ガーディアンズガーデン

夜盗

人形は夢を見た

第1話【思い出の歌】

 世界にこれほど陰気いんきな街があるだろうか。上辺だけの光が夜を照らし、人の心は堕落し、植物はすすを被り、むき出しの鉄と油の臭いが垂れ込める。

 昔は、こんな街ではなかったはずだ。身寄りのない老人が独りちて、星のない空を見上げた。


 ある夜、船着き場には大型の貨物船が停泊していた。検品待ちの荷がうずたかく積まれている。作業員は束の間の休憩に入ったようだ。たった一人残っている警備員も緊張感がなくあくび交じりだ。

 荷の影に隠れ切れていない大男が、辛うじて夜の闇に身を溶かし、脇にいる気の強そうに赤黒い髪を逆立てた少年と、黄色いバンダナを巻いた大人しい黒髪の少女にささやいた。

「ここから踏み出せば外の世界だ。もう俺はお前らを守ってやれない。覚悟はいいか?」

「ああ。オッサンも色々ありがとうな」

 小さなバッグを肩にかけ、少年はにっと笑った。

 三人は人気ひとけが無いのを確認すると、船を見上げた。

「戻ってこれなくなるぞ」

「戻らねえよ。人殺しにはなりたくないからな」

 隣の少女はただ小さく会釈えしゃくをするだけだった。別れの言葉をまだ知らないのかもしれない。大男は巨大な手で少女の頭をでた。

「この星球船せいきゅうせんは北の小さな町へ行く。外国の船だ。一週間は海の上だろうが、公海まで出たら奴らは手が出せないだろう。安心していい」

 星球船は星の移ろいを観測し、測距そっきょ追尾ついびをするための大型装置を持ち、晴れてさえいれば昼夜ちゅうやを問わず安定して運航することが出来る高級船だ。一端いっぱしの会社か富豪の所有船に違いない。

「分かった。……な、オッサン。もしもこの先アンタのそっくりさんに出会ったら、そん時はアンタのことを話してやるよ」

 大男は照れ気味に「よせや」と笑った。「俺にとっちゃ赤の他人だ」

「あっちはアンタに会いたくなるかもしれねぇぜ。だからよ」

「どうした?」

「死ぬなよ」

 大男はしばらく答えに詰まったが、ふっと笑顔を作った。

「俺のことを忘れないと、本当の幸せはやってこない。分かるだろ」

 だが、少年は負けじと言い返す。

「忘れねえ」

「頑固なヤツだ。それで務まると思ってるんだからよ」

「俺は、誰のものにもならねえ。だからアンタと、こいつと、ここまで来た。そうだろ?」

 少年はついにそっぽを向いてしまった。腕を組んで、夜の沖合おきあいをただ睨む。

 少女は背丈が倍以上はある大男を見上げた。その瞳は幼さとは裏腹の慈悲じひにあふれていた。

「さっきは、その、ごめんなさい……私のせいで」

 大男の左腕に出来た二つの銃創じゅうそう。彼女はそれを直視できなかった。自分のせいで彼をこんな目にわせてしまった、という悔しさが渦巻いてしまう。

「これか?俺のことなら心配いらねえ。弾も貫通してどっかに飛んでいっちまったしよ」

「けれど、あの人たちはとても執念深い。どうか気を付けてください」

「任せとけ。上手くやるさ」

「お元気で……」

「ああ。神とやらに祈るぜ。お前たちのハッピーエンドをな」


          ◇◆◇


 北の海岸の町イークダッドは夏がやや短い。今は豊かで長い秋のまだ中ほどといったところ。少し内陸に足を運んだ町の中心では海風が和らぐはずだが最近は朝がじんと冷え込むようになった。早い時間に街を行き交う人々を見ていると両手に息を吐き、ケープやマントで寒さを凌いでいる者もいる。冬の装いも目立ち始めた。

 赤や白のレンガの道がぐねぐねと伸びる緩やかな坂道に沿って、いくつもの商店がぽつぽつと立ち並ぶ。

 犬の散歩に出かける刃物研ぎ屋の娘は通りかかる人に元気な挨拶をかわし、フロックコートを着た紳士風の男は大きな荷物を受け取ると運び屋に銀貨一枚の礼金を手渡し、先月開業したばかりのパン屋は見込みを超えた盛況に客が列をなしている。今日も一日が動き出した。


