第六話 鼓動
「あら、
重く暗い顔をしていた人たちが一斉に目の色を変えて小さな笑みを浮かべ始める。
一体なんだろう。
男性は一人一人にカップケーキとプラスティックのスプーンを渡していく。
「今回はモチモチとした食感と中に梨と練乳を混ぜて作ってみたんです」
最後に私のところに回って来て男性は「どうぞ」と優しい笑みを浮かべて手渡してくれた。カップは紙のカップだろうか。でも飲み物用じゃなくて底は深くなく、横に広がっている独特な仕上がりだ。そしてカップには色とりどりのパンケーキが描かれている。優しい色合いにどこかホッコリと心が落ち着く。そして肝心のカップケーキはクリームなのだろうか。下はケーキから少し出るようにナッツが見えており、その上は花びらのように、花があるように丁寧に一枚一枚描かれていて葉に落ちる雫のようにアラザンが置かれている。そして一番頂点は黄色い向日葵のような花が描かれている。これはなんだろう。アイシングクッキーみたいなものなのだろうか。これをこの多人数分作ったということが信じられず、私はマジマジとそのカップケーキを見てしまった。
「食べ物は眺めながら食べるものですよ」
と青年は笑って言う。
「これ、作ったんですか」
「ええ。お菓子作りが趣味でして」
「伴さんが作るのは美味しいのよ。知ってる?駅前にあるパンケーキ屋さんの店長さんなの」
「そうそう、それぞれメニューにもこだわっていてね」
口々にお店の感想が溢れる。
「だから、食べてください。気に入ってもらえたら、また作りますから」
そう言われて勿体無い、と思いながらも私はスプーンでカップケーキの横をすくう。クリームとカップケーキがちょうどよく取れたので口の中に放り込む。
クリームで花を描いているのに、甘すぎない事に驚いた。そしてもっちりとしたケーキにシャリっとした梨の食感。どうやってこの中にこんなシャリシャリの梨を入れることが出来たのだろう。私は驚きで目を丸くしながら、男性を見る。
「
「どうして……」
「
私は「そうですか」と返しながらカップケーキを見る。伴さんもこの事故に巻き込まれた誰かの家族なのだろうか。それでも皆と違ってどこか前を向いているような気がする。
今も話が重たく険悪なムードだったのにタイミングよくカップケーキ片手にみんなを和ませ笑顔にさせた。あ、今、外で聞いてたってことはやっぱりタイミングを計ってたっていうこと?
私はスプーンですくっては口の中に入れる。モチモチとしてそれなのに口の中で溶けていく。梨はシャリシャリしてるのに私はすっかりと虜になってしまった。
「ご馳走様でした」
私はなんだか心地良くなっていて、その後の話はあまり思い出せない。と言ってもそこでほとんど話は終わってみんなで食べ物の話とか雑談へ向いたんだと思う。それにしても、なんと優しい味のあるカップケーキだろう。それだけ心がふわふわとしながらその会の後、夏米の病室へ向かった。
「あら」
吹炉先生が夏米の病室から出て来た。院長なのに本当に患者の事を考えてくれるな、と思いながら私が「こんにちは」と返す。
「今日はどうしたの?何か良いことでもあった?」
「良いことっていうか……」
私は今日の会の事をかいつまんで話す。
「それでそのカップケーキが凄いんです。見た目は綺麗で、もう飾っていたいくらいなのに食べ始めるとスプーンが止められなくて次々と口に放り込んでしまうっていうか。どんどん口の中で溶けていっちゃうんです。びっくりしちゃって、あまりの美味しさに感動してしまって、ああ、これを夏米と一緒に食べたいなって考えました」
私が興奮しているので吹炉先生は笑って「そうなの」と口にした。
「鮎川さんと波瑠ちゃんが、そのパンケーキ屋さんにいけるといいわね」
珍しく希望的観測を口にする。普通この状態の夏米に対して吹炉先生はこの言葉を口にしないのに。でも私だからかもしれない。私が理解しているから。唇を噛む。
