6. 帰還
「戻ってきたね。おかえり。無事でよかったよ」
日が昇り。明るくなってから動き出したソフィアたちは、思ったよりも迷うことなく森を抜けだした。昨晩は東西方向に大きく動くような移動はしなかったようで、森を出た目の前は領主の城。森の出口に立ちはだかる古めかしい灰色の石の壁は、ソフィアに安堵を齎した。なにせ、目印のない丘のふもとに出ることを心配していたので。
その城壁に沿って歩き領都を目指していると、驚いたことにイザベルが迎えに来た。そうして言われたのが、冒頭の台詞である。
その後も特に咎めの言葉はなく、付いて来いと言われて連れていかれた先は城の門。普段は門番を務める二人しか騎士はいないのだが、今日は珍しく敷地内にも数人の騎士がいるようだった。玄関まで大した距離もなく、馬車も三台くらいしか納まらないであろう狭い前庭。そこを探し物でもしているかのように、見知った騎士たちが歩き回っている。どうしたのかと思ったが、尋ねようにも迷惑をかけた後ろめたさもあって、イザベルに質問するのも躊躇われた。
イザベルが門番にギルバートはいるか、と尋ねた。呼んでくる、と行った門番が去り、代わりにギルバートが来るまでにあまり時間はかからなかった。
「……悪かった。俺の責任だ」
ソフィアの前に立つなり、いつもよりも神妙な様子で頭を下げるものだから、ソフィアは狼狽えるしかなかった。
「ギルバートさんの所為ではありません! 私が身勝手な行動をしたから」
「それでも、お前のことをきちんと気に掛けておくべきだった」
それが自分の責務だ、と彼は言う。
ただ心配を掛けただけではなかった。ソフィアは、ギルバートが果たすべき責務を全うするのを阻んだのだ。そのことにようやく気が付いた。
「……申し訳ありません。ご迷惑をお掛けしました」
姿勢を正し、二人に頭を下げる。あまりの申し訳なさにそうせずにはいられなかった。
ふぅ、と溜め息が聞こえたので、頭を上げる。
「君たちはもう組織の一員なんだから、しっかりと反省して、今後は自覚を持つように」
片手を腰に当て、もう片方は人差し指を立てて、まるで教師のように言い聞かせるイザベル。その口調はいつものように明朗としたものだったが、有無を言わさぬ響きも持っていた。
「罰として反省文。あとギルは監督不行き届きで外出禁止ね」
「そんな!」
思わず抗議の声を上げる。自分たちはともかく、ギルバートまで含まれるなんて。悪いのは全て報告もせずに持ち場を離れたソフィアとユーノだ。彼まで罰を受ける必要はないというのに。
「いいんだ。仕事を全うしなかったんだ。罰を受けて然るべきだ」
撤回を求める前に、ギルバート本人から遮られた。こうなってしまえば、引き下がるしかない。組織の一員として、というイザベルの言葉が重く圧し掛かる。責任とはこういうことなのか。
「いい心掛けだ……って言いたいんだけど、たぶんそんな余裕はないから、しばらく保留ね」
保留。それはソフィアにとって喜ばしい事ではあるけれども。どうやらソフィアたちが居なかった間に、人員を遊ばせておく余裕がない事態になってしまったらしい。
領主の城に騎士が多いのも気になる。
「何があったんですか?」
尋ねると、イザベルは笑みを消した。
「領主が殺されたんだ」
もう一度城の中に目を向ける。その答えはソフィアの予想の上を行っていた。領主も物を強奪されたとか、そういうことだろうかと思っていたのに、殺された……?