 坂の中腹ちゅうふくに、看板を風にキィキィと揺らす二階建ての木工工房がある。高い煙突から細い煙を吐き続けているが、週に一度くらいは少年の咳き込む声とともに横っ面の窓から黒い煙を盛大に漏らす。おかげで近隣住民からは「今度こそ火事になったのか?」と恐れられている。

 イークダッドには、酒樽さかだるや水車の原料となる「焼き木」を作る工芸が何店かの工房に伝統技術として残されている。磨いた木材に、海藻から作った薬品を塗って干し、極低温で焼き入れ、更に仕上げの薬品を塗り込む。これによって水や臭気、虫やカビなどに強く長持ちする木材になる。いわゆる「下手物げてもの工芸」の一種にあたる地味な仕事だが、良い酒にはいい木材で出来た樽が欠かせないと、外国の酒蔵さかぐらからも愛され続けているのだ。

 少年ユウはそんな工房で働いて一年。ずっと材木の切り分けや、後始末の灰抜きなどの雑用をこなし、仕分けややすり掛けといった見習い仕事を覚え、最近はようやく小口の仕事に限って焼き入れを任されるようになったところ。だが、親方の検分は厳しい。焼き上がった木のツヤを見たり、テーブルで軽く叩いた時の音だけで良し悪しが分かるらしい。途中で温度にムラが出来たとか、ひっくり返すのが遅いとか、まるで傍でユウの仕事ぶりを見ていたかのように不思議なほど言い当てられてしまう。


 火の番をしているユウの足元で、白く細長い、イタチによく似た小動物がすばしっこく動き回っている。イークダッドの南の山によくいるチポリという動物で、襲われない限り人間に危害を加えることはない。小さいころから育てていれば人間にもよく懐く。正面を向いた顔や仕草が愛らしいことからこの頃はペットとしても人気が高い。この工房にも一匹のチポリがいつの間にか居ついてしまった。気分屋のクセにエサだけは一丁前にねだってくる。

「おい、ジェイ」

 ユウはそんなチポリに「ジェイ」と名付けて仕事の退屈を紛らわせているが、構ってあげないとすぐねていたずらをする困った相棒だ。機嫌がいいときは「キュー」、悪いときは「ギャー」と鳴き、この二つだけで人間とコミュニケーションを取れるのだから大したものだ。

「やめろってジェイ」

 ジェイは灰の詰まった土嚢どのう袋に今にも入り込もうとしている。山になった灰を見ていると、土を掘って巣を作る本能が刺激されるのだろうか。この間もひっくり返されて掃除に難儀なんぎしたばかりだ。

「またお風呂に入れちゃうぞ」

 そう言っても人間の言葉を理解している様子はないので、ポケットに入れていた魚の干物を取り出す。せっかくのおやつだが仕方がない。少しだけ裂いてジェイに見せつけて興味を引き「投げるぞ」とポーズで示すと、ジェイは二本足でぐっと立ち上がって身構える。ひょいっと投げたらジャンプして見事にキャッチしてくれた。

 弱い火で木を焼くには時間がかかる。読書でもしていればいいのだろうが、残念なことにこの工房にあるわずかな本はとっくに読みつくしている。

 椅子に座り一点をただじぃっと見つめると、軽い催眠に掛かったように昔のことを思い出してしまう。


 ユウは身寄りのない少年だったが、素直で温和な性格もあってか親方夫婦には息子同然に可愛がられていた。

 母は父との離婚後にかつて住んでいた世界最大の都市エンヴァラへ帰ってしまったという。金色の美しい髪だったということは強く印象に残っているが、堅物かたぶつでストイックな母だった。悪い人ではなかったが、仕事に熱中することが多くあまり楽しい思い出はない。エンヴァラにいた頃からずっと何かの研究者をしていたそうだ。

 本当に母がどうして父のような軽い性格の男と縁があったのか不思議でならない。

 その父は来月に死ぬ。もっと正確に言えば、父は二年前、ユウが十二歳だった頃に船の衝突と転覆てんぷく事故に遭い、辛うじて一命はとりとめたものの打ち所が悪かったらしく未だに目を覚まさない。意識の戻らない人間は法律上、三年で死亡扱いとされてしまう。

 本当にそうなった場合、この法律が適用されるのは初めてのケースだというから、近頃は息子であるユウのもとに新聞記者と名乗るものが顔を見せるようになり、取材させてほしいと頼み込む。その度にユウは追い払うか逃げるか、とにかく見たことのない顔には警戒心を抱くようになった。

 ユウは父が意識を失った二年前から孤児院の世話になることになった。その時は短い付き合いになると思っていた孤児院だったが、父はいつまで経っても病院のベッドに横たわったまま。そしてユウも思いのほか長く孤児院に居つかざるを得なくなった。

