2. 絹糸を手繰る
その日、ソフィアは例の絹高騰の調査に同行していた。調査に当たる財政官二人の護衛。彼らが行くのは、この国でほどほどの勢力を持つ生地の卸売業者。各地から生地を集め、各地に捌いていく、生地流通の中継となる商会だ。以前透澄の翅衣のことを教えてもらったソフィアの馴染みの店とは違って、この店――全国に散らばるうちの本店らしい――は所狭しと棚が並び、その中に何重にも丸められた布が敷き詰まっている。完成品など一つもないところからして、業者専門の商売を行っているのだろう。こういう店にはとんと縁がないので、好奇心という意味でも期待していた、のだが。
「輸出?」
呆然としたのは一体何人だっただろうか。自分もまたさぞかし間抜けな顔をしているだろうと考える。ここを訪れ、財政官たちが絹の値上げの理由を問いただして、真っ先に返ってきたのがこの答え。
「最近景気が良くなっているようで、南国で流行っているんですよ。逆にこちらでは、ここ数年ずっと価格も売り上げも下降気味で、だったら外に売った方がいいんじゃないかって」
「逆にこちらでは高騰しているようだが」
今度は店主のほうが困惑したようだった。
「高騰って程じゃあ……。そりゃあ、外に出しているぶん数は減るんで、ちょっとは値上がりしてますけど、数年前はこの価格で売られてましたよ」
「どういうことだ?」
「話が違うな」
紺色のゆったりとした文官服の男たちが顔を見合わせる中、隣から失笑が漏れた。護衛対象の二人を守る、もう一人の同行者。今日ソフィアの相棒となったのは、あのラグナスだった。
「財政官の情報網もたいしたことないな」
彼は明らかに文官を嘲笑っていた。その目付きはまるで死にかけた羽虫が地を這うのを観察しているかのように冷ややかで侮蔑に満ちていて、ぞっとした。
「……聞こえますよ」
「別に。何の問題もねーよ」
窘めるも、素知らぬ顔でラグナスは肩を持ち上げるだけだった。……やはり、この男性は苦手だ。
あれ以来、ラグナスはちょくちょくソフィアに絡むようになっていた。本人曰く、気に入った、だそうだが、会うたびに弄ばれているような気がして、ソフィアのほうはうんざりしていた。任務の間離れていられるだろうと思ったら、これである。
待っている間絡まれたくなくてソフィアはラグナスから離れた。ついでに店内を見て回る。はじめてこういったところを見るのでソフィアの主観にしか基づかないのだが、確かに棚の中を見ると割合的に絹製品は少ないように感じた。幸いにして、ドレスといえば絹、という時代は過去のものとなっている。もちろん正式な場では絹だが、家の中や親しい者同士のお茶会などでは、むしろ絹ドレスよりもラフな格好をしていくのが礼儀だと言われるほどに、ドレスコードが緩くなっている。最近はモスリン――綿織物が流行りだ。
昔は下着に用いられた綿織物だが、デザインを変えて今では訪問用のドレスが多く作られている。滑らかさは劣るが絹とは違った温かみがあるうえ、吸湿性などにも優れているので夏場に最適だとか。そういえば母が最近出掛けるときに着ているのもモスリンドレスだったし、確かソフィアにも一着仕立てられたはずだ。その頃は騎士を目指していたので、袖は通していないのだが。
しかし、そうなると輸出の話も背景も店主の言う通りなのだろう。どうしてこのような騒ぎになったのは知らないが、きっと手違いがあったに違いない。思ったより早く収束してしまうかもしれない。ソフィアにとっては困った事に。
彼らもまた同じように感じたようで、一度引き上げようという結論に達したようだった。狐に抓まれたような表情を隠しきれていない彼らに、密かに同情する。絹が高いと言うので寡占を疑ってみたが、蓋を開けてみればただの市場の変化の影響を受けただけ。単純なことに労力を用いてしまったことも残念だろうが、それ以上にこの程度のことでうっかり騒ぎ立ててしまうほど財政部に情報力がないことを晒してしまったことは屈辱的だろう。ソフィアも貴族の端くれ、威信というものを大事にする気持ちも分からないでもない。
帰るぞ、と促されて、ソフィアは後ろ髪を引かれるような思いで従った。どうせなら倉庫のほうも見たかったのだが、彼らが必要ないと判断してしまったのでそれもできない。ここで騎士が催促するのも不自然だろう。残念ながら引き返すしかないようだ。
「ああ、そうだ」
ぞろぞろと店の入り口から出ていこうとする最後尾で、唐突にラグナスが声を上げた。彼はくるりと右足の踵を軸にして、店主のほうを振り返った。
「ちょっと俺用事があったんですよ。コニーさん、親父が頼んでおいたあれ、届いてます?」
「えっと……?」
