3. 最後の一人

 数日後。

 取り調べを受けているオグバーンだが、未だ口を閉ざしているという。ガスターのことについてもそうだし、最近の透澄の翅衣の所持についてもそうだった。どうやら原因は逮捕劇のときにラグナスに言葉尻を捉えられたことにあるらしい。重なる追撃に、己の口が長けていない事を悟ったようであった。しかし、当のラグナスは長期戦になるだけだと気にしていない。どうせいつか喋る日が来る、と鷹揚に構えている。

 ソフィアもまた、オグバーンへの関心は薄れていた。罪人は捕まえた。あとは正当な裁きが下されるのを待つだけだ。どうせ逃れられはしないし、ソフィアの出る幕はないだろう。ユーノもまさか騎士や看守の監視下に置かれている男をわざわざ狙うような無謀はするまい。……そうであって欲しい。

 ともあれ、ユーノの復讐は、残っているのはあと一人。外交官ベックウィズ。人柄については詳しく知らないが、どんな人間であるにしろ、ユーノに殺させるわけにはいかない。オグバーンよりも気にかけるべきはそちらだろう。

 問題は、彼の復讐をどう防ぐかだった。まさか突然本人に命を狙われていることを告げるわけにもいかない。それ以前に、外交官と騎士では接触するのも難しい。彼らが他国に赴く際は騎士が同行するが、ソフィアの所属する隊には縁がないのだ。これはどうしようもない。

 ラグナスをあてにすることも考えたが、ソフィアに何も言ってこない事を考えると、彼も今のところ策はないのではないかと思う。

 溜め息が廊下に落ちる。既に昼食を終え、雑務の処理に向かうところだったが、全く気が進まなかった。剣を振って憂さ晴らししたい。それで何が解決するというわけでもないのだが。

「あの……」

 横から声をかけられ振り向くと、一人のメイドがじっとソフィアを見上げていた。ソフィアより年下らしい、あどけなさが残る小柄な少女だ。彼女の肩まで長さがある箒の柄を両手で握り締め、ぎこちなくこちらへ近付く。

「どうされました?」

「……これを渡すように言われまして」

 おずおずと差し出されたのは、簡素な封筒だ。宛名も差出人の名もなく、封もされていない。厚さもなかった。おそらく入っているのは一枚か二枚。

「どなたから?」

「申し訳ありません。言うなと言われておりまして」

 胡散臭いことこの上ない。それは彼女も認識しているようで、不安そうにソフィアを見上げていた。

「わかりました。わざわざありがとう」

 手紙を受け取り微笑んで見せると、途端彼女は綻んだ花のように表情を緩めた。手紙の処分に困らずに済んで安堵したのだろう。失礼いたしました、とペコリと頭を下げて軽やかに去っていく。殺伐としていた日常に平穏を見つけて、少し頬が緩む。

 メイドを見送ってから、隅に寄って手紙を開いた。簡素なわりに厚手の封筒は糊付けされておらず、簡単に中身が取り出せた。入っていたのは、紙一枚。そこにただ一言だけ書かれていた。

『王宮の庭、東の四阿に来られたし』

 その隅に書かれた署名に目を見張る。

「……願ったり叶ったり、だ」

 時間指定はなかった。今すぐに、ということなのだろう。仕事を溜めることになるが、それはあとで謝るとして、ソフィアは庭の方へと足を向けた。

 東の四阿。夏になれば梔子が香り、黄色の花が咲き誇るのを楽しめる素晴らしい一角であるが、南中を過ぎれば日蔭となるため、人が訪れることは少ない。涼むのには確かに良いが、日の光を浴びる花の方がやはり良いらしく、鑑賞に来た者たちはみな、南か西の方へと足を向ける。それだけに、人目を忍ぶのにはうってつけだ。

 その人気のない四阿の屋根の外で梔子の花を見上げる文官服の初老の男性。白くなった髪を後ろへ撫で付け、どっしりと構えたその身体は、屋内でペンを持つ仕事に就いている者にしては鍛えられていた。上位の武官としても通用しそうだ。

 この男が、とソフィアは妙な感慨でその文官を見つめた。ずっと会いたかった男の姿をこのときはじめてしかと見た。噂通りの人物に見える。

 視線に気づいたのだろうか、花から目を離してこちらを視界に入れた彼の人は、ソフィアに向き直った。堂々としたその姿に、突然呼び出したことを詫びれる様子はない。高圧的なのを隠さないのは予想外だった。