 両親ともに一応生きている。生きているのに孤児だなんておかしな話だ。そんな負い目から、今は孤児院を出て一人で暮らし、自ら稼いだ学費で週に三日学校に通っている。

 親とは言え人だ。何があったかなんて深い事情に踏み込むつもりもないから離婚の原因を探る気はない。それでも、父が「死ぬことになる」前に一度母と再会させたい。せめて挨拶をして天国に送り出してほしいとひそかに思っている。


 カリカリと何かをひっかく音で我に返った。ジェイが先ほどから窓際に向かって「キィ、キィ」と何かを威嚇いかくする声を上げている。ふと見ると、白とグレーのまだら模様をした鳥が開け放している窓に停まり、黒いくちばしで胸元の羽根を整えていた。

 短いあしをジタバタさせて壁をよじ登ろうとするジェイに小馬鹿にするような一瞥いちべつをくれ、また飛び立っていった。ジェイは「カッ!」と前歯を鳴らして悔しがる。

「放っときなよ、ウミネコだ。こんなとこまで来るなんて、よほどエサが無かったんだな。今日は不漁の日かもしれない。――っていうか、お前の方が食べられないように気をつけな」

 ユウはジェイの後ろ首をつまみ上げ、窓から引き離す。

「ギャー!」

 この鳴き声は、やはりご機嫌ナナメだ。

「はいはい」

 クッションの山にジェイを放り込んだ。イライラしているのか、短い前足でクッションをひっかき、甲高かんだか衣擦きぬずれの音を響かせている。

 「火の番が退屈だと思ってる内は一人前になれない」と親方は言っていたが、実際に退屈でしょうがない。意識を戻すために肩をぐるぐると回してみた。あくびが一つ漏れかかったところに下の階から「おぉーい」と親方のしゃがれたぶっとい声が響いてきた。

「ユウ、ガールフレンドが来ているぞ」

 聞いた途端にユウの顔が曇る。面倒なやつがきた、という表情。

 「今手が離せません」と返すが、親方はその来訪客と何事か話し込んでいるのか返事は聞こえない。ユウはしばらく置いて「どうせアーシャでしょう?」と付け足す。それにも返事は無かったが、しばらくするとトントンと軽い足音が階段を上がってきた。

 まずい。この足音は親方でもなければ奥さんでもない。ユウは窯の前の椅子に座り直すと一つ息を吐いて、数秒後に飛んでくるであろう怒声に身構えた。

「どうせって何よ」

 確かに不機嫌ではあるが思ったより声のボリュームは小さかった。

 薄手のシャツの上に革のショートジャケットを着た赤髪の少女が、部屋口からじとりとした目線をくれる。ユウと同い年なのに、どこか自分の方がお姉さんだと思っている節があるらしい気の強い目。そしてユウと違って落ち着きは無い。

「ここがアンタの工房なのね。それにしても暑い部屋だわ。私も脱ごっかな」

 「やめなよ」とユウは顔を反らした。アーシャはシャツの胸元を引っ張ってパタパタと扇いでいる。彼女には少しデリカシーというか、女の子らしさが足りないと思う。ユウの上半身はほとんど肌着だけだが、それで十分なほど窯の前は暑い。だからと言って、目の前で女の子に服を脱いでほしくはない。

 家族以外の来客が二階工房に入るのは珍しく、ジェイは姿勢を低くしたままアーシャをじっと見つめていた。好奇心と警戒心がないまぜになっているようだ。

「あら、おはようチポリくん。名前は、ええっと……なんだっけ?」

「ジェイ」

 そう聞くなり彼女の顔はぱっと明るくなって、いつものコロコロと弾むオレンジ色のような声になる。

「そっか!ジェイくんおはよう!」

 朝から元気だな、と少しうらやましくなる。

「上まで押しかけてくるなんてどうしたのアーシャ」

「暇だろうと思ってさ」

「暇じゃないよ。仕事してるんだから」

「ついさっきあくびしてましたって顔」

 言われて返す言葉に詰まる。アーシャは妙に鋭い所がある。

「まあ冗談よ。ちょっとね、お願いがあって」

 彼女が話し始めたところにちょうど、親方の奥さんが蜂蜜漬けのレモンと氷水の入ったグラスを二つ持って上がってきた。

「よく来たわねえアーシャちゃん」

「あ、おばさん。お邪魔してます」

 人当たりのいい笑顔でアーシャはグラスを二つ受け取り、ユウにも一つ差し出した。

「こんな暑いところじゃなくて下で待っていらしったら?」

 アーシャは微笑んで「いえいえ、すぐ済みますから」と遠慮する。

「まあ。ユウ君も来年は成人だものねえ」

 と奥さんは含み笑いをしながら階段を下りて行った。少し遅れて言葉の意味を把握したユウが顔を真っ赤にしてドカドカと足を鳴らしながら階段下に向かって「違いますからね!」と怒鳴る。

