第五話 異変

 

 



 夏休み中、ぼくたちはあんなに町が小さく見える空き地に寄れなくなっていた。

 央雅の体調が良くなくて、だんだん頭がいたい、気持ち悪いと気分が悪化してしまって、宿題を終えるとぼくと琉玖は頭を使って央雅を楽しませようとする。

 絵本を読んだり、時には絵本をぼくと琉玖で作ってみたり。でも近くの病院へ行っても異常が見られなくて、夏風邪じゃないかって言われた。

 あんなに元気に人懐っこい央雅が元気を失っていって、どうしたら良いのか分からなくなる。

 そしてぼくたちはどうしようもないほど何も出来ないことを痛感しては、なんとかしようと足掻いてもがいていた。

 夏休みが明けて、九月の新学期。

 マンションのエレベーターホールで二人を待っていると、案の定琉玖しか現れなかった。

「央雅の体調が良くならない」

 琉玖が唇を噛む。

 琉玖はぼくに比べて、誰よりも大人びているのに、今無力さを感じている。

 ぼくは何も言えなかった。言葉にしてもどうしようもない気がして、ただ央雅の体調が良くなることを祈ることしか今は出来ない。

「病院、どこ行ってもダメなの?風邪じゃないよね……」

 風邪薬を処方されても頭痛薬を処方されても、央雅の体調は戻らなかった。

「今度もっと大きな病院へ連れて行くって」

「その方がいいと思う」

 ぼくたちは央雅を病院へ連れて行くことが出来ない。

 夏休みの間、夜に琉玖が何度かぼくの家を訪れたことがある。

『恥ずかしいけど、頼れるのが太紀しかいないんだ』

 夜中に吐いてしまって青ざめた央雅をどうしたら良いのか分からない、と泣きそうになりながら琉玖が助けを求めに来たのだ。

 ぼくもお母さんもお父さんも驚いて、思わずお母さんが漏らした言葉は『ご両親は?』で、その時の琉玖の複雑な表情を見たぼくはその疑問をすぐ押しのけることで回避しようとする。

『お母さん、分かる?こういう時どうしたら良いの?』

 ここでもぼくは、そんな時の対応を知らないことを思い知った。

 早く、すぐにでも大人になって、分かるようになりたい。

 そうしたらぼくたちは、こんな思いをしないのに。

 その時も琉玖は悔しそうに唇を噛んでいた。お母さんは『仕方ないわね』とカーディガンだけ羽織って七階へと急いだ。

 白い家。

 マンションの最上階。

 扉を開いても魘されて真っ青な顔をした央雅しかいない。

 ぼくは知らなかった。

 琉玖たちのお父さんがいないこと。

 そして、お母さんが夜は仕事に出かけていて昼間は本当は眠っている睡眠の時間だと言うことを。

 だから『チャイムは鳴らすな』と顔を顰めて琉玖に言われたのだと知り、眠るはずの時間だった時にぼくたちはリビングで騒いで邪魔をしていたことも。

 弱々しくて青白いお母さん。睡眠不足だったからだろうか。

 ぼくのお母さんは央雅の状態を見てテキパキと動く。

 おとなはこうやって、なんでも対処することが出来るんだ、と。

 お母さんはぼくと琉玖が遊ぶことに何か言いたそうだったけれど、それでもぼくに『辞めなさい』とは言わなかった。

「ぼくたち、夏休みに出会ったんだよね」

 ぼくが言うと琉玖は「そうだな」と返す。

「央雅が連れて来たときはびっくりした。アイツ、なんだかんだ俺の言うこと聞くし。知らない奴を連れてくるとは思わなかったな」

 琉玖が肩をすくめる。ぼくは「帰ったら」と言う。

「琉玖も、七階から下まで降りてみなよ。風を切る感じが、空き地から坂を駆け下りるときみたいで気持ちいいよ」

 ぼくの言葉に琉玖も「それもいいな」と答える。

「空き地、あれから行けてないしね。また三人で行こうよ。あの町を見下ろす感じがぼく、結構好きなんだ」

「それが好きで俺だってあそこにいるんだ。央雅の体調が良くなったら行こう。冬でもあそこ、案外心地良いんだ」

 琉玖と央雅が外に出ていた理由。お母さんを起こさないために、二人は居場所を探したに違いない。町中二人で探検してようやく見つけたのがあの空き地で、それは二人の居場所だっから知られることをきっと恐れていたんだ。

 でもあの日、ぼくと琉玖と央雅は出会って、毎日のように話している。

 ぼくたちは「おとな」に憧れて、それが磁石のようにきっと惹かれあって出会ったんだ。

 きっと、ぼくたちの未来のために。


 数日後、大きな病院で央雅が緊急入院になったと聞かされて、ぼくはびっくりした。

「どういう状態?」

 通学中にぼくが言うと琉玖は暗い顔のままぼくに言う。

「なんか長期入院になるかもって。でもそうしたらお金のことはなんとかするから、お見舞いや身の回りの頃よろしくねって言われて。俺、ちゃんと出来るかな?まだ、病名は分かってないみたいんだ」