私は吹炉先生に扉を開けてもらい、病室へと入った。
今日も夏米は眠ったままだ。
このまま夏米の包帯はゆっくりと取れていくのだろうか。私にはそこまで考えられなかった。綺麗な身体で眠り続ける夏米を見て、私を見て微笑むあの優しい顔が浮かんでくる。
もう一度笑ってほしい。笑って、話してほしい。どんなことでも構わない。私はただ夏米が生きてくれたらそれだけで構わないのに、それでもとまた頭を悩ませる。
夏米が目覚めて、夏米は夏米のまま、笑ってくれるの?と。
絶望と失望で、泣いて怒って、微笑んでさえくれないのではないだろうか。
その恐怖に私は身体を震わせる。
そして過去の記憶へと引きずり込まれる。
私の年齢は二十六歳。夏米と出会って十年が経った。
高校生の時に同じクラスになって、隣の席になったことがきっかけによく話すようになり、次第に付き合い始める。付き合ってから数えると九年目。
『夏米、またお兄さんの勉強教えてもらってるの?』
『だって、兄貴は俺より頭良いんだぞ?』
『あ、夏米、紙が落ちたよ』
ノートに挟まっていた紙切れが風に吹かれる。そして私がそれを手に取り、夏米に手渡す時に手と手が触れ合って、ドキドキしたことを覚えてる。
淡い、高校生の、ちょっとした恋から始まったのだ。
『馬被って名前、日本じゃほとんどいないらしいけど、親族ってどうなってんの?』
『えー、うちおじいちゃんとおばあちゃんくらいしか馬被姓知らない』
いつまでも私を十代に戻してくれる夏米はいつ、目を覚ますのだろう。
私は看護師として働いてきた。特別病棟に勤務した期間もそれなりに長い。
私でさえ、義足すら上手く使いこなせず松葉杖を使い汗でびっしょりになって日々のなんともない動作に苦労している。私も今より過去に戻りたい。そしてこの病院で働いていたかったと願う。けれどそれは過ぎてしまった過去の話だ。
私は意識のあるリハビリ患者さんを励まして生きてきたけれど、逆の立場になると悲観する事でしか保てないのだな、という事を知る。
動かない。この杖なしでは何も出来ないことに腹を立てながらも、夏米の寝顔を見る。
夏米はいつ起きるの?
それとも、眠るの?
夏米の治療費は夏米のお母さんやお父さんを困らせているのかな。それとも夏米はいっそ、目覚めてこの状態から生きていくことに絶望するのかな。
この状態で夏米は目覚めてもおそらく高次機能障害が残るだろう。皮膚のリハビリもある。上手く手や足が動かせなければ、言葉もまともに喋れないかもしれない。
警察官としての復帰が皆無だと知って彼は絶望しないだろうか。
それならいっそ私が——
この管も抜いて、点滴も抜いてしまえば、枕を押し付けるだけでもいい。
それだけで夏米は呼吸を止める。
生きていて嬉しいのに、触れられない悲しさに、鼓動を感じるのに、目覚めない悔しさに、私はどうしたら良いのか分からない。
夏米はどっちが良い?
夏米は生きたい?一生その身体のハンデを背負って。
それとも——
管を抜いてみようか。
夏米をこのまま楽にした方が、夏米の幸せなんじゃないか、と思いながら。
夏米。愛しい。出来るならもっと側にいたいのに、私が何もしてあげられない。
私の身体が健全だったら、夏米になんでもしてあげられるのに。
どうして神様は、夏米の目を覚まさせてくれないの。
生きている。その鼓動に触れたい、温もりに触れて温めてほしいのに、それすら許されない。
これは生きているの?全員が押しつぶされそうになりながら、夏米の今後を考えているんじゃないの?
生きて。
生きてほしいのに、その後の夏米のことを思えば思うほど辛くて心が張り裂けそうになる。
辛いのは私じゃない、夏米になるんだ。
だから、私の手でいっそ。
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