5. 覚めて見る悪夢
喋ることがなくなって、ふと我に返ると急に恥ずかしくなった。何故ユーノにこのようなことを話しているのだろう。
「つまらないことを話した」
忘れてくれ、と付け加える。振り返ることはできなかった。ユーノがどのような顔で話を聴いていたのか見られなかったので。
「お前は……じっとしていられないんだな」
まさしくその通りだったので、一層恥じた。そんなソフィアの顔を覗き込むような相手ではないと分かっていたが、居たたまれなくて抱えた膝に顔を埋める。
「俺もだ」
ポツリと落とされた予想外の言葉に顔を上げる。ソフィアに同調したのももちろんだが、彼がじっとしていられないような何かを抱えていることにも驚いた。
――ああ、でも、あの一身に学問や訓練に励む姿。
それは、余裕がないというその証だったのかもしれない。
遠征に出る少し前、四阿で聴いたエレンの話を思い出した。彼の気性の激しさには、何らかの理由があると。最近大人しかったので忘れていたが、彼は怒ると手が付けられなくなる人物だった。
いったい、どんな理由があるのだろう。
彼は自分のことを話さない。このキャメロンではない、北の方の出身だということは知っていたが、そう言えば家族構成や今までどんな暮らしをして来たかについても知らなかった。彼と親しい人間はいなかった所為なのか、噂にも流れていない。
ユーノのことが知りたくなった。いや、前からずっと知りたかった。
今がいい機会なのかもしれない。そう思ったが、いざとなると本人に教えてくれと頼むのは難しかった。声を出そうとすると、喉がつかえる。
背後でユーノが立ち上がる気配がした。何事かと振り向いて、その姿に目を見張った。
彼の胸元に……。
指摘しようとした瞬間、ユーノが先に口を開いた。
「お前は休め。見張りは俺がやる」
たちまち、言うべき言葉が吹き飛んだ。
「そういうわけにはっ」
先程役に立たないことを悔やんだというのに、仕事をユーノに押し付けて自分は休むなんてできない。先程騎士を目指すきっかけを口にしただけに余計我慢ならなかった。
「朝になっても森を彷徨うことになるかもしれない。そのためにも休憩は必要だ。三時間経ったら起こすから、それまでは寝ていろ」
見張りを交代するのなら、としぶしぶソフィアは腐葉土の地面に身体を横たえ、剣を抱いて目を閉じ……ようとして、一つ思い出して身を起こした。
「ガスター」
呼び掛ければ、片膝を立てて座り森の奥に視線を向けていたユーノが煩わしそうにこちらを向いた。
「気付いているか知らないが……服に返り血が付いている」
焚き火を燃してからは気が塞いでいたので今まで気がつかなかったが、真っ黒なユーノの胸から腹にかけて、赤い染みが付いていた。
はっとして慌てて自分の腹の辺りを確認するユーノ。しまった、と口にせずとも表情が物語っていた。その様子に、ふ、とソフィアは笑う。最近、ユーノの表情がよく動く。以前に比べれば、だが。以前は無表情か苛立った表情ばかりだったので、それ以外の感情を表すユーノがなんだか微笑ましく、嬉しかった。
服の染みを確認したユーノは、やがて苦々しげに言った。
「……兎の血だろう」
そうだろう。ソフィアは相づちを打った。なんだって、兎を一羽絞めてきたのだから、血抜きのときに失敗をして、服に掛かってしまってもおかしくはない。
その返事が些か奇妙であることには気づかず。
背中に焚き火の温もりとそれからユーノの気配を感じながら、ソフィアは眠りの中へと落ちていった。
ふわふわなベッドで寝るのが当たり前だったにしては、地べたの上でよく眠れているほうだと思う。贅沢に暮らしている者からしたら、地面などで寝られるはずがない。はじめはソフィアもそうだったが、積み重ねた訓練のお陰でようやく慣れた。
それでも、まだまだ眠りは浅い。
誰かが傍に寄ってくる気配がして、ソフィアは浅い眠りから覚醒した。身体の下の硬い感触もあって、自分がどういう状況で眠りに就いたのかよく覚えている。
近づいてくるのは、ユーノだろう。
見張りの交代の時間が来たのだろうか。あまり長いこと眠った気はしないし、身体もなんだか怠いのだが、自分の番が来てしまったのなら仕方がない。
近づいてきたユーノに、覚醒していることを示そうとした時、首筋に何かが触れた。それが人の体温を持つことに気が付いた次の瞬間、