 アーシャは空いている椅子に脱いだジャケットを掛けてユウの隣に遠慮なくどっかりと座った。

「それで、お願いって?」

 ユウは不機嫌そうに尋ねる。多分、この後は突飛とっぴな言葉が返ってくるが、驚かない自信はあった。何でも思い付きから始める彼女の行動にはいつも振り回されている。

「駅前でね、歌を歌いたいの」

「そう」

 歌いたいなら歌えばいいじゃない、という言葉は思っても口には出来なかった。言えば殴られるから。

「アンタと一緒に」

「ええっ!?」

 これが驚かずにいられるものか。学校の歌唱練かしょうれん以外にロクに歌ったことが無いユウには無茶なお願いだ。

「あぁ、いや、アンタは歌わなくていいのよ。私が歌うのに付き合うの」

「それって、コーラス役?」

「そうじゃないよ。聞き役」

「いいよ、ここで歌っても僕は聴くから」

「あーんと、なんて言えばいいのかな」

 上手く説明できないことにいら立ったのか、アーシャは腕を組んだまま自分の肘をひとさし指でトントン突いている。

「私は歌う。そしてアンタはそれを聴いて感動する係」

「……ああ」

 何となく意味は理解できた。早い話が「サクラ」をやれというのだ。しかしアーシャは人並みより歌が上手いと思うし、人を惹きつける声もしているから才能はあるように見える。一人で新しいことを始めるのは不安、というだけで。

「アーシャは十分歌がうまいよ。そんなごまかしは必要ないじゃないか」

「いやごめん、歌はただの客寄せ。余興。食前酒。言い方を変えれば口実。本質はもっと別のとこにあるの」

 また何か良からぬことを企んでいるようだ。例えばモデルのスカウトがそのタイミングに現れる?それなら確かにつじつまが合う。

「僕には要領をつかめないけど、駅の許可をもらってからじゃないと」

「露店と同じでしょ。あいつらもいちいち駅員の顔色なんて窺ってないし、お目こぼしされてるのよ。むしろ駅や町のムードを盛り上げるボランティアにもなるんだから褒められこそすれ、恨まれる筋合いなんか無いわ。もっとこう、パーっとしたことやんないとダメなのよこの町は。漁と中間貿易しか取り柄ないでしょ。アンタのやってるコレも、例えば木材の売り手のアポロジアかタンダルが渋ったら――」

 「待って待って」とユウは笑う。彼女の理屈がめちゃくちゃだし、話が急にジャンプしたからだ。確かに、海運会社社長の娘である彼女が貿易事情に詳しいのは分かるが、

「アーシャは立派なことを言ってると思うよ。でもまだ僕らがそんなことを気にする必要ないんじゃないかな。ただ目の前にあることを処理していくので精いっぱいだよ」

「かーっ、夢がない夢がない!私はねユウ、もっと先を見てるの」

 ユウは「またいつもの都会病だな」と一人納得して、木で鼻を括ったような目を向けた。自分とは真逆の裕福な家庭で育ったアーシャは、以前父親の仕事で出かけた海外の大都市エンヴァラが大のお気に入りになったらしい。どうせ次の言葉は……

「こんなのエンヴァラじゃよくあることよ」

 ほらきた。

 ユウは特に応えず時計を見て腰を上げた。厚手のミトンを手にはめて窯の戸を開けて中を確かめる。百点は逃した。ほんのちょっとだけ焼きすぎてしまったようだ。急いでフォークを取り出して窯の中に突っ込む。

「あ、ごめんアーシャ、ちょっとそこ通るよ。……ほらジェイ、お前もどかないと毛が全部焼けちゃうぞ。……遊ばない!遊ばないの今は!」

「しょうがないわねぇ。ジェイ君おいで」

 アーシャはくたびれたゴムボールを拾い上げると、遠くで弾ませてジェイを誘った。ジェイは単純だから、あっという間にボールを追いかけて部屋の隅まで流れ星のように飛んで行った。