「生地ですよ! あれ、もしかして連絡行ってない?」
ラグナスは人が変わったようにおろおろとしだし、性格どころか顔つきがまるで違う。ついでに声の高さまで変えていた。さっきまで財政官たちを侮っていたとは到底思えない、いかにも父に振り回される凡庸な息子という風を装っている。本当にとんだ曲者だ。
「おい、職務中だぞ」
財政官の一人が低く叱責するが、
「すみません、分かってるんですけどね。親父がどうしてもっていうから、断れなくて」
彼は気にした様子もなく、へらへらと笑って媚びる。そのやり取りを傍らで見ていたソフィアは頭が痛くなった。人間、本性と百八十度違う姿を見せつけられると拒否反応が出てくるらしい。うすら寒い茶番劇を誰かどうにかしてくれ、とあたりを見回してみたけれど、頼れる人物は誰もいなかった。
このとき、おそらく初めてソフィアは尊敬する先輩であるエレンを恨んだ。何故ラグナスのような人間と組ませたのか。
頭を抱えるソフィアと、呆然としているその他を無視して、ラグナスは強引に話を進める。
「てことで、十分だけ。コニーさん、案内してください」
こちらへ、と平坦な声で店主は先を行き、ラグナスは揚々とついていく。取り残されたソフィアは、一人背中に厳しい視線を集めることとなった。
「ええと……見て参ります」
居た堪れなくなって、消えたラグナスの後を追いかけた。奥に入って良いものかと思ったが、店の従業員に止められなかったので申し訳ないと思いつつ先を急ぐ。彼らのためにも早々に引き上げたい。それ以上に早くこの仕事を終わらせて帰りたい。
ラグナスたちの姿は見えなかったが、居そうな場所はすぐに見つかった。完全に閉まらなかったのか、指一本分だけ隙間が開いた扉。その向こうから声がする。
「なんですか、内密な話って」
扉を開けようとした瞬間、聞こえてきた声に手を止める。まさかとは思っていたが、お遣いの話は店主を呼び出すための嘘だったのか。
「訊きたいことがあるんだよ。十年前のことについて……」
気になる話だった所為か、思わず前に踏み出してしまったらしい。爪先が扉にぶつかり、蝶番を軋ませながらゆっくりと開く。図らずも蹴り開けてしまったことと、一瞬とはいえ扉の前でこそこそしていた自分がまるで盗み聞きしていたように見えることに気が付いて、恥ずかしくなった。
面白がっているラグナスが目に付く。
「なんだソフィア嬢、盗み聞きか?」
「違います! 急かしに来ただけです」
間を置かずに反論した。仰天しているコニーには悪いが、誤解されることよりもこの先輩にからかいの材料を与えてしまったことが腹立たしい。
「何をしているのかと思えば……」
「入れただろう?」
絶句した。この部屋は表に出しきれなかった品を保管する倉庫のようで、できることなら入りたいと思っていた場所だった。つまりあれは、ソフィアを呼び寄せる為だったというのか。
有り難くはあったが、いいように扱われているようで素直に喜べない。いや事実、ソフィアは彼の掌で踊っているのだろう。彼がなにを企んでいるのか知らないが。
そもそも、どうしてソフィアがここに来たいということが分かったのか。
「で、どうだ。あるか? おっと、雑談は後にしろよ」
ソフィアの表情を見て察したのか、先手を打たれ、言いたかったことを飲み込んだ。不愉快だが、外で待機している財政官のことを考えるとここで口論しているのも得策ではない。ここは大人しく従って、一つ一つ棚の中を漁っていく。
「ちょっと勝手に……」
焦る店主の声を、ラグナスが遮った。
「悪いな、捜査中だ」
「さっき言ったことが事実です。絹なんて隠していませんよ」
「残念だが、絹はどうでもいい」
仕事で調査に来た手前、どうでもいい、と堂々と言ってしまうのはどうかと思ったが、彼の場合指摘していたらきりがないため、透澄の翅衣捜しに集中する。目に見えるところにはないだろうと思っていたので、棚の奥まで慎重に捜していく。
「ソフィア嬢、急げよ。もたもたしていると表の奴らが来る」
「分かっています」
なんだか、不正を働いている気分になった。実際、正攻法で捜査をしているわけではないので、不正行為なのかもしれないが。これもすべてユーノのためだと言い聞かせ、黙々と作業を続ける。ユーノの事情とソフィアの目的を知っているこの人は、結局のところ協力者なのだ。苦手で腹立たしいからという理由だけで反発していたら好機を逃す。
部屋の一番奥の棚の下の段に気になる生地を見つけた。暗がりでは白っぽく見えたその布の束を引っ張り出すと、光を受けてたちまち虹色に光り出す。織物には到底有り得ない繊維方向。滑らかな表面を捲ってみれば、向こう側が透かし見えた。
