第八話 計画

  



 夏。七月。

 こうしてあっという間に一年が過ぎてしまう事を僕はその時、痛感する。

 思い出の夏の一歩手前。もうすぐ終業式になってしまうその少し前に央雅の退院が正式に決まった。琉玖のお母さんも、琉玖も、僕も凄く安心してゆっくりと息を吐き出したほど、それが完治の知らせだと受け取り、はしゃいで、その喜びを何度も噛みしめる。

 退院が近づいてくると僕と琉玖は「どうするか」で度々議論を交わしていた。

「退院パーティーってどんなのがふさわしいと思う?」

 真剣な顔で琉玖が言う。

「僕のイメージだと、ケーキとか「おめでとう」みたいなデコレーションかなあ、部屋とかに」

 僕の言葉に琉玖が「それって」と顔をしかめる。

「俺と太紀でケーキを作るって事?」

 僕は思わず黙って琉玖を見た。僕たち二人であのキッチンでケーキ作り。

 ダメだ、想像が出来ないし何よりも似合わなさすぎる。

 それにもし前日から作って失敗して後戻り出来なくなったらどうしよう。そんな想像が脳を支配して僕は全力で首と横に振った。

「僕は無理だけど、琉玖は?」

 希望の瞳を持って琉玖に問いかける。

「俺が出来るのは料理であって、菓子作りじゃない。それに二人が出来ないと意味ないし」

 それが出来るだけでも僕は凄いと思うのだけれど、そんな事を気にしない琉玖が僕はとても好きだった。

「でも部屋にデコレーションなら出来るよ」

 僕の言葉に「そうだけど」と返す。

「琉玖がお祝いの絵を描いて、僕は部屋の飾り付けをして、そんなありふれたお祝いでも良いと思うんだけど」

 僕の言葉に琉玖が唸る。

「でもご馳走はあり、か……?」

 ブツブツと琉玖が唱えだす。

 こうなると僕の声なんて琉玖には届かない。

 僕の中にあるパーティーのビジョンと、琉玖のビジョンは違うのだろうか。これまで誕生日はどうしてきたんだろう。僕も特に祝ってほしいとは思ってないから誕生日を迎えても言わなかったけれど、琉玖も同じなんだろうか。それとも。

 あと一週間で帰ってくる。

 僕と琉玖で悩みながら歩いてると、スーパーの袋を下げたお母さんが目の前に立っていた。

「あら、太紀」

 こんなに早くに帰宅するなんて珍しい。

 僕はそう思っていると「ちょうど良かったわ」とお母さんが言う。

「ちょっとウチに寄っていかない?琉玖くんも」

 僕と琉玖は顔を見合わせる。ほとんど僕のお母さんとの接点はなかった。

 病気と判明するまで琉玖が一人で央雅を看病していて、夏に一度訪ねてきた時以来。

 お母さんは返事を待つわけでもなく、僕らが後ろをついてくるだろうとマンションへと歩きだす。僕と琉玖は黙ってお母さんの後ろに続く。

 「4」で降りる琉玖を僕は見たことがない。僕の家は琉玖たちの家より少し狭い。廊下がなくて玄関を開けると部屋とリビングが隙間なく詰まっていて、そんなところに琉玖を呼んでしまうことが申し訳ないような気がした。

 「405」号室の扉が開けられる。スーパーへ行く前に事前に帰宅していたのか冷房がかかっておりひんやりとした空気に包まれる。

「ちょっと狭いけど、ごめんねえ。適当に座ってちょっと待ってて」

 そうお母さんが言ってリビングの扉が開く。お母さんはキッチンへ行って買い出した材料を冷蔵庫につめているようだ。

 僕にとっては当たり前なリビング。リビングにはこげ茶のカーペットが広く敷かれ、こたつでも置けそうな低いテーブルと色とりどりのクッションが置かれている。ソファもなければ椅子もない。そんなリビングだ。ソファの代わりに結構座高のあるふわふわのクッションを使っている。定期的に洗われているので汚れはないけれど、あの綺麗なリビングを見ると僕の家にはない綺麗さだなっていつもどこかで思ってしまう。

 そんな無数の憧れ。同じマンションなのに、置かれているものが違うだけで違う印象を与える部屋。カーテンは閉めると夜空の模様が描かれているが今は陽の光が差し込んでいる。