 焼き木の乗った網を熱抜き砂に乗せると、部屋にビターチョコレートのような香りが充満した。

「エンヴァラねぇ。行ったことないから分かんないや」

「こんな磯臭い田舎とは何もかもが違うわ。たぶん百年分の差がある。あの国あの街に行くと百年後の未来に行ったような気分になるんだ」

「未来か」

舗装ほそうされてない道を探す方が困難だし、夜でも繁華街が明るくて、たくさんのビルや人だけじゃない。カジノや劇場、それから大銀行が全部1ブロックにある町ってあんた信じられる?一度見といた方がいいわよ、アレ。私らがどんな狭い世界で生きてきたかがよーくわかる」

「なるほど」

 エンヴァラなんて遠い遠い異国の地だ。イークダッドをそんな街に変えようだなんて無茶が過ぎる。ユウはそんなことを思いながらもあえて口にはしなかった。

「それじゃアーシャ、取引しよう」

「おっ。言ってみなさいよ」

「今度ドーネッタさんの所で虫干しをやるんだ」

 ユウはにやりと笑った。と同時にアーシャの顔は引きつる。

「うわっ!面倒くさ」

「手伝ってくれるんなら、いいよ」

「ぐう。ドーネッタさんトコの孤児院、まだ虫干しとかやってるんだ」

「古い本が捨てられないんだ。しかたないよ」

「誰が読むのよ。しかしアンタ、いまだに律義に手伝ってるのね」

「僕はお金も納めずにあそこの世話になってたんだよ。それは当然の権利なんかじゃない。これぐらいはして返さないと」

「……ま、いいわよ、それで手を打とうじゃないの」

「オッケー。じゃ、後で日取りを教えてくれよ」

 アーシャは常にマイペースで、時々はうんざりさせられるものの、ユウは彼女のことを嫌ってはいない。いやむしろ、同世代の友人として好印象を持っていると言っていい。

 彼女の父親はユウの居た孤児院の出資者パトロンであり、彼女と初めて出会ったのも孤児院だった。間接的に彼女の世話になっていた以上頭は上がらない立場なのだが、彼女がそれを鼻にかけたことなど一度もない。たまに家柄の話に口を滑らせても「そんなの、生まれた環境が違うだけじゃない。親は親、私は私」とつまらなさそうな顔をする。

 サバサバした性格の彼女だからこうまでふところに入り込まれても安心できるのかもしれない。

 それにアーシャがただの都会コンプレックスじゃないことも知っている。彼女の持つ向上心や危機感。下から上を目指していく心の力。自分にはない力を持った彼女を応援したいと思っている。だからか、今まで彼女の頼みを強く断ったことはない。もちろん、やんわりと断った程度では押し切られてしまうのだが。

「まただ。どうしてここだけ焼きすぎちゃうかなぁ」

 アーシャは真剣な顔をするユウをじっと見つめた。彼女は二年前に両親に付き添って孤児院を訪れ、父とドーネッタ院長がなにがしかの面白くない話をしている時に、一人だけ変わった眼差しをした少年に出会った。それがユウだった。

 孤児院にいる子供たちはみんな自分のことで精いっぱいで、暗い顔で、誰もが「与えられる側」だった。ただ一人その少年ユウだけが、世話係のシスターを積極的に手伝ったり、ケンカの仲裁に入ったり、自分のパンを一つ分けてあげたりと、「与える側」になろうと努力していた。

 そんな話をすると「僕が年長者だったんだから当然だよ」と彼はそっけなく振り返る。

 彼にとって「与える」ことの極めつけは、自ら孤児院を抜け出したことだ。去年の暮に起きた戦争で戦災孤児がまた多くなり、どこの孤児院も受け入れが厳しくなった。だから、自分の代わりに誰かが助かるならと、彼はか細い小枝の分際で、風の吹き荒れる大人の世界へと入門した。それも半端な覚悟じゃない。だから今こうして、自分の仕事に悔しそうな顔ができる。「子供の割にはよくできた」という甘え心ははなから持っていない。

 アーシャは心のどこかでそんなユウを尊敬していた。けれど、面と向かって言ったことはない。照れくさいし、自分は頼られるお姉さんでありたいから。


          ◇◆◇


 後日、本当にアーシャは駅前に小さく質素な舞台を設置した。それも、「西イークダッド駅」「東イークダッド駅」と二つある大きな駅のうち、より大きな「東イークダッド駅」にだ。つまり、この町でもっとも人が集中する駅になる。それなりに町は賑わい、注目を浴びやすい。

