第三話 なつやすみの宿題

 

 

 ぼくと琉玖二人で、央雅の手を取って、今日は坂を駆け下りずにゆっくりと歩く。

 当の本人はケロリとしていて「大丈夫だよ?」と何度も言うが、ぼくも琉玖も今日帰らないなら夏の間はあの空き地に行くことをやめようと半ば脅すように言うとしょんぼりとした表情をして「わかった」と聞き分けてくれた。

 マンションのエレベーターホールに到着したのでぼくは央雅の手を離す。

「ねえ、帰ったらおにーちゃんは?」

「央雅が体調悪いのに居ても仕方ないだろう」

 ぼくが言うと「そんなことないもん」と指を口に加える。

 琉玖にすぐさま「行儀が悪い」とピシャリと叱られ、央雅は指を戻す。

「おうちゃんの家に、遊びに来ないの?」

 央雅がねだるようにぼくに言う。ぼくは困ったような表情で琉玖を見ながら「突然お邪魔したら央雅の家の人がビックリするよ」と答えた。

 琉玖はしばらく考え込みながら「央雅も遊んでもらってるしな」と呟いて、ぼくに言う。

「少しだけ、遊びに来ない?あまり綺麗には迎えられないし、ちょっと散らかってるけど」

 肩を竦めて琉玖は顎で付いて来い、とでも言うようにエレベータの「上」のボタンを押す。

 一応地下は駐車場になっているので、下のボタンもあるけれどエレベーターに入ると「4」は押されず、「7」までまっすぐエレベーターが上がっていった。

 ぼくはいつも央雅と琉玖の家の前を通って外階段で遊んでいたのに、まるで初めて入るかのようなそんなふわふわとした浮ついた気持ちと、謎の高揚感に襲われている。

 なんだろう。ぼくは上手くその気持ちを言葉にする事が出来ない、遊坐家へと足を踏み入れることになった。

 琉玖が躊躇いもなく玄関のドアを開ける。

 ぼくとは違って一直線の廊下が見えた。ぼくは「お邪魔します」と入る。同じマンションでも内装は違うように感じてしまう。

 ぼくはエレベーター側だからコの字の外側部分で玄関を開けたら大きなスペースのような廊下を挟んで部屋やリビング、キッチンなどがあるけれど、玄関から真っ直ぐとドアまでつながった廊下が少し高級そうに感じてしまう。玄関を入ってすぐ右にトイレ、少し先に洗面所があり左側に部屋が並んで居た。

 琉玖はそのまま真っ直ぐ廊下を進んで、一番奥のドアを開ける。

 眩しい日差しがリビングの白さを際立たせている。白い壁、白いソファ、白樺のテーブル。真っ白い、と同時にどこが散らかっているんだ?とぼくは思った。

 こんなの見せられた後じゃ、ぼくの家なんて呼べっこない。

「適当に座って。ジュース持ってくる」

 同じマンションなのに、住む世界が違うみたいだ。ぼくはそう思いながら窓の外を見る。風を感じることは出来ないけれど、ここも凄く高くて見晴らしが良いな、と思って少しだけ羨ましくなる。