喉元を圧迫された。
「……っか、くっ……」
突然の呼吸の妨害に、眠気も怠さも忘れて目を見開いた。そして目に入ったものを見て、さらに目を開く。
ユーノがソフィアの首を絞めていた。
必死に酸素を取り入れようと口を開けるも、喉が音を鳴らすだけ。苦しみは一層増して、必死にもがいた。自分の両手を相手の腕に掛け引きはがそうとするが、うまくいかない。
何故。
途端襲ってきたのは、死への恐怖ではなくユーノに殺意を向けられたことへの絶望だった。
あまりの苦しさに、一度覚醒した意識が薄れ始める。気を飛ばしたら終わりだと、必死に手に力を入れて抵抗する。しかし相手はソフィアにのしかかっているので圧倒的に不利だ。
なぜこんなことになっているのか、真意を読み取れないかともう一度ユーノの顔を見た一瞬、ソフィアは抵抗するのを忘れた。いつも暗く感情を映さない瞳に苦渋の色が宿っている。優位に立っているはずの彼はソフィアよりも必死で、苦しみを堪えているかのようで、気を取られてしまった。
その揺らぐ黒い瞳に見惚れて。
再び気道を圧迫されて我に返る。ユーノの腕を引きはがしながら、足を二人の身体の間に入れて、ユーノの身体を蹴飛ばした。
ようやく呼吸ができるようになり、生理的に出た涙を流しながら身を起こす。突然多くの息を吸ってしまったために噎せて咳が止まらない。
呼吸が落ち着くと、擦れてしまった声でソフィアは問いかけた。
「なんの、つもりだっ」
「悪ふざけに見えるか?」
「見えないから訊いている! いったいどうして……」
最後まで言えずに言葉を切らす。能面のように表情を消したユーノに、身体が震えた。今になって死への恐怖襲ってきたのだろうか。
沈黙が怖い。この森に入ってからずっとそうだったが、今ほど怖く思ったときはない。
その口から吐き出されるのは、恨みか、嫌悪か。
「……どうしてかな」
ぽつりと落とされた言葉。はぐらかしたのか、それとも自分でもわからないというのか。いずれにしても、冗談ではない、と叫びたかった。悪ふざけではないと言ったくせに、動機はないのか。
未だに整わない呼吸が、ソフィアに追及を許さなかった。
しばらく、互いに対峙して。
ふと、ユーノが動き出した。どう来るのかと緊張を持って見守っていると、なんと彼は腰に佩いた剣を抜いて、ソフィアの方へと放り投げたのだ。そして地べたに座り込んだ。
愕然とした。どうして、まるで何もなかったかのように。
同期と揉めた後によく見せる、あの感情のない黒いガラス玉が下からソフィアを見上げる。
「どうせ寝る気になれないだろう。見張りは交代だ」
そうしてソフィアに背を向けて、身体を横たえる。それから言葉を付け加えた。
「……安心しろ、ここで殺し損ねたんだ。もう手出しはしない」
棄てた剣がその証拠だというのか。地面に転がったままのユーノの剣に目を向ける。これがなければ意識をはっきりさせた騎士を殺すのは難しくなってしまうのだから、その言葉は本心なのだろう。
背を向けて横たわって、剣を棄てて。ここでソフィアが彼に剣を向けたらどうするのか。その可能性を考えていないとは考えにくい。それとも、侮られているのだろうか。
剣を棄てたのがどんな理由にしても。もうその剣が向けられなかったとしても。
彼がソフィアに剣を向けてきた事実は変わらない。
本当に眠ってしまったのか。それとも、眠っているふりをして意識的にソフィアに背を向けているのか。ユーノはぴくりとも動かない。
……どうして。
心の中でその背に問いかける。この数分の間に何度繰り返したかわからない言葉だ。
疎ましく思われたことはあっただろう。何度となく彼の行動を妨害し、苛立っているところにさらに説教を重ねた。必要以上にがみがみと言った覚えはある。やり過ぎたと反省することはあったし、煩わしく思われても仕方はないと思っていた。
けれど、嫌われてはいないとそう思っていた。
受け入れられるはずがない。信じたくなかった。ユーノから殺意を向けられるなんて、悪夢でしかない。
悲しくて、苦しくて、空を見上げた。
頭上に広がるのは、森の天蓋。月も星も見えない宙空では救いが見つかるはずもなく。
目の前に突然降ってきた絶望に、ソフィアはそっと涙した。
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