいですよ!これ!」

「なるほど、“おいしい”か……」

「心配しなくても、シスター・ミラは料理上手だよ」

 と言いながらユウはかき込むようにスープを飲んだ。アーシャも一口飲んでみてから「うん、こりゃ美味しいわ」と続く。

 ユウはスープを食べ終えると体のエンジンをかけるように両足を強く踏ん張って立ち上がった。

「うんっ!元気が出てきた!」

 アーシャも遅れて食べ終え、ユウがせっせと素早く三人分の皿を洗ってしまう。

「今日の風ならいい日和ひよりになりそうだ。早速始めよう」

「はいよ、了解」


 今頃はドーネッタ院長が子供たちに説教をしている時間だろうか。渡り廊下を子供たちの邪魔にならないように足音に気を付けて、私語厳禁で礼拝堂の前を通り過ぎた。ユウはもうとっくにここを卒業しているのに、礼拝に参加していないことに申し訳なさを感じてしまう。体が覚えてしまったのだろう。

「うげぇっ!」

 書庫を開けたとき、アーシャが汚い声を上げた。

「しーっ」

「しーっ」

 ユウとバンダナちゃんに同時にたしなめられ「ごめんごめん」と苦笑いする。

 歩けばホコリが舞いそうな寂しい部屋に、古めかしい本が百冊、二百冊……もっとあるだろう。

「あの、虫干しって、何をすればいいんですか?」

 バンダナちゃんがいまさらのように尋ねる。アーシャめ、やっぱり無理やり連れてきたんだな。

 ユウはバンダナちゃんの目線に合うようにかがんで優しく説明する。孤児院にいた頃から年下の子供たちに話をする時のクセだ。

「うんとね、虫干しっていうのは風のある日陰で……こうやって本を広げて、しばらく干しておくんだ。本に小さな虫とかが住み着かないようにね」

「あ、日陰?日なたじゃダメなんだ」

 アーシャもきょとんとしている。

「日に当たると紙やインクが傷んじゃうんだよ」

「へぇ~、詳しいわね」

「昼から夕方は、ちょうどこの庭で廊下沿いが全部日陰になるし、ここは山の斜面だからいい風が吹く。だからここでこの時間に虫干しをやるんだ」

「なるほどねぇ。しっかしまぁ、この数。始める前から肩がこるわね」

「僕らだけでやるわけじゃないよ。これは孤児院のみんなでやる行事だから」

 ユウはてきぱきと外の木机に置いてあるものをいったん取り払って場所を確保する。

「さ、どんどん行くぞ」

 アーシャとバンダナちゃんも加わってせっせと本を運び出し、机の上で広げて干す。場所が足りなくなると、椅子でも何でも使って次々に干していく。

 バンダナちゃんが一人で大きな本を五冊も積んで抱えているのを見て、慌てたアーシャが三冊を奪うように取り上げた。

「そんなに持ったら重いでしょ。無理しないの」

「いえ、無理なんて……」

「いいのいいの!」

 何か言いたそうなバンダナちゃんを、アーシャは勢いで押し負かした。

「そうそう。ほんとに無理しなくていいからね、バンダナちゃん。ゆっくりやろう」

 と、ユウまで言うものだから、バンダナちゃんはしぶしぶ頷いた。


 ほとんど雲がなく、青い空が広がっていて風も気持ちいい。

 本棚が一つ空っぽになり、作業が進んでいるという実感がモチベーションを上げていった。

「うわ、なにこれ。紙が硬いわ」

「ああ、その辺のヤツ、特に古いから気を付けてね」

 この孤児院に古くから受け継がれている本には羊皮紙ようひしが使われている。紙自体はとても丈夫だが、虫がつくと紙を食べられてしまう。そこで虫干しの出番というわけだ。ただし花布はなぎれは破れかかっているから、いつカバーからげ落ちてしまうか、気が気ではない。

「へぇ~」

 と、アーシャは中世に流行したファッションとアクセサリーの百科事典に興味津々。しかも図解や挿絵まで入っている。片付けの途中に面白い本を見つけてしまうとそこで手が止まってしまうという、あの現象だ。