「待っていたよ、ソフィア・アボット嬢」

 人と対話をする職務についているからだろうか。男の声は年齢の割によく通り、耳障りが良かった。

「お呼びいただけて光栄です、ベックウィズ卿」

 招待状の隅に書かれていた署名は、ベックウィズのものだった。それはもう驚いたものだ。会いたいと思っていた人物から面会を求めてきたのだから。

「ご用件は」

 接触したいとは思っていたが、逆にこちらが呼び出される覚えはなかった。

「君たちが最近騒がしいようだから、警告に」

「それは、透澄の翅衣の事ですか?」

 思い当たることといえばそれしかない。つい最近、過去にベックウィズと手を組んだオグバーンを捕まえているのだから、妥当な連想だ。

「透澄の翅衣を放置するのは、西国との国交に支障をきたすのでは?」

 まさか隠蔽しろと言うのかと詰め寄ってみれば、初老の外交官は首を振った。

「いやいや、その点は感謝しているよ。まさか現在も透澄の翅衣が出回っているとは信じられなんだ。しかし、過去のことまで掘り返す必要はないだろう」

 貼り付けた笑みを打ち消すほどの剣呑とした輝きが目に宿る。念押しだなんて易しいものではない。圧力だ。

「十年も前の話だ。国交も深く関係している。今さら掘り返したところで、得にはならんよ」

「確かに、得はないでしょう。しかし、今なお過去に縛られる人々を、そろそろ解放しても良いのでは?」

 ひく、とベックウィズの目許が引き攣った。

「何を」

 声を低める彼を前に、ソフィアは背筋を伸ばして真正面から彼を見据える。

「十年前のガスターの件、彼の濡れ衣を晴らしては貰えませんか」

 ただ復讐をやめろと言っただけでは、ユーノは決して止まらない。無理に止めたとしても、本人に悔恨だけを残すだろう。しかし、もし父の汚名を返上することができたらどうだろう。少しは気が休まって、考え直してくれるのではないかとソフィアは考えていた。楽観的であるとは思うが、できる手は打っておきたい。

 それにどのみち、ガスターの件は過ちなのだ。正して悪いことなどあろうものか。

「何を言い出すと思えば。やはりお前たちの狙いは私だったか」

 ベックウィズは忌々しげに顔を歪めた。彼の印象ががらりと変わる。彼の功績に相応しい有能で堅固とした印象から、キャメロンやオグバーンと同じような高慢で不遜な印象へ。

「それで、私が承諾すると思っているのかね?」

「オグバーンが捕まった事はご存じでしょう。彼は十年前も透澄の翅衣を仕入れていた商人の一人です。西国との国交を気にするのであれば、それで申し訳も立つのでは?」

 西国は、基本的には穏やかな気質の国だ。彼らは調和を重んじるため、争い事は好まない。妖精が関わると国政を忘れて他国に介入するような厄介な一面も有しているのも、もとをただせば万物との調和――すなわち妖精の怒りを買わないためのものだ。融通は効かないが、むやみやたらと戦を仕掛けるような無謀な国ではないはずである。

 だからこそ、道理を通せば分かってくれるはずだとソフィアは思っているのだが。

「浅はかだな。騎士といえども、所詮は世間知らずの令嬢ということか。

 政治の世界において、一片たりとも隙を見せてはならない。これは常識だ。そんなことをしてみろ。国内の私の信用だけではない、この国と西国の国交に支障をきたすことだってあるのだよ!」

 政治というのは駆け引きの世界だ。外交ともなれば、その最前線であろう。いかに自国の損害を抑えつつ、相手から利得を引き出すか。選択によっては力関係は大きく代わり、それによって損得の比率は大きく変わってくる。だから弱味を見せたり借りを作りたくないというのは分かる。

 けれど、隠すだけならまだしも、事実をねじ曲げてまでしなければならないものだろうか。

「どうやら正義の味方を気取っているようだが、君のしていることは偽善だよ。正義を銘打って、国を窮地に立たせる行いだ」

 偽善、という言葉は、思いの外ソフィアの胸に刺さった。ソフィアはかつて、単に自己満足のためだけの救済はしないと心に決めている。まして、最近自分勝手でユーノのことから逃げていたこともあり、自分の傲慢さを突き付けられたようで本当に堪えた。

「……そうかもしれません。でも、ユーノには――ガスターの息子には報いても良いのではないでしょうか。彼の人生を狂わせた、当事者として」

 ソフィアが偽善だとしても、ベックウィズの行動はとうてい容認できるものではなかった。公表とまでは言わないが、謝罪くらいあって然るべきだ。

「解せないな。何故そうもガスターにこだわる? アボットには全く関わりのない人間だろう」

 ここでソフィアはようやく、相手の反応が自分の想定していたものと違うことに気づいた。まるでユーノの事など知らないような、この様子。

 嫌な――本当に嫌な予想が頭を過る。

「貴殿は、騎士の中にガスターの息子がいることをご存知ないのですか?」

「ガスターの名など珍しくもない」

 間違いない。この人はユーノを知らないのだ。自分が陥れた人物の息子の名前も、その後どう生きているのかも、全く関心を持たずに十年間生きてきた。

「確かにガスターの名は珍しくありません。外交官である貴殿が騎士に興味を持つことも少ないでしょう。けれど、もう少しガスターの名を警戒しても良かったのではないのですか?」