 暗い琉玖の顔。ぼくは言葉を失いながらも央雅のことを考える。

 長期入院ってどれくらいだろう?やっぱりあれは風邪じゃなかったんだ。でも、ぼくたちは緊急入院という言葉から不安を膨らませてしまう。

「でもさ、もし央雅が病気だとして」

 琉玖が言う。

「医療代は母さんが払ってくれるとして」

 ぼくは相槌を打つことしか出来ないでいる。

「俺は医者じゃない」

「うん」

「俺は何にもしてあげられない」

 ぼくはただただ俯いて通学路を歩くことしか出来なかった。

 そして翌日は琉玖が暗い顔をしてぼくに言う。

「結構、難しい病気らしい」

 ぼくはますます何も言えなくなる。

「命に関わるかもしれないって母さんが言ってた」

 琉玖は空を見上げて通学路の壁を小さく叩く。

「どうして央雅なんだよ……」

「琉玖」

「なんで央雅なんだよ!央雅が、何をしたんだ……まだたった、七歳なのに」

 ぼくはその言葉に対する答えを知らない。

 現実はぼくらを決して「おとな」にはしてくれなくて、央雅の状態を詳しく知らないぼくら答えを失っていく。

 ぼくはどうしたらいいんだろう、央雅に何をしてあげれるんだろう。

 悩んで、考えて、それでも答えは出てこない。

 ぼくたちが「おとな」になるまではあまりに長く、無力なこどもにしか過ぎなかった。


 央雅の病が治るようにぼくは千羽鶴でも折ろうかと考えたけど一人じゃどうしようもないし、何かいい方法はないものか。

 とりあえず「面会とか出来る?」とぼくが聞くと「検査じゃないときは今はいいって。学校終わったら直接行こうぜ」

 央雅の入院している病院は譜霞露 ふいがろ病院という少しだけ離れた場所にあった。

 学校から帰るとぼくらは商店街へダッシュしてバス乗り場へと急ぐ。そして終点の譜霞露病院に駆け込んだ。

 ぼくらに許された面会の時間は十七時まで。

 ぼくたちが門限にしていた時間と一緒だ。本来なら兄弟やぼくは面会を許されないけれど、琉玖のお母さんはたまにしか病院へ寄ることが出来ず、それらはほとんど手続きなどが必要な時だけである。

 ぼくらは特別に許可されて面会を許可されたのだ。

 大人は二十四時間面会を許されているけど、琉玖のお母さんが家へ帰る頃には央雅は眠っていて、あとは治療費を稼ぐために時間を長くすると仕事と睡眠でほとんど毎日を使ってしまう。

 そのためにぼくたちは央雅の着替えや遊べそうなおもちゃ、絵本などたくさんのものを持ってお見舞いに行くことにしたのだ。

 面会ノートにぼくは「中村 太紀」と書いて続柄に「友達」と書く。琉玖は「琉玖、兄」と素っ気なく書いてエレベーターで九階まで上がった。

 8階には特別支援学級っていう長期入院する子供のための学校があるらしい。「9階」に央雅は入院していて、一応状態が良い時は通うことを許可されている。

 平日も土日も自由に開いていて、勉強するときもあればボランティアの人と一緒に色々なイベントもやるらしいと琉玖が説明してくれて、それなら央雅も楽しめそうだと安心した。

 9階から降りると央雅は6人部屋にいた。

 ぼくたちを見つけると満面の笑みで走りそうになり、ぼくと琉玖で慌てて止める。

 つまづいて点滴が抜けたらどうなるのか、そう考えるとぼくは怖くなった。思えばぼくと央雅が会ったときも、央雅に恐怖感はなかった。

 そういうところを考えないのか、とぼくは思いながらも央雅に近づく。

「体調はどう?」

 ぼくの言葉に央雅は「うーん」と首を捻った。

「いつもよりかは良いかな」

 その言葉に安堵する。良かった。

「あのね」

 央雅がぼくの服の袖を掴んで言う。

「おうちゃん、いつからですかって聞かれたの」

「いつからって?」

 ぼくが首を傾げると央雅が丁寧に説明する。

「物が取れなくなったり、転ぶようになったのはいつからですかって。おうちゃんね、すっごく頑張って思い出そうとしたの」

「いつって熱中症かもって行ったあの日だろ」

 ぼくの言葉に央雅は首を横に振る。

「本当はもうちょっと前なんだ。転ぶのは足あげないからだよってママに言われてたから、だからねー。最近よく転ぶって思ってたの。でも、それ、違ったんだね。おうちゃんが悪いわけじゃなかったんだね」

 央雅はニコニコと笑ってそう言った。

「ここの病院ね、すっごく大きいんだよ。今いるところは子供が中心的なんだって。個室に住んでいる子も結構多いって言ってた!おうちゃんはね、こういうところ初めて!ねぇ、ママ大丈夫かな?」

 央雅は不安そうな顔で言う。

「ぼくの検査結果見て真っ青になってたの。寝込んだりしてない?」

「辛いのは央雅なんだから、お前が無理すんなよ。母さんは仕事で疲れてるだけだ」

 央雅はまだ七歳なのに、周りのことをよく把握している。

「央雅も、検査の結果わかんないんだよな?」

「うーんとね、だいよんのじょういとか」

「なんだそれ?」

 琉玖が首をかしげる。ぼくにもわからない。

 でもきっと、琉玖のお母さんは理解したんだろう。

 ここでも、おとなとこどもの差を痛感する。

 もし兄弟でも、ぼくたちが大人だったら、琉玖だけでも病状を理解出来たし、もし央雅が大人だったら病気のことを全て認識しただろう。

 ぼくたちはまだ大人になれないのに、一体どうしたら良いのかわからない。

 その日は必要なものを央雅に渡して、琉玖と病院を後にした。

「央雅の病気ってなんだと思う?」

 ぼくの言葉に琉玖も「うん」と唸るように返事をする。

「第四の上位ってなんだろう……」

 ぼくの言葉に答えは出ない。

「俺たち、何なら出来るのかな」

 ぼくはその答えを知らない。

 あの夏、肌を焦がすようにジリジリとした太陽の眩しさを僕らは見た。

 けれど、それが遠い過去のように思えるほど、ぼくたちは今という現実を直視することが出来ずにいる。

 抱えきれない不安は、おとなになれないぼくらの心を、深い闇の中に沈めていくようだった。


 ◆

 

 

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