 僕が適当にクッションに座ると琉玖も真似して座った。僕たちの位置からならテレビが綺麗に見える。でも、僕はボタンを押す気になれなかった。

 テレビもない、琉玖のリビング。押してしまうことが躊躇われ、そんな僕の気まずい思いを察するようにお母さんが麦茶を持ってくる。

 憧れと同時の罪悪感。

 琉玖は僕と違って大人になりたいわけじゃない、大人にならなきゃいけない必要に迫られている事の焦燥感。

「ごめんなさいね、何もない家だけれど」

 お母さんが口を開く。琉玖の身体も表情も硬くなる。

ゆかりさんとお話しさせてもらったわ」

  ゆかりさんとは琉玖のお母さんの事だ。

「もうすぐ央雅くんも退院なんですってね。本当なら太紀から聞けば良かったんだけれど、私があれこれ聞いても嫌がると思って……良かったわね」

 お母さんが柔らかい笑みを浮かべる。琉玖は頷いて「はい」と言う。

「去年は夜遅くにご迷惑をおかけしました」

「気にしなくていいわ、あの状況なら仕方ないもの」

 諭すように優しい声で、けれど琉玖からお母さんは目を逸らさなかった。

「それでね、まだ体調は万全じゃないだろうし、お子さんも小さいし色々話した結果なんだけれど、お風呂もご飯もこれからしばらくはここで過ごしてっていうお話なの」

「え?」

 琉玖は驚いて目を見開く。普段見ないくらい丸くて大きな瞳に、央雅と初めて出会った時と同じだ、と僕は思ってしまった。

「寝るときに家に帰って、それまではウチにいてって事。央雅くんには栄養のあるものを食べさせて今よりもっと元気になって欲しいわ。今まで言い出せなくてごめんなさいね。緑さんのこと、誤解していたと思うの。女だって昼間の働きで平気なのに、どうして夜なのって思ってしまって。でもね、緑さんなりに頑張っていた事も分かったし、入院中必死になっている緑さんや貴方達の孤独にようやく気づいたの。遅いかもしれないけれど、今からでも力になりたくて。それで仕事も転職してきたりね」

 おどけてお母さんが笑う。僕は信じられなかった。

 今まで僕が一人で、家に置かれたお金を見てご飯を買っていた時の寂しさに気づいてもらえなかったという気持ちもあるのに。いやそれでもご飯を作っていることの回数も多いし夜は家にいたけれど、仕事が大事なんだって、何よりも諦めていた僕を置いて、琉玖と央雅のために動いていたなんて。

 どうして、と僕の口が開きそうになって慌てて口を噤む。

 それよりもずっと辛い思いをしたきた琉玖に罪悪感を抱いていたけど、それが解消されるなら。

 僕と琉玖と央雅でテレビを見て笑って、ご飯食べてお風呂上がりに勉強したり話せるのなら、それも良いかもしれない。

 中学校になってしまった僕らと琉玖の時間はだいぶ異なってしまうところもあるだろうし、そんな時に央雅のいれる場所が作れるなら、僕や琉玖にとっての安心するところだ。

「迷惑じゃないんですか」

 琉玖もお母さんを見て言う。

「住民の人の話?それなら私は太紀に、貴方との付き合いを辞めなさいって言ってるわ」

 住民の話。マンションの人たちがヒソヒソと噂をしている。

 7階の外階段には近づかないこと。だから僕は近づいた。近づくものがいないから、僕はあそこで風を感じていたのだから。

「お言葉に甘えても良いんですか」

 躊躇う琉玖の気持ちも分かる。

「むしろ甘えて欲しいわね。仕事も転職した後で、午後の時間が結構余ってしまうの。私の退屈しのぎに付き合ってくれない?」

 お母さんの言葉に琉玖は少し悩み、そして答えた。

「宜しくお願いします」

 僕と違って大人の琉玖。『緑さんと話した』ことを強調したお母さん。外堀は埋められ、レールはすでに決まっている。ここで断っては緑さんの面子も潰してしまう。

 そういう人の空気を読むのが上手い兄弟だった。

「お母さん」

 僕が言う。

「央雅の退院祝いをしたいんだけど、ケーキって作るの難しい?」

 僕の問いかけにお母さんはクスリ、と小さく笑った。

「なんだ、色々計画しているのね。じゃあ、緑さんと琉玖くんと、あんたと私で準備しましょう。みんなでやればあっという間よ」

「母さんも……?」

 琉玖が不安そうに言う。

「退院の日の前後はお仕事お休みするって言ってたからみんなでやりましょう。うちのお父さんは帰りが遅いから無理でしょうけど」

「じゃあ」

 僕は言う。

「料理はお母さんや緑さんに任せて、僕たちは部屋中いっぱいデコレーションしよう!」

 僕の言葉に琉玖は笑った。

「デコレーションって」

「琉玖はやっぱり絵を描いて。僕は風船いっぱいなお部屋にしようかな。ねえ、央雅ならどんなのが喜ぶと思う?」

「風船も好きだと思うけど、後片付け大変そう」

「後片付けの事なんて気にしたらパーティーなんて出来ないよ」

 僕と琉玖のやりとりをお母さんは黙って聞いている。

「ねぇ、お母さん。おっきくて丈夫な紙とかないかな?」

「探してくるわ」

「じゃあ一週間かけて琉玖は絵を描く。僕は部屋のデコーレションを担当って事で」

「大変なの俺なんだけど」

 僕の言葉に不服そうにしながらも「どうしようかな」と考える。

「どんな絵が良いかな」

「あの空き地から見下ろす町とか?」

 僕たちはあれこれ話し合う。もうすぐ。もうすぐ、央雅と一緒に過ごせる日々が近づいてくることが待ち遠しくて仕方ない。

 指折り数えて迫ってくるその日を、僕たちは待っていた。


 

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