第六章 彼の行く末
1. 決意
国内の流通を担う者達の拠点は、町の中心地よりも門に寄ったところにある。とはいっても、喧騒から遠ざかっているわけでもない。そんな街路の一角にある、一階と二階にオグバーン商会が入る三階建ての建築の前に立つユーノを見たとき、ソフィアは嘆息した。ラグナスの推測は当たっていたのだ。
それだけ追いつめられているのだと思うと悲しくなる。そして、気づかなかった自分に憤ってしまう。彼がここまで苦しむことになるまで放っておいた自分が悔しくてたまらなかった。
睨むように建物を見上げ、懐に手を忍ばせるのを見て、いよいよ行動に起こす気になったことを察し、ソフィアは物陰から姿を現した。いざ乗り込もうとしたところを腕を掴んで引き止める。
「そこまでだ」
それは、いつも彼を止めるときに使う言葉だった。無意識に出た、何十回も言った台詞。そして彼は言うのだ。うるさい、俺に構うな――。
「ソフィア……」
今回ばかりはいつもと違い、ユーノは目を見開き、固まっていた。吐息のような掠れ声は、いったい何を呟いたのか。
「ちょっと来い」
強引にユーノの腕を引っ張り、この場から離れる。抵抗されると思っていたのだが、彼は大人しくついてきた。良いことのはずなのに、かえって不安になる。逃げられないように、とユーノの腕を強く握りしめるが、痛みを訴える声もなかった。
人の行き交う商店街を抜け、集合住宅が建ち並ぶ静かな住宅街に差し掛かったところで、ようやく手を離した。
「何の用だ」
ソフィアの指の跡が残った腕をもう片方の手で擦りつつ、ユーノは憮然と言う。
「父親の仇を取るつもりだったのか?」
核心をついたソフィアを、ユーノは無表情に睨み付ける。
「……だったら、どうした」
「止めてくれ」
強い意思を持って、ユーノの黒瞳を見つめ返した。相変わらずその眼は暗い。復讐を決意した所為か澱みはさらに増し、外からの光を拒んでいるようだった。愕然としたが、臆している場合ではない、と自らを奮い起たせる。
「オグバーン商会は透澄の翅衣を扱っている。それはすでに騎士団のほうで調べがついている。今日にも逮捕される。今も逃げられないように監視もついている。合法的に裁けるんだ」
ユーノがどう出ようとラグナスはオグバーンを逃がす気はなかったらしく、いつの間にか禁忌に触れ国を脅かす犯罪者に仕立て上げていた。逮捕状も確保し突入も間近に迫ったところで、ユーノを見つけた。この都合の良い展開にどれほど感謝したことか。
「知ったことか」
「どうして!」
「それで捕まって、奴は親父を陥れたことを後悔するのか?」
ぐ、と言葉に詰まる。その可能性は低い――いや、ほとんどないだろう。今回の件には、ユーノの父親は全く関係しない。たとえ十年前の出来事が糸口になっていようとも、それが表向きになることはない。おそらくオグバーンは、自らの不幸を呪うか、共犯者であり情報の出所であるコニーを恨むだけだろう。ガスターのことを思い出すことはあるかもしれないが、悔いることなどないに違いない。そんな殊勝な奴なら二度も禁制品に手を出したりしねぇよ、とはラグナスの言である。
「それに、オグバーンだけだと思うのか?」
これにも黙するしかなかった。外交官ベックウィズがまだ残っているのを知っている。他にも、ガスターを連行した騎士、有りもしない罪を言い渡した役人、数え上げればまだたくさんいる。
「……いつまで続ける気なんだ」
まるで底無し沼だ、と思った。一度入ってしまうとなかなか抜け出せない、動けば動くほど沈んでいくしかない負の沼に、彼は嵌まり込んでしまっている。
「お前には関係ない」
「関係ある」
きっぱりと宣言した後、やや躊躇って言葉を続けた。
「私は、お前を救いたいんだ」
暗闇に道から、絶望の未来から、引き返せるうちに引き返して欲しかった。ただの人殺しになどなって欲しくなかった。それに何より、森を出るときに見せた縋るような眼差しが忘れられない。あのときに手を差し伸べなかったことを、現在になって後悔している。イザベルの言っていた間違った選択は、あのときのことを言っていたのだろうとソフィアは思っている。