 復讐に来るとは考えなかったのか。それだけの行いをしたという罪悪感を抱かなかったのか。それともたかが商人の家族にそんな事は不可能だと高を括ったのか。

「恨まれるような事をしておきながら、歯牙にも掛けないなんて……。貴方たちは、どれだけ彼を馬鹿にすれば気がすむんだ」

 屈辱だ。そう思った。ソフィアは直接関わりのない立場だが、ユーノがいたらきっとそう感じるに違いない。関係なくとも腹立たしい。ユーノを軽んじられるなんて。

「下らん話はここまでにしよう。君たちアボットは、引く気がないらしい。……あまりこんなことをしたくはなかったのだがな」

 ベックウィズが徐に手を挙げた瞬間、生け垣の向こうの気配が強くなる。隠そうともせず、音を立てながら姿を現した。使用人の服を着ながら、剣を持った男達が六人ほど。顔や手など晒された部分から向こう傷が見られるあたり、ただの使用人ではない。

「迂闊だったな、ソフィア嬢」

 だが、ソフィアも騎士だ。はじめからそこに誰かがいることは察していた。だからうすうす気付いてはいたのだが、彼もまた身勝手で自分の保身しか考えていないことを知って失望した。方法を間違えたとはいえ、ベックウィズは国を守った人間だ。オグバーンと違って少しは話が通じる相手だと思っていたのに。

「やはり騎士ではない。私兵をお持ちでしたか」

 この国では私兵を持つことは禁じられている。武力は国のため、ひいては民のために振るわれるべきであって、決して私情で振るわれてはならないという、国の取り決めからそう定められていた。だから貴族は自衛のためであっても国から騎士を借りねばならず、そのため私欲を果たすために武力を用いることはできないはずのだが。

「この仕事は恨まれることが多い」

 ぬけぬけと彼は言う。その不安から護衛を求める気持ちは分からなくもないが、ユーノの事を忘れていた男がよく言ったものだ。

「どのようなおつもりなのか尋ねても?」

「はじめに用件は告げた」

 確か、警告と言っていただろうか。

「脅迫と受け取りますが」

「大して変わらん。が、兄君には有効ではないかね?」

 何故ここで兄なのか少し疑問だった。いや、少し前からなんとなく齟齬を感じてはいた。しかし、周囲を六人の武装した男に囲まれている状況では、そこを追及する余裕はない。

「私は騎士です。簡単に屈するとは思わないでください」

「この人数をたった一人で切り抜けられると?」

 虚勢と見抜かれている。

 答えずに剣を抜く。誰かが潜んでいるのは気付いていたが、新米の女騎士一人を相手にここまでの人数を用意しているとは予想外だった。一人で切り抜けられる自信はない。が、やらなければならない。ユーノを止めるためにも、彼を捕らえるためにも、ここで死ぬわけにはいかないのだ。

 剣を強く握りしめる。

「一人だと思ったか?」

 突如乱入してきた声に、全員の視線が一点に集中した。

 黒髪の下から覗く冷淡な表情。澱みを押し込めた暗い瞳。近寄りがたい雰囲気を醸すその男は、慣れたソフィアには非常に頼もしいものだった。

「……ユーノ」

 白くなるほど握り締められていた拳が思わず緩んだ。物語の見せ場にあるように出現したユーノに、胸を打たれた。まるで自分のために来てくれたかのようだ。偶然であっても、これほど嬉しいことはない。

「どうしてここに……?」

 ユーノは視線だけこちらに向けて答えた。

「決まっている。理由は一つだ」

 ベックウィズを殺しに来たのか。でも、だったらソフィアと別れたあとに狙えば良いというのに、どうして今現れたのだろう。

「アボット、行くぞ」

「……ああ」

 夢のようだ、と思った。こんな状況でどうかしていると思うが、昔のようにユーノが傍にいることがこんなにも嬉しい。彼がいれば百人力だ。ならず者の相手などわけはない。

 二年以上の付き合いは伊達ではなかった。お互いに動きもよく知っていた。荒々しくも怒濤の動きで迫るユーノの剣は相手を怯ませる。ユーノの剣を逃れた者は、ソフィアのしなやかな剣旋が後を追った。

 浮かれているのか、身が軽かった。本当にいつも以上の力が出ていたようで、六人全員地面の上に転がすのに大して時間は掛からなかった。

 刃に付いた血を拭い、剣をしまう。騎士の剣は相手を無理矢理従わせるための物ではないので、相手に突き付けるような真似はしない。正面から向き合い、正々堂々と言い渡す。

「観念していただきます。いかに功績があろうと、貴殿は法を侵した」

 私兵の所持は罪である。裁判はきっと逃れられないだろう。それと同時にガスターの件も露見してしまえば良い。というか、するだろう。虎視眈々と狙っている者がいるはずだ。

「一緒に来ていただきま……」

 そのとき、鳩尾に衝撃を受けた。一瞬の苦しさに喘ぎ蹲ったところで、首に腕を回され頸動脈を圧迫される。

 酸欠に思考が霞み、身体が傾ぐ。その視界の端で、無表情にソフィアを見下ろすユーノが見えた。

 邪魔をするな、とでも言うのだろうか。

「……ユー………」

 頼むから、早まらないで欲しい。

 薄れゆく意識の中で、ソフィアはひたすら祈った。

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