 到着したばかりの列車が汽笛とともに空に向けて黒煙を吐くと、じきに人だかりが蜘蛛くもの子のように駅口からあふれ出てきた。確かにこれだけの人がいれば、アーシャの狙い通りになるのかもしれない。

 舞台の設営を手伝おうと買って出たものの「あんたはお客さんの役なんだから」と断られてしまった。ユウとしてはサクラの役なんてまっとうな商売ではないと後ろめたさを感じてしまう。

 関係者だとバレてはいけないらしいから、舞台が整うまでは少し離れた場所から他人のふりをして観察することになった。

 アーシャのほかに、見慣れない少年と少女が一人ずついた。逆立った赤黒い髪の少年は面倒くさそうにため息をついている。

 「お前さぁ……」と彼はアーシャに向けて言うが、その視線はヨソを見て「ホントにやるとは思わなかったぞ」と呆れ顔をしていた

 アーシャと親しい友人なのだろう。そこを深くは考えないことにしたが、とにもかくにも彼の意見はおおよそユウと一致していた。

「どうなっても知らねえからな」

 そうだ、もっと言ってくれ。ユウは心のどこかで彼の背中を押していた。

 もう一人の黒髪に黒いシャツの少女は静かに両手を前に組んで立っているばかり。まわりの様子をおどおどと見回しているが積極的に手伝うようでもない。背が低く、ファッションで黄色いバンダナを頭に巻いているところが子供っぽさを強調させていた。可哀想に、きっとアーシャに無理やり連れてこられたのだろう。あの二人も災難だったな。と見知らぬ少年少女の苦労をおもんばかった。


 ずっと外で待っていると寒さがこたえる。ユウはコーヒーショップを見つけると暖を取りに店の中に身を隠した。コーヒーが苦手な彼は、この店にココアがあってよかったと息を落ちつけていた。幸い大きなガラスでアーシャたちの様子はよくわかる。

 シックな色合いの木造りのカフェの中は薄暗く、どこかの民族が土産物として売っているような仮面やブーメランが飾られていた。

 そんな中、真鍮しんちゅうでできたサッカーボール大の半球を見つけた。よく磨かれた金色が店内の少ない照明をキラキラと反射している。

「あ、懐かしいなぁ。「レガシィ」じゃないですか」

 ユウがぽつりと言った。

 ボードゲームの先駆けと言われる、二百年前ごろに開発されたおもちゃだ。魔法の力を応用しているらしいが、それが魔法の禁じられた現代で違法か合法かという議論はいまでもよく行われているらしい。根強いプレイヤー、もとい愛好家からの声もあって摘発を免れているが、あとから不法所持という話になっては面倒だと、手放す所有者が多く今ではめっきり姿をみなくなった。そしてそのせいで、特に保存状態のいいものは法外な値段で取引され、好事家たちをうならせているという。

「知ってんのかい、そいつ」

 気さくな店主がその話に乗ってきた。

「ええ。昔、孤児院にいた時に遊んでいました。動くんですか?」

「動くとも。じゃあ一回百ペール。僕に勝てたら二百ペールやるよ」

 「ふっかけないでくださいよ」とユウは苦笑いする。「それに僕は賭け事はしません。だいいち未成年ですから」

「ハハ、そうかい。じゃあ大人になったらまた来てくれよ。こいつに目をとめてくれる客も少なくなったからね」

「そうですね」

「孤児院は嫌な思い出じゃあないんだな?」

 カウンターに体重を預け、店主は笑みを向ける。

「えっ」

「顔がそう言ってるさ。そいつを見て嫌な思い出が出てこないんなら、きっとそうなんだろ」

「……ええ」

 レガシィの球面に反射するユウの顔は確かに微笑んでいた。

 そろそろ店の外のざわつきが大きくなったように感じる。

「さあさあ皆様お立合い!」

 広場にアーシャの声が響いた。古めかしい調子で人々の注意を引いている。

「なんだ?」

 きょとんとする店主に、うっかり「知り合いです」と説明しそうになり、

「なんでしょうね?」

 ぎこちなくそう返して、気になる風を装って店を出た。


 それを見たときユウは「嘘だろ……」と思わず口をついて言葉が出てきた。路上に小型のピアノが置いてあるのだ。あんなモノをどこから準備したのだろう。まったくアーシャの行動力には頭が上がらない。その見た目のインパクトは絶大で、すでに人はまばらに集まっていた。ユウがその中に混じると、一瞬アーシャが目配せをくれたのが分かった。