「何が救うだ、ふざけるな!」
声を張り上げ、ソフィアを遠ざけるかのように腕を振り払う。歯を食いしばった所為で表情は歪み、下ろした拳が震えている。今までに見ないほどのユーノの激情に、ソフィアは瞠目した。
「先に見捨てたのは、お前だろう!」
「違う!」
反射的に叫ぶ。確かに、遠征の終わりの頃は、声をかけることはほとんどなかったし、視線を避けたこともあった。誤解されても仕方のない態度を取ったと思う。しかし。
「見捨ててなどいない。見捨てたわけじゃない。ただ……」
言葉に窮した。ただ、何か。恐ろしかったとでも言うのか。それは事実であったが、否定して理由を述べたところで信じてもらえるはずはない。そしてそれは、ソフィアが伝えたいことの本質ではない。
束の間、悩む。ソフィアがユーノに望むこと。それを伝えるのは覚悟が必要だった。一蹴されたらと思うと身が竦む。とても正面を向いてはいられなくて、ソフィアは地面に視線を落とした。
「……私はお前に何処にも行って欲しくない」
息を飲む音が聞こえた。
ユーノがどんな表情をしているのか確かめる勇気が持てず、視線を逸らしたまま、ただ溢れるままに口を動かす。
「復讐して、お前はどうなるんだ? 捕まって牢の中で裁きを待つのか? それとも捕まらないよう遠くに逃げるのか? ……まさか死ぬことなど考えてはいないよな」
声が震えた。まさかそこまで考えているとは思いたくない。
一呼吸置き、唇を湿す。ようやく正面から見据えられるようになった。
「いずれにしても、私には耐えられそうにない」
二年以上、ずっと彼を見ていた。はじめて見た暗い瞳が気になって、その姿を目で追った。周囲から頻繁に絡まれているのを知って、放っておけなくなった。自制心のなさを見せる一方で、ひたむきに勉学や訓練に望む姿を目にして、感心した。いつの間にか彼の隣に立っていることが目標になっていた。
手を焼いていても、煩わしく思っていても、ユーノはソフィアの日常にすっかり組み込まれていた。彼のいない日常など想像できない。したくない。
「もう遅い」
ぽつり、とユーノが言う。俯いた彼の表情は、住宅の作り出す影に隠れてよく見えなかった。
「なにもかも、今さらだ。俺は、身勝手な理由で、既に一人手に掛けた」
「それは……」
声にならなかった。ソフィアが何を望もうと、今さらユーノの罪を消すことはできない。ここで復讐を止めたところで、キャメロンの騎士たちが犯人をほぼ特定しているのだから、知らん顔をして騎士として居座ることは不可能だ。あとは、捕まるか、逃げるか、自ら命を絶つかの選択肢しか残されていない。
どう足掻いても、ソフィアの願いは叶わない。
黙りこんだソフィアに失望したのか、ユーノは踵を返した。
「今日のところは退く」
一瞬だけこちらを振り返った。
「だが、俺は諦めない」
立ち去る背中に手を伸ばし、しかし引き留めることはできなかった。言葉が何も出てこない。
結局、想いを一方的にぶつけただけだった。新しい道を示せず、助ける手段も用意していない。ただ自分の要望を伝えただけ。そんなことで彼を思い止まらせることができるはずがない。
ソフィアの願いは叶わない。なら、せめてユーノの願いは叶えてやるべきだろうか。復讐を遂げれば彼はおそらく父親の死から解放されるだろう。その後は、牢の中であっても、父を供養しながら安らかな日々を過ごすことができるかもしれない。
けれど、そこに彼の未来はない。これまで抱えてきた重い荷を抱え、希望もなく生きろと言えるはずがなかった。
それは、ソフィアが一番望まない。
「……そんなこと、もうお前にさせるものか」
せめて、どんな僅かな希望でも彼に残してやれるなら、全力を持って彼を止めてみせよう。
ようやくソフィアは決意した。
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