三度目だ。間違えるはずもない。
「ありました」
布を掲げて見せる。店主が目を見開いたまま硬直している横で、ラグナスは目を細めてソフィアの手元を見る。
「これがそうなのか?」
こちらも商人の息子だが、ラグナスはユーノと違って透澄の翅衣を見たことがないらしい。とはいえ、扱っている品が違えばそういうこともあるのかもしれない。
ラグナスはしげしげと興味深そうにその生地を手に取り、ついで立ちすくんでいたコニーを見た。禁製品が見つかってしまって、逃走を目論んだのか、己に付きつけられる罪状に怯えたのか、すっかり尻込みしている。その肩に、嫌味な騎士は腕を回した。
「なあ、なんでこんなもんがあるんだ?」
まるで恋人に囁き掛けるように甘く――言い換えるとねっとりとした声色で囁き掛ける。これだけでかなりの精神負担ものだ。
「絹の調査って、嘘だったのかっ。変だと思ったんだよ、あの程度の値上げで騒ぐなんて」
「半分本当で、半分嘘ってところだな。そんなことよりも、こっちの話」
半分嘘、というところが引っ掛かったが、透澄の翅衣のほうが気になったので黙って様子を見守る。
「まさかあんたが直接他所から買って来たとは思えない。他に誰か、仲介人がいるんだろ?」
「なんのことだか」
「惚けるならうまくやれよ。あんたの取引先には確か、オグバーンとウィルフォードと……」
名の知れた豪商の名を挙げていく度に、コニーの顔が青ざめていった。
「なるほどね、随分規模がでかいんだな。で? 仕入先は何処なんだ?」
店主はぐっと唇を結んで視線を逸らす。ラグナスは大げさに肩を落とした。
「……まあいいか。牢の中でじっくりと聞くわ」
「きゃ、キャメロンですよ!」
店主は容易く脅しに屈した。
「キャメロン? それは場所のことを言っているのか? それとも領主一家のことか?」
「……その」
コニーの視線が泳ぐが、ラグナスはお構いなしだった。
「訊くまでもなかったか。あそこの騎士は優秀だ。あいつらを出し抜ける可能性がある奴なんて、多くない」
つまり、領主しかいないのだと言外に言っている。キャメロン領を見てきたソフィアも、これに異論はなかった。領主の息子が透澄の翅衣を持っていたことをラグナスにも言うべきだろうか。
鼻を鳴らしてラグナスは店主の肩から腕を外すと、棚から安価な布を見繕って裁断し、透澄の翅衣を包んで脇に抱えた。取り上げるつもりらしい。
「情報提供ありがとう。礼にキャメロンの餓鬼やオグバーンにはあんたのこと黙っといてやるよ」
そう言い残して、ソフィアを促して倉庫から出ていく。
財政官たちのところに戻ってみれば、彼らは不機嫌な様子でこちらを睨みつけてきた。ソフィアは真摯に謝ったが、ラグナスは謝りながらもへらへらと軟弱な態度を装って、彼らの不興を買った。これもわざとなのだろう。あえて侮られて、どうしたいのか分からないが。
「よく、あんな脅迫まがいな事を」
城への道中、先程の出来事を非難した。前を行く護衛対象はこちらを気にした様子はなく、小声であれば会話しても聞き取られないと思ったのだ。
「脅迫に見えたか?」
「交渉だとでも?」
皮肉を口にしたつもりだったが、
「決まってるだろ」
本人はけろりとした様子で答えた。
なんて男だ、と信じられない思いで彼を見ていると、何故かあちらの方が呆れた目を向けてきた。
「本来、俺たちはあいつを逮捕するべきなんだぜ」
あ、と声を出しそうになるのを堪えた。そう、よくよく思い返してみれば、あれは騎士として当然の職務を口にしただけに過ぎない。実行したところで、文句を言われる筋合いなどないのだ。
だとしたら、どうしてラグナスはあんなことを口にしたのか。あれではまるで見逃してやると言っているかのようで――。
まさにその通りなのだと、ようやく思い至った。
「……彼は捕まりたくないから暴露したのではなく、捕まらないために情報提供した、と?」
肯定するラグナスに、一瞬目の前が暗くなった。怯えているように見えたのに、まさかその裏で打算を働かせていたなんて。あれは演技だったのだろうか。それとも、ソフィアが鈍いだけなのだろうか。
「あんたはもう少し世の中の渡り方を覚えるべきだな」
いつものように茶化した様子はなく、わりと真剣に言っているようだった。そうかもしれない、と心の中で思う。世の中がこんなに欺瞞で満ちているのなら、正義なんて通じない。相手を利用し、欺くことを覚えなければ、一方的に食われてしまうのかもしれない。
そう、それこそガスターのように。
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