 アーシャはステージと呼ぶには少々狭い踏み台の上に乗り、両手を高く上げて存在をアピールしながら声を上げていた。

「えー皆様、お仕事お疲れ様です!お仕事じゃない方もお疲れ様です!本日は私、アーシャ・トメルクが、そんな皆様のささやかな癒しのためにやってまいりました!」

 ノリのいいはきはきとした挨拶に、道行く人も目をとめる。

僭越せんえつながら私、歌には自信がございます!遠くエンヴァラでは路上で歌を歌う事も生業なりわいになるそうですが、そこはそれ!お代はお気持ちで結構です。今日という日が皆様の思い出に深く刻まれますよう、私の歌と、彼の演奏でこの町をもっと華やかに彩りたいと思っておりまーす!」

 「彼」とはどうやらアーシャと一緒にいた少年を指すようだが、しかしあんな大見得を切って大丈夫だろうか……、とユウは他人事なのに胃がキリキリ痛くなるような不安を感じた。どうなっても知らないぞ。

 わずかな沈黙。だが一度立ち止まった客は離れていく様子はない。ただ単に、この町の人たちは流れを知らないのだ。だからどうしていいかわからない。それはユウだって同じなのだが、自分は盛り上げ役を任されたんだからと、分からないなりに行動を起こそうと思った。

 ユウが覚束おぼつかなくも一番手の拍手を贈ると、少しずつ周りもそれに同調するように拍手を贈り始めた。ユウの後ろ側からも拍手が聞こえ始め、意外と人が集まっていることに気が付いた。

「ありがとうございます!ありがとーうございます!」

 アーシャは度胸もいい。自分だったらきっと、こんな人だかりを前にしたら頭が真っ白になって二の句も継げないに違いない。

「それでは、準備整いました。お聴きいただきましょう」

 アーシャは後ろの少年に合図を送り、少年は無表情のままうなずいた。

 ざわめきは水を打ったように静かになった。そして低い音から始まるピアノの伴奏。


  君の音は生きる証 二人の宝物

  声も歌も足音も


  君が行く道を僕も歩こう

  例え 何を失くしても

  僕は君と生きてゆく


  I'll be there

  この身体が君と一つなら

  喜びも傷みも涙も

  君と分かち合えるのに


  I'll be there

  この命は君と一つになる

  忘れないで僕は

  君に守られるだけじゃない


 アーシャの歌はお世辞でもなく、とても上手かった。スローテンポな曲を力強く伸びやかな声で歌っている。わざとらしさのない洗練されたビブラートはさざ波になって聴衆を包み込む。よくあんなに声を張ったまま息が続くものだと感心してしまう。  

 所詮は子供のやることだとたかをくくっていた大人たちが、彼女の見た目とは裏腹の重厚な歌声に目を見開いて驚くのが分かる。

 それだけではない。後ろの少年のピアノも大したものだ。初めて会ったときは彼に対してアーシャといい勝負のガサツな印象を覚えたのに、このピアノの弾き方はどうか。テンポに狂いがないばかりか、繊細な指先は弱い音を弱いまま生かす。サビでは体重を乗せんばかりに前のめりになって力強く盛り上げる。アーシャの歌声を全面にサポートしてゆく。

 一体どれほど練習を重ねたのかと思うほど二人の意気はぴったりだった。

 アーシャの歌が終わるとピアノは後奏を風に溶かすように締めくくり、ノスタルジックな余韻を残した。

 そして、しんとした沈黙。アーシャの歌が創り出す世界にみんな引き込まれていたのだ。歌い切ったアーシャは額に汗を浮かべながら満足そうに息を整えている。

 ユウはふっと我に返った。

「すごい!すごく良かったよ!」

 もはやサクラでも何でもない。それは紛れもない彼自身の心から出た称賛の言葉だった。ユウが惜しみない拍手を贈ると、他の聴衆もまた口々に声援を送る。まだ終わってもいないのにペール銀貨を投げる者もいた。

 それから得意になったアーシャは後ろの少年に合図をし、彼もまたうなずく。

 「もっと聴きたい」「他の演目はあるのか」といった声に応え、今度はあのバンダナの少女も出てきた。彼女が手にしているのは、身長の低い彼女によく合うクォーターサイズのバイオリン。こんなものまで用意していたのだから、最初からそのつもりだったのだろう。