「何故、そんなことに」
「捜査中。だから人手がいるってわけ」
確かに、ただの罰というだけで騎士を謹慎させている場合ではない事態だ。
領主が死ぬというのは大事だ。殺されるとなれば尚更。突然の領主の不在によって今後しばらくは領の政治に支障ができてしまい、行政を担う文官だけでなく騎士もまた、承認を貰えないなどのいろいろと不都合を被る。加えて、この領は文官と騎士たちの仲は険悪だ。最高責任者がいなくなった今、次の領主が立つまでの間に誰が領の主導権を握るのか、争うことだってあり得る。そうして不安定化すれば、北国が攻めてくる懸念もまた出てくる。やるべきことは多く、それだけに人員は必要だ。
そろそろソフィアたちの遠征も終わるというのに、キャメロン領はさらに面倒な事態に巻き込まれてしまったようだった。
「じゃあ、私は行くから。ギルは領都に戻って、二人を休ませてあげて」
手を振り立ち去りかけて、イザベルは一度足を止めてギルバートを呼んだ。
「ユーノに上着を貸してあげなよ」
血が付着したユーノの胸元。闇の中では判り難かったこともあって黒い服なら目立たないかも、と思っていたが、日の光の下で見ると薄気味の悪い赤と茶の斑模様として浮き上がっていた。これでは領都の中を歩けない。無駄に住民を怯えさせてしまう。
「ったく、どうしたんだお前、それは」
ユーノの服の血の跡を見て、ギルバートは溜め息を吐いた。そして自身の上着を脱ぐと彼に向かって放る。色からして容易に血であると見抜けるため、このままでは街中は歩けない。
上着を受け取ったユーノは、軽く礼を述べてから上着を羽織り、前をきっちり止めた。
「兎の血です」
「兎?」
なんだそりゃ、と怪訝そうにするギルバート。
その一方で、ユーノの胸元の染みを改めて見て、ソフィアは嫌な推測をしていた。偶然だろう、と思っても否定しきれない自分がいる。黒い服に付いた血なんて、月明かり程度の光では判らない。森の中は暗いうえに賊を追っていたためにそんな余裕があったはずもない。だから、あの瞬間まで気付かなくても不思議はない。
まずは情報を、と帰る道すがら、領主の件について尋ねてみた。
「作戦を終えて、お前がいないことにようやく気付いた頃だ」
領主の城の使用人が、作戦の後始末で未だ騒がしかった騎士庁舎に飛び込んできたのだという。ソフィアたちとそう変わらない年頃の青年で、それはもう慌てた様子で入ってきたのだそうだ。近くの騎士を捕まえて縋りつき、助けてくれと喚き散らした。
忙しくはあったが、領主の事であったので仕方なしに聴いた話がこうだ。
第一発見者であったメイドは、主の命令で酒とつまみを執務室に運んだのだそうだ。扉を開けて、椅子から落ちた形で倒れていたキャメロンを見つけた。その眼は虚ろに見開かれ、床には血溜り、胸には傷があった。メイドの悲鳴で直ちに多くの使用人が執務室に集められ、代表してその青年が騎士に知らせることとなったらしい。
殺人、それも被害者は領主となれば、動かないわけにはいかない。
「それで、シリルさんをはじめた数人が城に向かった」
果たして、青年の言葉は事実であった。胸には剣に貫かれた跡があり、その癖凶器が見つからないところを見ると、他殺であるのは明らかだった。
「傷は致命傷となった刺し傷一つ。あらかじめ計画されていた犯行や口封じではなく、一時の感情によるものだろう、と現場に行った奴が言っていたが」
刺し傷は真正面にできていた。執務の机についていた領主を机越しに剣で刺したのだろう、というのが捜査に行った騎士たちの見解だ。
「揉め事、でしょうか」
「さあな。恨みは幾らでも買ってそうだが」
淡白な反応だった。領主が誰に殺されたのか、そう興味はないらしい。捜査も仕事だからという理由だけで行っているようだった。つまり、熱意が感じられない。
「犯行時刻はちょうど襲撃の時。凶器は長剣だというから、容疑者はだいぶ絞られると思うけどな」
果たしてすぐ見つかるのやら、とギルバートは後頭部を掻いた。剣を持つ者は少数だ。騎士、傭兵、あとは貴族や裕福な家の男子が嗜むくらい。その例外に賊がいるといったところか。そのうえ時刻も限られているのだから、容疑者はかなり絞られていくだろう。
そう、限られてしまうのだ。困ったことに。
「お前ら、国境の森に行ったんだよな。何か見ていないか?」
思い出すのは森に入る前のこと、ユーノと合流したときのことだ。あのときソフィアが追っていた賊は一人だけで、森に入る直前でユーノが城のほうから現れた。他に誰も見ていないし、自信をもって言い切ることはできないが気配も感じられなかった。
「いえ、何も」
とっさにそう答えた。答えて不安になり、気付いたら早口で喋り出していた。
「城の裏手の森に賊が逃げたのです。彼らがやったのかも。交渉が上手くいかなかったとかそういう理由で。あそこだったら、逃げるときに人目に付きませんし」
そうだな、と、その言葉だけが返ってきて、ソフィアは口をつぐんだ。自分の吐いた言葉が空々しく聞こえた気がした。
それきり、誰も何も喋らなかった。
庁舎に付くと、直ちにユーノはディクソンという騎士に捕まった。いつも無口なその先輩は、顔を怒りで真っ赤にしながらもなにも言うことはなく、ユーノを引っ張るようにして自室へと戻っていった。
