第七話 二人の未来

 私が立ち上がると、カラン、と音を立てて松葉杖が倒れた。咄嗟に松葉杖を拾おうとしてバランスを失う。上手く平衡感覚を保てつずに思い切り床に頭をぶつけた。

 音を聞きつけた誰かががすぐさま部屋に入ってきて私を助け起こす。

「すみません」

「いえ、大丈夫ですか」

 そこには先ほどカップケーキを持参した男性が立っている。

「えっと、え?」

「あ、伴です。先ほどぶりですね」

「はい、そうですね」

 そう思いながらも彼がどうしてこんなところにいるのだろう、と驚いてしまって上手く喋れなかった。

「実は先ほどの会で気分を悪くさせたのではないか、と思いまして」

 私は小さく首を振る。ここで同意する事が怖い。

「……どうしてこの病室だって分かったんですか?」

「鮎川さんには前から聞いてましたから。婚約者も意識不明だって。それにさっき吹炉院長にもお会いして聞いたんです」

「何か、用が……?」

 私が首を傾げると「はい」と伴さんが言う。

「あの時、ほとんど馬被さんはお話しされませんでしたね。それで、心の中で何か溜まってるんじゃないかと思いまして」

 私は小さく微笑む。

「みなさんみたいに親しい人を亡くしたわけじゃないですから」

「でも、馬被さんは事故の当事者ですし、未だに鮎川さんは意識不明の状態でしょう?」

 私は「そうですね」と言いながら「でも、どうしたらいいんですか」と不思議に言葉にしていた。

「みんなは死んだ人の話をしていました。そこに生きている私の気持ちを言っても仕方ないことです。それにみんな、賠償金や慰謝料の話で途中から盛り上がってたし。伴さんが絶妙なタイミングでカップケーキ持ってきてくれたお陰で、なんとか場は収まりましたし、また次の時にって感じで解散になりましたけど。でもあそこにいる皆さんの話を聞いてると、少し悲しくなったんです。亡くなったことをお金で解決しようとしているみたいに見えて。もちろん、お金は大事です。夏米だっていつまでここにいる事が出来るか分かりませんし、私も働く場所を見つけなくちゃいけない。でも、私とあそこにいる皆さんとじゃ意見は絶対合わないですから」

 私の話に「僕もそう思うんです」と伴さんが言う。

「弟の死を、お金で解決しようと話し合うことも疑問を持ちましたね。でも、皆さんはそこでしか感情をぶつけられないんです。人それぞれ複雑な気持ちがあっても、その悲しみを共有するにはああいう場所でぶつかって助け合わないと、心が崩れ落ちてしまいそうになるんですよ。だから馬被さんと意見が合わないことは仕方ないと思います。馬被さんが話してない気持ちは、相容れないって事ですよね?」

 伴さんの言葉に私は頷いて「そうです」と話を続けた。

「私は皆さんの話を聞いていて、生きていても辛いことの連続なんだと言いたくなりました。私はまともに歩く事が未だに出来ません。咄嗟にいつものように立ち上がろうとしてさっきみたいにバランスを崩して身体を強く打ち付けてしまったり、右足一つで私はこんなに辛いと思うんです。私はまだそれでもリハビリが上手くいけば、歩くくらいならどうにかなるかもしれません。でも、夏米は?夏米は五ヶ月も意識が戻らないんです。もし、目が覚めたとしても身体は満足に動きません。そもそも皮膚の全身移植なので引きつけを起こしてしまったり動かす事が最初は想像を絶するほど困難なんですよ。それに加えて今まで動いて来なかった分、動作の一つさえまともに動かすことは出来ませんしおそらく麻痺の症状も出てきます。食べることも喋ることも、どれを取っても苦しくて辛い。それを長い時間をかけて動くようにリハビリをしていかなければいけないんです。警察官として生きていくことを望んでいた夏米は、多分もう警察官でいることは出来ません。夏米にとって目標である仕事が奪われ、身体は自由が効かず、喋ることさえままならない事を考えたら、それなら、いっそあの時死んでしまえば良かった——夏米はそう思うんじゃないかって怖いんです。大好きな夏米の笑顔が見れず、悲しい顔をして、打ちひしがれた夏米がいるんじゃないかって。夏米が生きていることは夏米を苦しめるだけなんじゃないかって思えば思うほど、怖くてたまらない。私も……私でさえも死にたいと思ってます。辛くて苦しくて、どうにも出来ないこの状況も、自分の身体も。今までたくさんの患者さんを励ましてきたのになんて自分勝手なんだろうって笑えてくるくらい、後ろ向きで、想像以上に辛くて……生きていて欲しいのに、生きていたら辛いと思ってしまう事が怖い。それならいっそ私たちも死んでしまえば、こんな苦しみもなかったんじゃないかって考えてしまう自分が怖くて……だって、私は生きているのに。何も言えずに亡くなってしまった人たちがいるのに……こんな酷いことってないですよね?そんなワガママな自分が嫌で、でも解らないんです。何が良いか悪いか。ただ私は、夏米の側にいたい。夏米に否定される事が怖い。ならどうして殺してくれなかったんだって言われたらどうしようって……私、夏米をどうしたら良いか解らない。生きて笑ってさえくれれば、私は良いけど夏米がそれを望んでなかったらって……思って」

