第二十一話 叶わない恩返し

 


 緑さんと母さんは昼間から警察署へ行ったり用事があるという。DNA鑑定になるかもしれないからとか何やらずっと話し込んでいる。

 央雅には伝えたの?というと二人は小さく頷いた。

 バイト先の店長に休む事を連絡し、央雅の病院へと急ぐ。昨日、気にかけてやるべきだったのに——すっかり自分が混乱していた事を恥じる。

 九階の病室にたどり着くと、央雅は簡易テーブルを取り出して画用紙いっぱいに絵を描いていた。

「央雅」

 俺が声を掛けても聞こえていないようで、一心不乱に絵を描いている。

 上から覗き込む。

 色鉛筆で描かれる琉玖と慶樹の絵だった。

 そうか、と俺は思い知る。美術部員だった伴もこの世にはいない、という事か。

 そこまで央雅は知ったのだろうか。美術部員。そうか、いないのか、全員。

 子供達と一緒に絵を描いていたあの二人。二人だけの世界を作っていてそれがどこか羨ましかったけれど、絵描きには絵描きの世界があるんだなあと感心した。

 その二人がいない。

 央雅の兄も、央雅の絵の先生も、いなくなってしまった。

 央雅の手は止まらないのに、画用紙にポタポタと水滴が溢れる。

 色鉛筆がどこか水彩画のように色を伸ばしていった。

「どうして」

 央雅の細く壊れそうな言葉が耳に入る。

「どうして兄ちゃんなの?」

 俺も同じ思いなだけに何も言えなくなる。

「僕が代わりになれば良かった」

「央雅、それは違うだろ」

「僕が事故で死んじゃえば、治療費なんて稼がなくたっていいんだよ?」

 なんて事を言うんだ、俺は央雅の腕を掴み顔を見る。

 あどけない子供の顔、変声期も迎えていない高い声、いつもは笑っているその表情はコップの水が溢れるように、涙が止まらずに泣いていた。

「——僕だって生きたいよ……母さんに恩返ししたいよ……でも、ダメなんだ。僕、治療が打ち切られて死ぬのを待つだけなんだ。母さんの為に生きたい……どうして、神様は母さんを虐めるの?なんで、兄ちゃんはいないの?僕の代わりになれるのは、兄ちゃんじゃないの!?」

 誰も。

 誰も央雅の代わりにはなれない。

 いつも笑って和ませて、空気に敏感で俺たちを結びつけているのは、央雅なのに。

 そして絵の才能があって、大人のような冷静さを持ち合わせた琉玖の代わりもいない。

 どちらも大切なのに。

 そんな馬鹿なことがあるか。

「治るだろ?ちょっと長いだけだろ……?」

「無理だってば。僕はもう生きられない。こんな事なら、もっと早く打ち明ければ良かった。そしたら兄ちゃんは、合宿に行かずに僕のそばにいて、生きていられたのに。僕がもっとワガママ言って困らせて、兄ちゃんを繋ぎとめてれば」

 可能性を言っても仕方ない。

 分かっている。

 俺も、央雅も。

 央雅がわがままを言えば俺が諭して行かせただろう。

 どちらも結局心の中に黒い闇を抱えていく。

 何故。何故。

 俺も、怖い。

 大切な人を失うことがこんなにも心が張り裂けそうになるなんて、初めて知った。

 央雅を失ってしまうかもしれない、でもどうにかなるかもしれないという不安と希望の状態が続いたことも辛かった。

 それでも、どちらかはいつだって俺の側にいて、一人じゃなくて。

 それなのに、さよならも言えずに突然いなくなってしまうなんて、こんな事があるだろうか。

 美術部で楽しく笑っていて、大人に憧れた琉玖も、そしていまいつも笑顔で安心させてくれている央雅も俺の前から消えようとしている。

 それが現実?

 央雅は死なないだろ、と声に出す事が出来なかった。

 その涙が嘘偽りがないように思えて、それも覚悟して央雅が今まで生きていたとしたら。

 全て受け入れて特別支援学級に笑顔で通っていたとしたら。

 俺は愕然とした。

「僕嫌だよ……っ、お母さんを一人にするの、嫌だ!」

「一人にしないだろ、央雅なら治るんだ。治って、緑さんと俺と一緒に生きていこう?」

 央雅と一緒に泣きたくなりそうになりながら、なんとか抑える。

「な?央雅」

 俺のことも、一人にしないでくれ。


     ◆

 

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