 琉玖がジュースを持ってキッチンから出てくると同時にリビングの横にある襖から手が伸びた。ぼくは思わず驚いてソファで身を縮こませる。

「あら……お客さん?」

 その声に琉玖が「ごめん」と告げた。

「学校の友達。今日、央雅の体調が悪そうなんだ」

「央雅、大丈夫?」

 優しい声。そして凄くガラスのようなお母さんだな、と思う。

 儚くて脆いような、ほっそりとした顔と身体に長い髪がか弱そうな連想をしてしまったのだろうか、わからない。

 でも今まで眠っていたようなどこか寝起きの状態に見えた。身体の具合が悪いんだろうか。そういえばぼくたちは互いの家族の話はした事がなかった。

 うちは親が共働きで家にいないので、二人もきっと似たような家庭環境なんだろう、とそう思ってしまったことに気づく。

「おうちゃん、平気だもん」

 プイッと央雅は顔を背けて琉玖が持ってきたコップを手に取ろうとする。

 また手が空を切り、同時に身体が前へ崩れ落ちそうになりぼくは思いきり両腕を使って央雅を抱え込むように後ろのソファへと引き寄せた。

「どこが大丈夫なんだよ、本当に熱中症じゃないのか?」

 ぼくの焦るような声に央雅は今にも泣きそうになる。

「確かに変ね……、今からでもお医者様に行きましょう」

 困ったような顔をして央雅の母親が言う。央雅は「やだ!」と声高らかに叫んだ。

「おうちゃん、ヘーキだもん!ヘーキだってば!」

 まるで癇癪を起こしているようだ。いやこの場合は癇癪なのだろうか。

 ぼくは今まで聞き分けが良くて笑ってヘラヘラとしながら兄の側にいる央雅しか見て来なかったけれど、どこかで我慢していたものが今爆発したのかもしれない。

「央雅、なんもなかったら明日からも秘密基地へ行けるんだ。ちゃんと行って来い」

 諭すような琉玖の言葉に央雅は項垂れたように「うん」と返した。

「すぐ行きましょう。ごめんなさいね、えっと……」

 ぼくはまだ自己紹介をしていなかったことに気づいた。

「中村 太紀です」

「太紀くん、ごめんね、なんのお構いも出来なくて。央雅を病院に連れて行くから、琉玖をお願いしてもいいかしら?」

「いや俺が世話する方だと思うけど」

 ブスッとした顔で琉玖が言うが、そんなことは一つも気にしないようで手早く支度を済ませて央雅を病院へと連れて行く。

 ぼくと琉玖は七階の一室に取り残されてしまった。

 ぼくはトートバックから宿題を取り出して「やろうよ」と琉玖に言う。央雅がいない二人きりの空間が初めてなことに、その時ぼくは気づいた。

 あの満面な笑みが「おとな」に憧れるぼくらを成立させ、間を保っていたことに。

「それもそうだな」

 琉玖が頷いて同じようにバッグからノートを取り出して「でも」と呟いた。

「央雅、なんであんなにコップが上手く取れなかったんだろう」

「熱中症とかで距離が測れなかったとか?」

 ぼくはなるべく明るくしなければいけない、と思って軽く口にする。琉玖もそれを察したのか「だよな」と相槌を打った。

「今日おかしいだけだもんな……宿題、どこまで進んだんだ?太紀は」

 琉玖は不安そうな表情は拭えないものの話題を変えるようにぼくのノートを覗き込んだ。

「琉玖とぼくは専門分野が違う」

 算数が答えきれていないぼくに琉玖は肩を竦める。

「でも社会や国語が得意なんだろ?俺と交換しようぜ」

「同じ答えじゃばれるよ」

「バレやしないさ。クラスだって違うんだし」

 琉玖は悪戯な笑みを浮かべてぼくを戸惑わせようとした。

 ぼくは首を横の振り「夏休みが終わっても冬休みがあるし、中学生になったら試験もあるんだ。自分でやるべきことはやらなきゃダメだ」と反論し、宿題に手をつける。

「算数が散々でも、宿題は宿題だ。それに、おとなは不正しない」

「おとなの方が賢く誤魔化しそうだけど——仕方ないな。央雅にも自分でやるように俺も言ってるし、頑張るか」

 そう言いながら二人の得意分野で話が弾み、教えてもらいながら教えることが出来て有意義な時間を過ごせた。

 ああ、なんだそこはそうやって理解すれば良かったのか。ぼくは嬉しくなっていつもよりたくさんの宿題をこなすことが出来た。

「あとは理科だけかな、ぼくは」

「俺は社会」

「じゃあ、明日やれば終わっちゃうね」

 ぼくがそう言って笑うと琉玖は「うん」と頷く。

「でも自由研究がまだ決まってない」

 八月の上旬。ぼくと琉玖は顔を見合わせる。

「どうしよう」

 特に夏休みの自由研究は決まっていなかった。

「でも琉玖は絵が描けるんだよね?」

 ぼくが言う。

「それがどうしたんだよ」

「せっかくなら央雅も楽しむものが良い。ぼくに少しだけ考える時間をくれれば」

 ぼくの頭の中に、やりたいけれどやれなかった自由研究が一つ存在した。

「合作って事か?」

 琉玖が不安げにぼくを見る。ぼくは大きく頷いて、笑みを浮かべた。

「そう。それなら二人でやっても構わないだろ?」

 同じものを二つ作る。

 これはぼくだけじゃ、出来ないのだから。

 ぼくが帰宅する時間をチャイムに知らされる。

 央雅たちはまだ帰ってこないので「先に帰るね」と琉玖に告げて、ぼくはマンションの一階まで降りた。

 確か家の中の材料じゃ足りなかったものがある。今日はまだぼくの親は帰ってこない。

 買うなら今のうちだ——

 大丈夫。

 貯めたお小遣いで買える。いつもより多く置かれる夏休み。

 本当はもっと貯めて違うことに使おうと思っていたけど、三人の思い出のためならそのくらいの出費は構わない。

 そして翌日のための材料をぼくは揃えた。


     ◆


 

 

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