「アーシャ」

「はぅっ、ご、ごめん」

しかしユウの方にもその誘惑がやってきた。

預言竜よげんりゅう……?」

 奥の本棚の一番上。厚く古めかしい装丁そうてい仰々ぎょうぎょうしい本が目に留まった。

「なーによユウ、あんただって」

 とアーシャは言いかけて言葉を止めた。

「預言竜の伝承。ほう」

「アーシャ、知ってるんだ」

「いやいや?ただ、男の子ってやっぱこういうドラゴンみたいなのが好きなんだなぁ~って思っただけ」

「そりゃあ好きさ。カッコいいんだもん」

 かなり古い本だ。ページをるごとに変なにおいもする。

 大判で分厚い紙をめくると、学校でも教わらない、まったく知らない歴史がっていた。クシュレダン、ワイアビッシェ、エヌラウ……預言竜とやらには奇妙な名前がついているようだ。現代的なセンスではない。

「あー、でもそうね、エンヴァラでは預言竜の……なんとかって。あー、名前出てこないんだけど、それを御神体ごしんたいにしてる宗教みたいなもんがあるって、パパが言ってたわ」

「ハハ、人間がドラゴンを崇めるなんて、何でもアリだねエンヴァラは」

 ユウが苦笑していると、後ろでバンダナちゃんが腰に手を当て頬を膨らませていた。

「ふたりともっ!」

「あ、ごめんなさい……」


 三人だけでおよそ三分の一は干し終えた。子供たちやシスターは礼拝が終わると昼食の時間なので、こちらに来るまでまだしばらくかかるだろう。いっそこの三人だけで終わらせてしまおうか。というやる気までわいてくる。きっとみんな驚くに違いない。

 もう本を開いて干せるスペースが枯渇こかつしつつあった。さてどうするか。前回の虫干しは礼拝堂から椅子か何かを持ってきたが、今回はそうもいかない。

 額の汗をぬぐって、ユウは書庫の奥をあらためながら計画を練る。そんな時、奥の方にしまってあったボードゲームの「レガシィ」が目に留まった。

「まだここにあったのか」

 確かユウが孤児院を去る直前ぐらいの出来事だったか。子供たちがすぐケンカをするから、とシスター・ニーチがここへ持ってきてしまったのだ。ほとぼりが覚めたらまた出してやろうとして、結局忘れられたのだろう。

 この間駅前のカフェで見かけたものはよく磨かれていて、その真鍮しんちゅうの半球は金色の光を反射していたが、こちらの方はあちこち黒ずんで、ほこりを被ってしまっている。同じものでも持ち主の関心があるとないとではこうまで差が出てしまうのか。