 私の視界はぼやけている。溢れる涙が鼻水がだらしなく垂れていて、恥ずかしい。けれど一度口にした言葉は溢れて止まらなかった。毎日夏米を見て葛藤していた私の心がついに言葉として出してしまった。

 夏米を生かすのか、それとも。

「その気持ちも、必要なものじゃないんでしょうか」

 私は鼻水をすすって伴さんを見る。

「だって今の馬被さんからは鮎川さんへの愛情を感じます。その気持ちもどこかで大切なことの一つなんだと思いますよ。鮎川さんの事を想えば想うほど辛い。それが生きている貴方の感情なんです。貴方は自分よりも鮎川さんの今後を案じていますね。貴方は鮎川さんに何があろうと支えようとする心があるんです。鮎川さんが目覚めて、生きていることに絶望しても、貴方なら向き合って支えていけるような気が私はしますよ。逆にこの世界から消えてしまった人たちは想いを伝えられないんです。だから、残された人たちの心を掴んで離さない。それもまた乗り越えて人は強くなります。馬被さんは鮎川さんと共に困難を乗り越える事ができますよ。だって、その証拠に」

 薄く伴さんは笑みを浮かべてカバンからA4サイズの少し厚い紙を取り出した。

「これ、馬被さんですよね」

 伴さんが取り出したのは水彩画だった。

 これはいつの記憶だろう——私は記憶を手繰り寄せる。そうだ、これは院内学級で祝日にちょっとしたイベントを開催して、その時にボランティアでみんなと大きな絵を描こうって慶樹くんが言い出して、非番でイベントに遊びに来ていた夏米と私と、これは央雅くんと——あの日、こんなにも楽しく笑っていたんだ。というよりいつの間に慶樹くんはこんな絵を描いていたのだろう。いや、あの時は鉛筆でサラサラとみんなのことを描いていたのだから後で家でちゃんと仕上げたのだろう。絵を見ていると思い出す。

 夏米と私が笑いあって、それを央雅くんが茶化して。そう言えばみんなはどうしてるだろう。私ったら本当に自分のことばかりで気が利かない。子供達の状態も後で吹炉先生に聞こう。

 そう思って私はハッと顔を上げる。

「待ってください、慶樹くんの絵」

 私の言葉に伴さんは悲しげな瞳で頷く。

「ええ、僕の弟の慶樹はバスの中にいました」

 私は思わず息を呑む。

「美術部の合宿へ向かう途中での事故だったんです。それで、慶樹の部屋でこれを見つけて央雅 おうがくんに持って行ったんですけれどこれは馬被さんに渡してあげてください、と言われました」

 私の見たかった夏米の笑顔を完全に再現されながら、どこか淡い水彩画のタッチ。

「央雅くんが……」

 あの子は歳のわりには気が効く子だ。長い闘病生活のせいかもしれないが、大人びた面も持っている。もしかしてどこかで私の状況を聞いたのだろうか。

「ありがとうございます」

 私はその水彩画を受け取った。そのキャンバスを見るだけで想いが溢れてくる。

 慶樹くんはあの短時間でここまでを記憶してくれていたことも嬉しい。いつも院内学級のボランティアに来ては子供達に構ってくれる優しい男の子だった。

 優しい兄を見て、優しい弟に育ったのだろう。私は溢れてくる涙を拭いながら、ただただ感謝の言葉しか告げられなかった。

「慶樹は人を描くのも好きだから、想いのある人のところに届けたかったんです」

 そう伴さんは笑う。

「本当に、嬉しいです。夏米が二人いるみたい。この絵の夏米も動き出しそう」

「それなら良かったです。馬被さんの笑顔も見れたことだし、僕も少し安心しました」

 伴さんの言葉にまたハッとさせられる。そうか、今私はこの絵を見て笑ったのだ。

 あの頃を懐かしく思って。

 自然と笑みが溢れたのはどれくらいぶりだろう。無理に笑って誤魔化してきた自分がいたことに気づいて、思わず頬に触れる。

「美味しいパンケーキを食べたくなったらお店にいらしてください。ぜひ、鮎川さんと」

 そう言って優しく微笑んで伴さんが病室から出て行った。

 夏米の笑顔。

 この絵の中でも、夏米は生きている。

 そして私の眼の前でも。

 真っ白い病室で、真っ白い壁と、真っ白い天井に囲まれながら、彼は眠っている。

 意識はきっと暗い暗い闇の中にあるのだろう。

 白いのに、果てしないいくつもの闇に包まれて。

 私は——

「——…る」

 ハッと夏米を見た。声がしたような気がする。いや、僅かに動いたのか。

「夏米?」

 私は急いでナースコールを押す。

「夏米、分かる?夏米!」

 ゆっくりと彼の瞼が開いた。身体が痛いのか動かせないのか小さな呻き声と共に聴こえてくる

「——は……る……」

 ——あの時、夏米をいっそこの世界から消してしまおうなんて思わなくて良かった。

 生きている。わずかでも、動いている。

 そして私の名前を呼んでいる。

「夏米、生きていてくれてありがとう。助けてくれて、ありがとう」

 涙をなるべく引っ込めながら夏米を何度も呼び続ける。

 ごめんなさい、私が一人で勝手に悩んで夏米の生を無駄にしようなんて考えてごめんなさい。


 ありがとう、目を覚まして、私の名前を呼んでくれて。


 時間が掛かっても、ゆっくりでもいいから。

 二人で生きていこう。


 困難な未来でも、二人で一緒に。

 


 

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