第十話 サンタさんへの願い事
家に帰るとお母さんがお昼ご飯を作って僕らの帰りを待っていたようで「お帰りなさい」という声と涼しい風が僕らを包む。
僕が一人だった頃に憧れていたもの。玄関のドアを開くとムッとした熱気をどうにかしようとリモコンを手に取って温度を下げていた過去がよぎる。
「生姜焼き作っちゃった。たくさんあるからね」
お母さんの声に琉玖は遠慮がちに「はい」と答えるが央雅は嬉しそうに「生姜焼き、大好き!」と飛びつくように洗面所へ向かった。
ご飯を食べる前は手を洗いなさい。
初日、央雅が学校から帰って僕のお母さんに言われた言葉だ。央雅は一瞬怒られたのかと思ったがそうではない事を知って、毎日言いつけを守っている。
「今おにーちゃん二人で、おかーさんが二人いるみたい」
洗面所では央雅用の小さな踏み台がある。それは洗濯機横にあるのだがそれを迷う事なく手に取って、洗面台の前に置いて央雅は蛇口を捻る。一通り洗ってから洗剤を使ってもう一度綺麗に手を洗う。
これは免疫力が低下している為、央雅が特に気をつけなくてはいけない事の一つなのだとお母さんに言われた。マスクも本来ならつけてあげたいが、学校もクーラーが完備されているわけではないのでそれで体調不良を起こされても困る。だから、どんな時でも手洗いうがいは徹底しなさい、と言ったのだと。
少しでも菌が身体に入れば、央雅の身に危険が及ぶ可能性があるから、だから病院へ行く回数が減るまではしっかりとした予防を徹底させるから、貴方も見本になるように実行しなさい。有無を言わさない言葉に僕は頷くことしか出来なかった。
しばらく毎週病院、それが月に一度、半年に一度、と期間が長くなる事が良いらしい。
病院の付き添いは病院側と話し合って僕のお母さんが行くことに決めた。緑さんの仕事はハードで金銭的な部分で無理をしなければいけないので、睡眠時間を削って体調を崩すわけにはいかないから、と。
それで緑さんが本当に良いと思ったのかは分からない。
痩せた緑さんの身体を見るたびに、だんだん脆く壊れてしまいそうで僕は怖かった。
その助けにお母さんがなるというなら、良いんじゃないかと僕はぼんやりと考えて、そして思考は中断される。
季節は過ぎて冬。
夏休みの間は病院からプールの許可は降りなかった。冬休みに突入する少し前の十二月二十日。
そこでも央雅は未だに体育は禁止とされている事が気に入らないらしく駄々をこねていた。病院に行く回数は毎週じゃなくて月に一回なのに、走れるのに、息だって切れないのに、どうして僕はどうして体育の授業を受けちゃダメなの?泣きそうになりながら僕と琉玖とお母さんに言い放つ。
「どうしてって……お医者さんがそう言ったんだろ?」
琉玖は絞り出すような声で言う。
「僕もう走れるし、空き地だって行けるのに、お兄ちゃんはどうして空き地に行こうって言わないの?僕がまだアンセーにって言われてるから?なんで?僕だってみんなと遊びたいのに、ずっと部屋の中だよ。ニューインしてた時と変わらないじゃん!」
病院の中で央雅がどう時を過ごしていたか知らない。それでも央雅は誰よりも、大人の一面を持ち合わせているような言葉で話すときがある。
僕らと対等だよ、と言うようなそんな言葉を口にして。
「央雅の気持ちもわかる。坂を駆け下りるのも、プールも、サッカーも出来なくて今は辛いかもしれない。でもな、央雅。今それを俺たちが無理矢理やって、央雅がまた病院に行くことになったらどうする?せっかく外の世界に戻れたのに、ずっと病室に過ごすことになるかもしれない。だから、俺や太紀だって空き地に行ったり、もっと央雅を外の世界で遊びたいのを我慢してるんだ。これは全部央雅のためだ。良い子なら、分かるよな?央雅はもう少し、我慢出来るよな?」
琉玖の言葉に央雅は「でも」と呟く。
「それで治るわけじゃないんだよね」
央雅の言葉に僕は「え」と思わず言葉にしてしまう。
「見てきたよ、ターインして戻ってくる子。そのあとどうなったかわかんない。でも、僕は大人しくしてまたニューインするくらいなら、遊んで後悔しない毎日を過ごしたいよ」
琉玖が唇を噛む。
そしてゆっくりと央雅の事を抱きしめた。
「不安なのは解る。でも生存率が高いんだよ、央雅の病気。お前が不安がってたら、病気がやってきちゃうだろ?」
自分の感情を押し殺して優しい声で央雅を諭す。
僕は無理だ、僕もきっと泣いてしまう。央雅にそんな優しく声なんてかけられない。
「サッカー出来なくても、プールは入れなくても、空き地に行けなくても、家の中でいっぱい遊んでる。それじゃ、嫌か?」
琉玖の言葉に央雅はブンブン、と首を横に振る。
「ごめんなさい」
ポロポロと央雅が泣き出す。
「ごめんなさい、お兄ちゃん、お母さん」
溢れる涙を精一杯手で拭いたいのだろうが琉玖が抱きしめたままなので身じろぎしているだけになる。僕と琉玖とお母さんは、静かに央雅の涙を聞いていた。
央雅は央雅なりに頑張ってる。知っていた。泣き出すことがほとんどないくらい、笑っていて、いつも誰かの心配をしているような、そんな子供のはずなのに。
「大丈夫だよ、央雅」
琉玖が優しく頭を撫でる。
「央雅は、クリスマスは何をお願いしたの?サンタさんに」
央雅は琉玖の腕から逃れるように這い出て「んー、あのね」と言いながら手で涙を拭う。
「キャンバスにしたの」
「キャンバス?」
琉玖が驚くような目で央雅を見る。
「そう、お兄ちゃんが描けるようなキャンバス。お兄ちゃん、あんまり家じゃ描かないけど、本当は大好きでしょ?だからお家でも描けるようなキャンバス」
央雅の言葉に「バカだなぁ」と琉玖が言う。
「そんな大きなもの、サンタさんは持ってこれないよ」
その言葉に央雅は「ええー」と悲鳴のような声をあげた。
「だって、煙突ないもん。キャンバスくらい持ってこれるでしょ?」
琉玖は優しい笑みを浮かべて「違う違う」と央雅を撫でる。
「サンタさんって子供にしか、プレゼント渡してくれないの、知ってるか?」
琉玖の言葉に央雅は「うん」と頷く。
「しかも小さな子供にしか、サンタさんはくれないんだ」
央雅は「聞いたよ」と返す。
「だから、サンタさんは小さな子供が欲しがるものしか持ってこない。キャンバスなんて、子供らしくないから、きっと違うプレゼントを選んでるよ」
琉玖の言葉に央雅は「えっ」と驚く。
「ダメなの?キャンバスって子供でも欲しがらない?」
「そう。高級品で、今油絵の道具を持ってないから俺には不向きだし、きっとサンタさんは違うものを届けると思うよ。央雅は央雅の欲しいものを書かなくちゃダメなのに」
琉玖が笑う。
「でも、ありがとう」
琉玖の言葉に央雅が頷く
「ううん、お兄ちゃん、ありがとう」
僕たちにはサンタはもう来ないけれど、クリスマスの日、央雅の家には自転車のプレゼントが届いたらしい。
小さいサイズなら、僕たちのお金を合わせてなんとかなるくらいだったけれど、その申し出に緑さんはそのくらいなら大丈夫よ、と笑って出してくれた。
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