ソフィアもまた、昼過ぎには起こすから、とギルバートに部屋の中に放り込まれた。
扉を閉めるとその場に蹲りそうになった。そこを堪えてのろのろと室内を歩き、自分のベッドの前で土に汚れた上着とホーズを脱ぎ捨てた。本当なら身を清めないといけないのだが、そんな気分にはなれない。綺麗な服に着替える気にもなれない。結局シャツと下着のままでベッドの中に頭まで潜り込む。
騎士服を着用せずに闇に紛れるような格好をして、持ち場を離れ、返り血を浴びていたユーノ。そして、殺されたキャメロン領主。そこから導き出されるのは、ユーノが領主を殺した、という構図である。
まさか、そんなはずはない。そう思っても、昨晩ソフィアに向けられた殺意が否定しにかかってくる。
「最低だ、私は。一度殺意を向けられたからって、何の確証もなく彼を犯人扱いだなんて……」
だって、ユーノに領主を殺す理由がない。彼がこの領に来たのは初めてのことだし、ソフィアが知る限りでは対面は赴任時の一度だけ。それ以来接触のない人間に、どうして殺意を持つというのか。
――それに、今朝だって。
イザベルと合流する前。つい一時間ほど前のことを思い返す。
森の中。朝になって横たえていた体を起こした彼は、いつも通りに見えた。愛想なく、冷淡で。そのくせ、森を出るのにソフィアを置いていくようなことはしなかった。
昨夜ソフィアを殺そうとしたことなど、まるで嘘のようだった。
困惑しなかったわけではない。あれはただの喧嘩ではなく、まぎれもなくソフィアは死に追いやられようとしていた。死ななかったのは単に運が良かったからだと思っている。
しかし、その一方で安堵もしていた。淡白で冷淡で、時折煩わしそうにしながらもソフィアのことを気に掛けてくれる。昨日までの彼がそこに居た。ソフィアの知るユーノ・ガスターは、少なくとも嘘の姿ではなかったのだ。それは未だユーノを信じているソフィアにとって、一つの救いだった。
夜はあれほどソフィアたちを飲み込もうとしていたのに、朝を迎えた途端、森は呆気なく二人に道を明け渡した。一時間か二時間ほどで領主の城の城壁が見つかったのだ。これでようやく帰れるのか、とまるで真っ暗闇の洞窟の出口を見つけたような気分で、緑の向こうに見える灰色の石壁をしばらくぼうっと見つめていた。
まるで、この森は異界のようだった。人を不安と絶望に陥れる、悪意が棲む森に思えた。この森に入ってから碌な事がない。一連の出来事から不吉な場所としてすっかり刷り込まれてしまい、今すぐにも逃げ出したくて堪らなかった。それがようやく終わったのだ。
その解放感と睡眠不足の所為で、思考が鈍っていたのだろうか。
「剣を寄越せ」
そう声を掛けられて、ついソフィアは預かっていたユーノの剣を渡してしまった。それが本来なら迂闊な行いだと気付いたのはすぐ後、剣を眼前に突き付けられてからだ。
驚いたのは、その一瞬だけだった。
「馬鹿かお前は。殺されたいのか」
嘲るでもなく、叱責するでもなく、呆れるでもなく。彼の声は平坦だった。前髪の下でわずかに逸らした瞳は相変わらず暗かったが、同期たちと争った後に見せるような、荒んだ光は宿していなかった。
冷静さを取り戻すにはそれで充分だった。彼に剣を向けられたことは数多くある。
「……殺さないだろう?」
おずおずと、しかし確信をもって尋ねた。鉄色の光が真っ直ぐとソフィアに伸びていたが、彼に殺意はなく、剣を持つ腕は伸び切っていた。そんな体勢では腕を振っても剣は届かず、突き刺そうとすれば彼の腕に負担がかかる。人を斬るための体位でないのに、仮にも剣を握る者がどうして警戒できようか。
弾かれたようにユーノは顔を上げた。
「どうしてお前は……」
じっとソフィアを見つめる彼は、まるで迷子のようで。縋るような眼差しに胸が締め付けられた。こんな目をされては責められない。
思えば、このときはっきりと、昨晩の事を誰かに告げるのはやめようと決心した気する。つまりは赦してしまったのだ。だから、イザベルやギルバートに合流したあとも彼のことは言わなかった。うっかり庇うようなことを言ってしまったのもその所為だろう。
それが正しかったかはさて置いて。
ユーノはやがてその目を伏せると、剣を下ろして鞘に納め、再び背を向けた。
「お前は馬鹿だ」
ただそれだけ言い放って、森の外へと足を向ける。
「お前こそ、意地っ張りじゃないか」
望むことがあるなら言ってくれればいいのに、彼は何も言わないのだから。
もし本当に彼が大した理由もなく人殺しができる人間であるなら、とうにソフィアは殺されているはずだ。彼を領主殺しの容疑者に加えることができる情報を持っている上、一度ソフィアを殺そうともしているのだから。
だが、実際の彼は剣を向けこそすれ、再びソフィアを害することがなかった。口止めすらしなかったのだ。悪行を平然とこなす人間がそんなことをするだろうか。
気性が激しいとはいえ、ユーノは普段は生真面目でひたむきな人間なのだ。
――だから、やはり絶対に、ユーノが領主を殺したなど有り得ない。
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