 ここにおいてレガシィはどうでもいいが、そのレガシィが乗っているテーブルを使いたい。

「よし、アーシャ、この机を外に出そうよ。バンダナちゃんはこの丸いヤツをそっちへ運んでくれるかな」

 そうはいっても、バンダナちゃんは背が低い。机の上のレガシィを取ろうにも机が高くて胸でつっかえてしまう。

 そこでアーシャがひょいと掴んでバンダナちゃんに手渡す。

「ふうん?これ何?」

 アーシャはレガシィを知らないらしい。ショックだ。こんな世界的に有名なゲームを知らないんて。

「大昔からあるボードゲームだよ。壊れてるわけではなさそうだ」

「へぇ、面白い物がいろいろ出てくるわね、これってどうやるの?」

「真ん中のボタンを押して……って、そんなことやってる場合じゃないでしょ。机持ってよ」

 アーシャは人の話も聞かずにボタンを押してしまう。盤面ばんめん上に青白い光が浮かび上がった。

「うわ!うわ!ちょっとユウ、これどうやって止めんの!」

「もっかい押せば止まるから」

「止・ま・ら・な・い・ん・で・す・け・どっ!」

 アーシャはボタンを連打する。

 「そんなわけないよ」とユウもボタンを押してみるのだが「あら、ほんとだ。……壊れたのかな」

 ユウが「これはまずいぞ」という顔になった。アーシャも思わず目をそらす。

「……弁償?」

「どうだろうね。今はすっかり骨董こっとう品になってて、場合によっちゃ二万ペールもするとか」

 ちなみに、ユウが一日せっせと働いて、七十から八十ペールぐらいの稼ぎになる。

「そんな金あるかー!」

「あーあ。知らない」

 ちょっと意地悪な顔をしてやるユウ。人の話を聞かないからだぞアーシャ。

「ちょ、ちょっとぉ~!どうにかしてよユウ」

 アーシャがおろおろしている様子がバンダナちゃんにも伝染し、二人でおろおろしているのだから見ていられない。そろそろ助け船を出そう。

「まあ、これもずっと前からこの孤児院にあって、子供たちがほとんど使い倒してしまったし、機械の寿命だと思うよ。長く遊んでもらえて、きっとこいつも本望だったに違いない。そんなに落ち込むことないよアーシャ」

 ユウの慰めに、アーシャはいくらか元気を取り戻した。

「さてバンダナちゃん、これを向こうの邪魔にならない所に置いてきてくれるかな」

「分かりました」

 バンダナちゃんにそっと手渡す。

「ちょっと重いからね。落とさないように気を付けて運んで」

「はい」

 とてとて、とペンギンのような歩き方でバンダナちゃんがレガシィを持って行った。

「アーシャ、いつまでも凹んでないで向こう側持ってくれる?」

「うん、ごめんごめん」

 アーシャは本棚と机の間の狭いスペースを背伸びで体を細くしながら通り、「ほっ!はっ!」と変な声とともにずりずりと反対側に回る。ユウはその間に机の上の羽ペンやメモ帳を取っ払った。

「はーい」

 と彼女が合図して、二人で大きな机を持ち上げようとしたその時だった。

「きゃあっ!」

 本棚を挟んで反対側。今バンダナちゃんが歩いて行った方から激しいフラッシュと同時に、バンダナちゃんの悲鳴が聞こえた。そして、倒れる音。

「ちょっ、ちょっと、何!」

「バンダナちゃん?……ごめんアーシャ!ちょっと待ってて」

 ユウは持ち上げかけた机をそっとおろすと急ぎ足でバンダナちゃんのもとへと駆け寄った。


 バンダナちゃんが倒れ、レガシィは床に転がっていた。何が起こったのか見当がつかない。

「バンダナちゃん!しっかり!おい!」

 ユウはバンダナちゃんの肩を揺さぶるが、彼女は腕をだらんとしたまま目を覚まさない。ユウは心配になって彼女の両肩を引っ張って仰向けに寝かせた。彼女の口元に耳を当てる。

 呼吸が聞こえない。

「まずいぞ……」

「ユウ!」

 ようやく机と本棚の狭い隙間から体を抜け出せたアーシャが駆け付けた。

「アーシャはここにいてくれ、バンダナちゃんを頼む。僕は医者を呼んでくる」

 その言葉にアーシャは青ざめた。

「えっ」

「何があったか知らないけど、呼吸がない。一刻を争うかもしれない!」

「ちょ、ちょっと待って……それはダメ!待ってユウ!」

 走り出したユウを、アーシャは食い下がるように止めた。

「なんで!」

 アーシャは震えている。なかなか言葉が出てこない彼女にユウは苛立った。

「ユウ、その……落ち着いて」

「落ち着かなきゃいけないのは君の方だ!」

 ユウもつい怒鳴ってしまう。

「違うの!」

 アーシャの真剣な表情はなんだ?ユウは違和感を覚える。

「落ち着いて、私の話を聞いて。ユウ」

「えっ」

 アーシャはなぜだか、今にも泣きだしそうな顔をして、ようやく声を出した。

「この子は……」

 本当に言わなきゃいけないのか、自問自答するように、シャツのえりもとをぎゅっと握った。

「――この子は、人間じゃないの」

 言葉の意味をうまく呑み込めない。

 でも、嘘ではないのだろう。なぜなら、

「人間じゃない?」

 十歳かそこらの細身の少女にしては、身体がすごく重い。まるで鉛の服でも着こんでいるように。バンダナちゃんの肩を引っ張った時に確かにそれを感じた。

「そう、医者に見せたって、どうにもならないんだよ」

「じゃあ、一体……」

「この子は「ドール」……自分のことを、そう呼んでいた」

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