 彼女の演奏もまた、子供とは思えないほど美しい物だった。惜しむらくはその手にしている楽器が子供用のものだったところか。

 聴衆は大いに盛り上がって指笛交じりの声援と歓声が彼ら三人を包んだ。日が傾き始めるころには、人だかりはさらに一回り大きくなっていた。

 確かにアーシャは、人を魅了する才能の持ち主だ。ユウはそれを素直に認めていた。もはや彼がサクラをする必要などないのだろうが、この顛末てんまつを最後まで見守ることにした。


「えー皆さん!最後までお付き合いいただきありがとうございました!」

 その言葉にまた拍手が鳴った。

「こちらが、本日私の歌に合わせて演奏をしてくれた二人です!」

 二人が小さくお辞儀をすると、観客はそれにもまた惜しみない拍手を贈る。

「この二人の演奏、どう思われましたか?そちらの方」

 突然アーシャはユウに目を向けた。

「僕?」

 驚きで猫の目のようになったユウは自分を指さした。どうして歌の話ではなく演奏の話を?という疑問を脇にしまって、ユウはしどろもどろになりながら訥々とつとつと応える。

「え……えっと……とても、素晴らしかったです!同い年か、もっと下ぐらいなのに、あんなに上手く演奏できるなんて」

「そうですよねぇ、そうですよねえ!」

 アーシャは我が意を得たりと言わんばかりの満面の笑みを見せた。なるほど、彼女の狙いはこれだったのか。だから僕を呼んだのか。と、ユウは少しずつ分かりかけていた。本当に見てほしいのは彼女の歌ではなく、あの二人だったということか。

 二人の少年少女は照れ気味にうつむいていた。


 結局のところ、彼女の思惑は大成功だったと言っていい。彼女の歌は多くの道行く人々の心をつかみ、確かに町の賑やかしに貢献した。しかしアーシャは肝心なところで間抜けだ。何せ二人の名前を紹介するのを忘れているのだから。これでは二人の功績を讃えられないではないか。

 聴衆の人だかりがみんな出払うまで他人を装っていたユウが、ようやく彼女らと合流したのは一時間も後のこと。もうすぐ日が沈んでしまいそうだ。

「アーシャ、よくやったよ」

「ああユウ、まだ帰ってなかったんだ」

 登山でもするのかというほど大きなバッグを足元に置いたアーシャは、噴水の縁に座って帳簿に何か書きながらユウに笑顔を向けた。彼女の両隣には例の少年と少女が立っていた。

「どう?あんたの稼ぎ三日分くらいにはなったみたいだけど」

 とアーシャは得意そうだ。これが都会流だ、と言いたげだが。

 「そりゃあ、アーシャが自分の才能を活かしたからだよ。僕がやろうったってそうはいかない」とユウは冷静だ。

「アーシャは歌もうまいし、顔も声も人を惹きつけると思うよ」

 そこまで言われると、逆にアーシャの方が照れてしまって「そう、かな?」と顔を赤くしてしまう。

「ねえ、君たちとは初対面だけど、アーシャにこんなすごい知り合いがいたなんて知らなかったよ」

「へっへ、すごいでしょ」

 アーシャは我が事のように得意顔を見せる。

「どうも」

 少年は低い声で答えた。喜んでいないというよりは、警戒されているようだ。

「よろしく、僕はユウ・ウィナ。君の名前は?」

「えっ?」

 アーシャが変な声を出した。

「ああ、それはまぁ……」

 なぜか戸惑うアーシャの脇で、少年が一歩前に出た。

「ライゼ」

「ライゼ?」

「そう。俺の名前を聞いたんだろう?ライゼだ。別に覚えなくていい」

「そうか。ライゼ、君のピアノも素晴らしかったよ」

 ライゼはまた小さく「どうも」と返した。単純に愛想が足りていないだけらしい。

 次にユウはバンダナを巻いた少女に「君はバイオリンだったよね。名前は?」と尋ねる。他意のない質問だったはずだが、少女は一瞬びくっと体を強張こわばらせた。

「はいはいはいはい」

 とアーシャが止めに入る。「レディーにいきなり名前尋ねるもんじゃないよ。怖がってるでしょ」

「えっ……あ、ああ。ごめん」

 ユウはアーシャの勢いに押されてたじろいだ。

「いえっ、ち、ちがうんです!私怖がってるとか、そんなんじゃ……」

「いいの!」

 アーシャが強く言うと、バンダナの少女はそれこそアーシャを怖がるように「はいっ!」と背筋をピンと伸ばした。

「悪いねユウ。私ら、これから行くとこあるから。先に帰りなよ」

 ユウは「うん」とうなずくだけだった。どこかこの会話はぎこちない、と違和感を覚える隙もなく。

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